月光蝕  

 
 
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 あんな特殊な船に乗っているのは、惑星全体が液体状のアルクトゥルス人以外にない。
 彼らは、同じ海の中で、全ての生命体が溶け合うように活動しているという。そのせいか、個という概念があまりなく、常に中立的な思考と言動をとる貴重な種族として、銀河系内でも、公的な立場に就くことが多かった。
 そしてここ「最果て」でも、管理者として、道の果てを目指す者達への指示や、補給、途中離脱者の回収などを行っていた。
 アルクトゥルス人の船が、僕らから少し離れた草地の上空に停止し、涙滴から水滴形に変化した。どうやら、着陸態勢が整ったみたいだ。丸い水滴の形になって暫くは、船体がぷるぷると震え、粘着質の液体が浮かんでいるように見えた。 
 船はゆっくりと垂直に降りてくる。緑の草地に風紋が広がり、吹きつける着陸の風に、僕は目を細めた。
 赤い髪の女の子は、船に向かって歩きだしかけ、ふと、立ち止まった。僕を振り向き、自分の胸を指差しながら告げる。
「あたしは、バーント」
「バーント?」
 それが彼女の名前なのだろうか。名前にしては、珍しい響きだった。僕が戸惑っていると、彼女は目に自嘲を、口許に皮肉な笑みを浮かべて更に言った。
「バーン。バーント。焦げてるみたいでしょ、あたし」
「ああ……」
 なるほど。と、ここで納得してしまうのは、やはり失礼なんだろうか。頷きかけて言葉を飲み込んだ僕に、彼女はわずかに眉をあげた。まるで、僕の考えていることなんて、全部見透かされている気がした。
「ま、そういうこと。で、きみは?」
 どうでもよさそうに促され、僕は口ごもった。自分の名前を誰かに告げるなんて、今まで一度でもあっただろうか。 僕の名前を呼ぶのは、ハウスマザーのステラだけで、僕を呼ぶ彼女の甘ったるい声も、子供の頃は心地よかったが、ハウスを出る頃には、嫌悪と恐怖しか呼び起こさなかった。
 僕の名前を、呼ぶのだろうか。僕はそれに、耐えられるのだろうか。
 口ごもり、躊躇う僕に、彼女はまたちょっと眉をあげ、僕の中を見透かすような目をした。
「言いたくないなら、いいよ。名前なんて、便宜的なものだし。そうじゃない?」
「いや、僕は」
 言いかけて、また言い淀んだ僕を、彼女は黙って見つめた。まっすぐに、僕の全部を貫くような視線に、僕は思わず目を逸らした。逸らした先で、猫に似たレグルス人が、そんな僕らを、瑠璃色の瞳をキラキラさせながら、興味深そうに見上げているのが目に入った。
 僕は、レグルス人の視線も避けて、草原の船に目をやると、極力どうということもないように、ボソリと自分の名前を吐きだした。
「僕は、アモル」
「アモル。太陽系人の名前は素っ気ないけど、覚えやすいのが利点だな」
 レグルス人が口を三日月のように裂いて、目を細めた。おそらく、笑ったのだろう。
「アモル。そうね、覚えやすくていい名前ね」
 赤い髪の女の子もそう言って、少し、笑った。
 僕は、呼吸をするのを、忘れた。
「俺は、イルグバルザスク・ナ・ラータ・リマ。これでも略してるんだけど、長かったら、イルクでいいよ」
 レグルス人の子供のような声がしなかったら、呼吸困難で窒息していたかもしれない。僕はその声に我に返り、少し慌てて、レグルス人に頷いた。
「わかった」
 レグルス人が、いや、イルクが、また更に口の裂け目を広げ、赤い髪の……バーントが草原の水滴を見やって、僕らを指先で促した。
「とにかく行こ。貰うもの、貰ってこないとね」
 僕は頷き、バーントの後を追って、歩きだした。


