いつからこうして歩いているのか、もう覚えていない。
背中に背負った、くたびれたバックパックの中にある携帯食料(レーションバー)の残りは、あと二、三日分しかない。最初に渡された時、一ヶ月分はあると言われたけど、その後、何回か不規則な補給が行われたせいで、正確な消費日数はわからない。
僕が歩いている、緑の草原の真ん中を走る灰色の舗装路は、どこまでもまっすぐだった。
左右の風景も、時折、こんもりとした森が見えたり、なだらかな丘が見えたりしたけど、それ以外は果てのない草原が続いている。右手の草地に隠れて流れる細い小川も、川幅がわずかに変わったり、舗装路に近づいたり遠ざかったりするだけで、最初にこの道を歩き始めてからずっと、ただ澄んだ水を湛えて流れているばかりだ。
日中はひたすらに歩き続け、疲れたら道の傍らで休息する。お腹が空いたら、小川の水で喉を潤しながらレーションバーを食べる。そして日暮れと共に、道を外れて、草むらの中に横たわって朝まで眠る。その繰り返しの日々に、頭の中はとうに麻痺して、機械のように足を前に運んでいるだけだった。
ここがどこかも、正確にはわかっていない。
どの星系にあるのか、正式な名前はあるのか、ただ「最果て」と呼ばれる惑星。
空には巨大な赤い星。
少し赤みを帯びた光が最初は気になったけれど、今はほとんど意識もしない。空気はひんやりとして、涼しいくらいだ。歩いている間は丁度いいけど、夜は少し肌寒い。
いつからかなんて、ここがどこかなんて、どうだっていい。ただ、この道の果てに、自分が望むものがあるということが、わかっていればよかった。
幅六メートルほどの道路の真ん中を歩いていた僕は、そろそろ今日二度目の食事をとる頃合かもしれないと感じ、斜めに道を外れ、緑の草地に足を踏み入れた。
硬い舗装路を歩いていた足に、土と草のやわらかさが心地いい。踏みしだかれた草の匂いが鼻先に届くと、僕はその匂いを鼻腔いっぱいに吸い込むように、大きく深呼吸した。
十メートルほど歩くと、ジャンプして跨ぎ越えることができそうなくらいの川幅の、澄んだ小川があった。
僕は背中から黒いバックパックを下ろし、ファスナーを開けて、中からレーションバーを一本と、あちこちぶつけてデコボコになった、真鍮製のマグカップを取りだした。
小川の水をマグカップに満たした僕は、バックパックを背もたれ代わりにして、腰を下ろし、半分ほど水を飲んだ。その水は、いつ飲んでも、ひんやりと冷たく、疲れた体にキラキラと光の欠片を散らして染みわたっていくような気がした。
カップを傍らに置き、レーションバーの包装紙をビリビリと破く。右手で握って、左手で左のふくらはぎを揉みほぐしながら、一口齧る。しっとりとして、味は悪くないはずだったけれど、すっかり食べ飽きて、もはやおいしいとは感じられなかった。それでも、ないよりはマシだ。もしなくなってしまったら、どうすればいいんだろう。遠くに見える森にも、この澄んだ小川にも、捕まえて、食べられる生き物がいるかどうかわからないし、捕まえ方もわからない。
あと、二日か三日以内に補給船が現われなかったら? 僕は初めて、それを不安に思った。
雲のない、赤い空を見上げた。
道の先にも、歩いてきた方角にも、船影どころかなにもない。そういえば、随分と前から、あの道を歩く他の誰かの姿を見ていない。
僕は機械的にレーションバーを齧り、咀嚼し、マグカップの水を啜り、半ば無理矢理飲み下しながら、果てなく伸びる一本の道に目をやった。
始まりの地、銀色のゲートをくぐって、どこまでも続くあの道を歩き始めた当初は、時折、前方や後方に人影がチラつき、時には、道端で今の僕と同じように休憩している誰かに出会ったりもした。誰もが一人きりで、出会っても挨拶ひとつ交わすことなく、目的地に向かってただ歩き続けていた。
そして僕も、その中の一人だった。
道の果て。地平線の彼方。
一度だけ。最初に辿り着いたものの願いを叶える、奇跡の場所。
この世の果てにあるという、その場所を目指して、歩き続ける一人だった。
食事と休憩を終え、再び歩きだした僕は、はるか前方に目を凝らした。
だけど、地平線の彼方に吸い込まれていく真っ直ぐな道以外、相変わらずなにもなかった。
と、その時、
「ん?」
僕は目を細めた。道の先に、なにか白っぽい筋のようなものが見える。
「なんだ、あれ」
それは、灰色の道の左端にあって、細長い棒のように見えた。
僕は、歩調を速めた。それが単なる目の錯覚じゃないと、早く確かめたかった。
やがて、それの形がハッキリしてくると、僕はもう一度、
「なんだ、あれ」
と呟いた。
白い棒の先には、赤い三角形の板がくっついている。更に近づくと、その三角形の板に、銀河標準語の文字が書かれているのがわかった。
