辿り着いたのは夕暮れだった。
道はそこで、ふっつりと唐突に途切れ、その先は、短く刈り込んだような草地がなだらかな丘となって広がり、更にその地平に、まばらな木立が見えた。くすんだ紫を帯びた赤い太陽の光が、正面の木立を赤黒く浮かびあがらせていた。
僕らは、暫くの間、そこに立ち尽くしていた。
やがて、巨大な太陽が、西の地平、丘と木立の向こうに沈むと、森や林というには木々がまばらな木立の中心が、ぼんやりと白く光りはじめた。まるで、その奥に、光り輝く奇跡を抱いているように。
そのまま歩いていくこともできたけれど、僕らは、今日はこの場に野営して、明日の朝、揃ってあの木立を目指すことにした。
白く光る木立がよく見える道の終わりに、イルクを真ん中にして座りこみ、残りわずかなレーションバーと小川の水で夕食を終えた時、バーントが誰にともなく呟いた。
「ついに、ここまで来たんだね」
「遠くて長かったけど、こうしてみると、あっという間だった気もするな」
イルクのセリフは月並みだけど、それでも本当にその通りだと思った。
明日の朝、あの木立に入り、僕らはたった一つの奇跡を目にする。そして、ただ一人の願いを叶え、その後は……?
僕らは、出会った時と同じように、唐突に、あっさりと、離れ離れになって、二度と会うこともないのだろうか。
鼻の奥にツンと刺激が走り、僕は目をしばたたかせた。
「あの、あのさ」
泣きだしそうになった自分に動揺して、気にはなっていたけど、今まで尋ねることのできなかったことが、ポロリと口からこぼれ落ちた。
「二人は……なにを、願うの?」
バーントが、イルクの頭越しに、僕の顔をまじまじと見つめた。イルクも、咄嗟に言葉を失ったみたいだ。
「あ、ごめん。ルール違反だよね、こんなの」
思わず僕が目を伏せると、バーントが静かな声で、ポツリと呟いた。
「そんなルールはなかったね、確かに」
「そういえば、なんとなくその話はしたことなかったな。まぁ明日には、同時に辿り着くわけだし、もちろん、誰かが抜け駆けさえしなきゃ、だけどな」
イルクは悪戯っぽく付け足して、続けて言った。
「話しとくのもいいかもな。なんなら、順番にみんなで告白するか?」
自分が言いだしたくせに、僕はすぐに頷くことができなかった。その間に、バーントが口の端をわずかに歪めて、了承した。
「いいよ、それでも」
「あ、ぼ、僕も」
僕は慌てて頷いた。
「じゃ、誰から? 俺から言おうか?」
イルクが軽い調子で尋ね、思わずそれにホッとした僕は、そんな自分自身がたまらなく恥ずかしくなった。
「僕が。僕が言いだしたんだから、僕が……」
そう言ったものの、喉がピタッと張り付いたように、先が続けられなかった。
言おうとした瞬間、僕は誰かに、特にバーントやイルクに、僕の自分のことしか考えていない、みっともない願い事を知られるのは、耐えられないと思ってしまった。それで二人に、呆れられたり、嫌われたりするのが、すごく、怖いと思った。
言葉を無くした僕を憐れんだのだろうか。バーントが光る木立を見やり、口を開いた。
「あたしはね、記憶」
「記憶? どういう意味?」
意気地なしな僕が尋ねたかったことを、そのままイルクが尋ねた。
「あたし、記憶がないんだよね。三年くらい前から。なんにも。真っ白。あたしにもいたはずの両親とか、もしかしたら兄弟姉妹とか、友達とか、大切な人とか、思い出とか全部。なんにもないんだ。それってね、体の中に、真っ黒な穴が空いたまま塞がらないみたいだよ。その穴がね、楽しいことも嬉しいことも全部飲み込んで、あたしにはなにもないんだ。あたし自身もなくなって、真っ黒な穴だけが残ってる感じ」
「それは事故で? それとも、病気でもしたのか? その、記憶の始まった三年前は、どこにいたんだ? 周りには誰も知り合いがいなかったのか?」
イルクは、自分のこともあけすけによく喋る質だったけど、他人のことも遠慮なしに知りたがるタイプみたいだ。僕がなにも言えずにいる間に、イルクが矢継ぎ早に尋ねた。
バーントは、チラッとイルクを振り向き、そして黙って彼女の横顔を見つめていた僕に目線を移すと、ほんのわずかに微笑んだ。僕はわけもなくどきまぎして、視線をあちこちさ迷わせてしまった。それからバーントは、再びあの木立に目をやり、自分自身に言い聞かせるように言葉を紡いた。