 船は、アルクトゥルス人の補給船だった。
 そして、そこで僕は、ここが最後の補給地点だということ、僕らより先に、止まらずに先に行ってしまった人々は、食料が尽きて途中脱落者として回収されるだろうということ、補給された食料の量から、どうやらあと一週間かそこらで目的地に着きそうだということを知った。
 バックパックに補給された食料を詰め込むと、僕とバーントとイルクは、まるで当たり前のように、並んで歩き始めた。
 そして、その時からずっと、僕は二人と一緒に歩いた。
 二人は僕の名前を呼び、最初はその度に緊張していた僕も、いつからか気にすることもなくなり、その頃には、二人を名前で呼ぶことにも慣れた。それは、とても不思議な感覚だった。
 歩く時は大抵、僕とバーントの間にイルクが挟まり、殆ど一人で勝手に喋っていた。休憩の時も同じだ。僕は、誰かと話すことに慣れていなかったし、時折相槌を打ったり、簡単な質問を差し挟んだりするのが精一杯だった。バーントの方は、イルクの話を聞くのを、純粋に楽しんでいるようだった。
 その道の間にわかったのは、バーントとイルクは、あの標識にぶつかる前から一緒に歩いてきたのだということ。あの標識の傍で待っている間、大勢の姿を見かけたが、ああやって声をかけたのは、ほんの二、三人でしかなかったということ。
「どうして、僕に声をかけようと思ったの?」
「うーん、勘ね。勘」
「勘?」
「この人なら、一緒に歩いてくれそうだなって」
「どうして」
「一緒に歩く相手を探してたか? そりゃ、大勢の方が楽しいからさ。けど、大抵のヤツは、一人きりがいいみたいだな。例え声をかけても、断られるか、無視されるんだよ。やっぱり、あれかな。最後には一人の願いしか叶わないんだし、馴れ合いたくないのかもな。けど、道は長いんだしさ、一人っきりなんて退屈だよ。最後はまぁ、その時に考えればいいよなぁ?」
 イルクはそう言って、白い牙を剥きだして笑った。バーントも、同意するように笑って頷いていた。
 そうやって、僕らは歩いていった。三人で歩いていると、一人で歩いているよりもずっと、道程が早くて、容易に感じられるのが不思議だった。あんなに長かった一日が、驚くほど早い。
 そして七日目の朝。歩き始めて間もなく、バーントが最初に気がついた。
「ちょっと、あれ」
 と、道の先を指差す。僕とイルクは目を凝らし、すぐにイルクが頷いた。
「うん、なにか見えるな」
「え? どこに?」
 僕には、見えなかった。イルクは、歩きながら僕の膝上をポンポン、と叩き、軽い調子で言った。
「まぁその内わかるよ。なにか道の先に見えるんだ。俺は、森かなにかのような気がするんだけど」
 僕は懸命に目を凝らしたけど、やっぱりわからなかった。
「もう少し近づけば、もっとよくわかるさ」
 イルクが言って、僕らは、誰が言いだしたわけでもないのに、少し歩みを速めた。
 昼食の時間が近づいた頃になって、僕にもようやくわかった。
 どこまでも真っ直ぐに伸びる灰色の道の先、濃い緑の影が見える。
「あ、やっと見えた」
 僕が呟くと、イルクが嬉しそうに笑った。
「な? 見えただろ? 森だよ、たぶんな。いや、林かな」
「道が、ないみたい」
「え?」
「森の前が少し傾斜してるんだけど、そこに道らしいのが見当たらないんだよね」
 バーントが言った。まだそこまで見えていない僕は、曖昧に「ふうん?」と首を傾げたが、イルクは勢いよく頷いて同意した。
「そうそうそう。だよな。やっぱりそう見えるよな。どうなってんだろ。ここまできて、まさか行き止まりってことはないよな」
「行き止まりっていうより……」
 と、バーントは少し言葉を切って、夢見るように呟いた。
「ゴールなのかもしれない」



 

   
         
 
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