止まれ。
そう書いてあった。
僕は、その正体不明の物体の三メートルほど手前で、書かれた文字の通り立ち止まり、ポカンと口をあけて見上げた。
「なんなんだ、これ」
それは単なる独り言のつもりだった。まさか、それに応える声があるなんて、思ってもみなかった。わずかに掠れた声には、かすかな笑いが含まれていた。
「一旦止まれってことなのか、ずーっと止まっとけってことなのか、そこが問題だよね、それ」
「えっ!」
僕は思わずビクッと飛び上がり、反射的に声の方を振り向いた。
この辺の草原の草は、僕の膝上くらいあるのかもしれない。その濃い緑の草地の中に、赤い炎が咲いていた。
本当に、真っ赤な髪だった。燃えあがる瞬間の炎のような髪型で、肌の色はミルクチョコレート。吊りあがった大きな目は、常緑樹の葉のような深い緑色で、鼻は小さめ。唇は髪と同じように赤い。体にピッタリと張りつくような黒いスーツを着ていたから、その声の主が、細身の、胸もやや小振りな女の子だということがわかった。
僕は、最初の数秒間、瞬きをするのも忘れ、その後、ぎゅっと強く目を瞑って、また目を開けた。炎のような女の子は、うんざりしたような、それでいて面白がるような顔で、わずかに首を傾げてみせた。
「ね? きみは、意味、わかる?」
「え。いや、僕は」
なんて言っていいのかわからない。この唐突な、「止まれ」も、忽然と現われた女の子にも、まだ思考が追いついてこない。困惑して、よくわからないことをごにょごにょと呟く僕に、赤い女の子は、僕にはわからないものと決めつけたようだ。
「わかんないよね。うん。あたし達もそれで困ってるんだよね」
「……あたし達?」
彼女は頷いて、くるりと後ろを振り向き、大声で呼ばわった。
「ねえ、ちょっと来てくれる? どうやら、お仲間みたい」
「そっか。じゃ、俺も挨拶しないとな」
「子供?」
彼女の位置から数メートル離れた場所から聞こえた、性別のハッキリしない高めの声は、まだ小さい子供の声のようだった。
赤い髪の女の子が、チラッと僕を振り返り、僕は自分が当たり前のように独り言を呟いていたことに気付いた。僕はぎゅっと唇を引き結び、これ以上余計なことは言うまいと、固く心に誓った。
声がした場所の草がガサガサと揺れ、緑の蛇のように揺れる草の軌跡が、彼女の横をすり抜け、僕に近づいてくる。彼女の腰より低い草むらから、その姿が現われないということは、よっぽど小柄な人物なんだろうか。
僕がそんなことを考えている間に、僕のいる道路の脇の草が大きく揺れ、そこから、小さな影が現われた。
「……猫?」
余計なことは言うまいと誓ったはずなのに、思わず呟いていた。それはかなり小声だったはずだけど、相手はしっかりと聞きつけて、最初に赤い髪の女の子が見せたような、うんざりとして、それでいてどこか面白がるような口調で言った。
「猫じゃないって。あんたら太陽系人に会うと、必ずそう言われるくらい、その猫という生き物に似ているのかもしれないけどな。俺の故郷はレグルス。太陽系原産の猫種族との繋がりはないよ」
実際に猫を見たことがあるわけじゃないけど、それでもレグルス人だというそれは、以前ブックフィルムで観たことのある、猫、にとてもよく似ていた。
尖った三角の耳。大きな、吊り上った目は瑠璃色。あまり長くない毛色は銀色で、細かい光の粒子をまぶしたようだ。後ろ肢で立った身長は、六十センチくらいだろうか。
僕の知っている猫との違いは、後ろ肢で立っていることと、四肢のでる黒いジャンプスーツを着ているぐらいだ。目や毛色が珍しいかは、よくわからない。胸元に丸くて青い、ガラス玉のようなペンダントをぶら下げている。翻訳機かもしれない。
猫と間違えたことを謝罪しようか、それとも彼らの正体を確かめることが先だろうかと迷っていると、猫によく似た銀色のレグルス人が、三角の耳をピクピクっと動かし、目をまんまるに見開いた。
「あ、来るよ」
レグルス人が頭を巡らせて南東の空を見上げた。その視線を追って、僕は、彼方に光る物を見つけた。
それは、僕が見つめている内にも、滑るように近づき、涙滴形の青い船の姿になった。涙滴形というか、翼もエンジン部も見当たらないその船は、涙の雫そのもので、光を反射し、キラキラと光っている。外壁は、金属というよりゼリー質に見えた。見る度に、あの不思議な船体を一度触ってみたいと思っていたけど、未だにそんな機会はない。触れば、そのままズブズブと飲み込まれてしまうのだろうか。それとも、少し震えて撥ね返すのだろうか。
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