「事故らしいね。あたしの最初の記憶は、一人乗りの救出ポッドの中で、酸素残量のランプが赤く点滅してたこと。その後は気を失ったんだと思う。次に気がついた時は、リンディア衛星コロニーの病院。あたしの救出ポッドの記録で、そのポッドが搭載されていた船が事故で大破して、残りの船員は全滅したらしいってことはわかったけど、それだけ。それから色々調べたり、試したりしたけど、なんにも思い出せなかった。だから、最後の望みを、あの場所にかけたってわけ」
「なるほど。そうなんだ」
イルクは納得したように大きく頷くと、「俺はね」と言って語りだし、僕はやっぱり黙ってそれを聞いていた。
イルクが語り終えた頃には、とっぷりと夜は更けていたけど、僕らの中の誰一人、眠気を催した者はいないようだった。
そして僕は、二人の視線を避けるように、あの木立の光からも目を背けるように、立てた膝を両腕で抱えこみ、そこに顔を埋めるようにして、話し始めた。
僕は、ずっと一人だった。
生まれたばかりの僕を世話して育てあげたのは、海の底に沈んだ、白いドームハウスだった。元々は、少し変わった別荘として作られたそのハウスに、僕は長い間、一人で閉じ込められていた。
ハウスを管理していたのは、ハウスマザーのステラ。狂ったAIのステラ。甘ったるい砂糖菓子みたいな声で、世界には僕とステラしかいなくて、後はみんな戦争で滅んでしまったのだと、ステラは物心つく前から僕に言い聞かせてきた。
それが嘘だとわかったのは、放置され、忘れ去られたはずの僕とステラのハウスに、ハウス製造元の会社の人間が、まだ使用可能かどうか、深海アームロボットを伴って、メンテナンスと調査に訪れた時だった。
放置されたままの無人のハウスだと思っていた会社の人間は、そのハウスに僕がいるのを見て、最初は不法侵入で勝手に住み込んでいると思ったらしい。だけど、僕のDNA鑑定とステラのメモリーから、僕が生後一週間でこのハウスに誘拐され、そのままここに閉じ込められていたことを知った。もちろん、僕を誘拐したのはステラ自身じゃなく、犯人が逃亡先にこの家を使っただけだった。その犯人は、隙をつかれて、ステラに海の中へと投棄された。そうして人間を手にかけて、それが原因で、ステラは狂ってしまったのかもしれない。そうまでしてステラは、まだ赤ん坊の僕を、助けてくれたのかもしれない。
だけど。それをありがたいと思うことは、できなかった。
だって僕は、孤独だった。すごく、寂しかった。
ステラがあれこれ話しかけ、僕の喜びそうな映画やらブックフィルムやらを用意してくれたけど、僕の孤独感は、年々、時を重ねるにつれ、耐えられないくらいに増していた。
世界が僕とステラだけなら、僕が生きる意味はあるのか。どうして生きていなくちゃいけないのか、僕にはわからなかった。
「あなたは、最後の人類として、生き延びなければいけないわ。それが残された人間の義務なのよ、アモル。大丈夫、あなたには私がいるわ。私がずっと、見守っていてあげるから」
ステラが、少し鼻にかかった甘ったるい声で言う。僕はうんざりして、そして、怖かった。
だから、僕とステラだけのはずの世界が、実は多くの生命で満ちていて、望めば、遥か遠くの世界にまで飛びだしていけると知った時、僕は哀願するステラを情け容赦なく見捨て、ハウスを出て行った。僕をここまで育てあげてくれて、歪んでいるとはいえ、惜しみない愛情を注いでくれていたステラを、振り返りもせずに。
そして出て行った世界で、僕は、いくら周りにたくさんの人がいても、いや、いればいるほど、僕の孤独は埋められるどころか、益々深くなっていくことを知った。僕に必要なのは、たった一人でいい。僕のことを知って、僕の傍にいてくれる人。僕の友達と、いえる誰か。
だけど、狂ったAIに育てられ、生まれついてからずっと、生身の人間とコミュニケートする機会のなかった僕は、誰かと親しくなるどころか、会話をすることさえままならなかった。
絶望して、自暴自棄になった頃、僕はこの星のことを知った。十年に一度。それが許されるものならば、最初に辿り着いたものの願いを、たった一つだけ叶えてくれる場所があるという、この星のことを。
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