白い線がカッターの刃が通った道筋に引かれ、やがてじわじわと色を変えていく。黄緑色でもなく、銀色でもなく、それは赤だった。
奥からにじみだしてきた赤いものをぼくに示し、センセイ(?)は親指と人差し指で、その周りをぎゅっと押す。圧迫されて赤い血玉が、ぷくりとテントウムシのようにふくれあがった。
「ほら、これは本物の血だよ。これで信じてもらえたかな」
ぼくは、目を伏せた。
「……ごめんなさい」
「いやいや、いいんだよ。わかってくれればね。 さ、このクスリを飲んで少し休みなさい」
「はい」
ぼくは、寛大に微笑み、手のひらの血を指先でぬぐったセンセイから、白い錠剤と赤と黄色のカプセルを受け取って、こっくりと頷いた。センセイを疑ってしまったことが、少し恥ずかしかった。センセイは、やっぱりセンセイだった。
ベッドの脇には緑色の、引き出しつきの台があって、その上には水差し。ぼくは、センセイとオカノサンの見守る前で、なまぬるい透明の液体といっしょにクスリを飲み下した。のどの奥に、ごりっとした異物感が残る。唾を飲みこんでも、その感触は消えなかった。
そしてセンセイは、ぼくがクスリを飲むのを見届けると、
「それじゃあ、また明日、来るからね」
と告げて、白衣のポケットに両手をつっこんでぼくに背を向けた。
カツン
重くて小さなものが落ちる音がした。
どこから落ちたのか、銀色の小さなパチンコ玉。クリーム色の、リノリウムの床をころころころところがっていく。
ぼくは一瞬、声をなくして息を飲む。
ころがっていったパチンコ玉は、立ち去りかけたセンセイの、ぴかぴかの茶色の靴にこつん、とぶつかり、センセイは、ふと、足元に目を落とす。
ぼくは息もできない。
センセイは、腰をかがめてそれを拾いあげると、何事もなかったかのようにポケットにしまいこみ、チラ、とぼくを振り向いた。肩越しに振り返ったセンセイは、ひどく無表情で、ただその目の色だけが、ギラリと銀色に光ったようだった。
そしてなにも言わず、センセイはぼくに背を向けて部屋をでていった。
パタン、と扉が閉まり、カチャリと鍵が掛かる。
ぼくはガタガタとふるえだした。
今のは、どういうことだろう。なんて、わかっている。わかっている。あれはパチンコ玉。ギラリと光る銀色の。
宇宙人の中は、黄緑色した靴べらと、銀色に光るパチンコ玉でいっぱいだ。カチカチ、シャリシャリ、ちいさな虫がびっしりとつまって、互いに触れあっているように、その糸のような肢が擦れるように、宇宙人の中はパチンコ玉でいっぱいだ。
傷口からこぼれ落ちるのは、パチンコ玉。皮膚の裏側には、疑われたときのために、犬の血が入った血袋がところどころに張りつけてあって、その奥には、やっぱり銀色のパチンコ玉が光っている。
(逃げなくちゃ)
とぼくは思った。このままここにいたら、ぼくもやがて中身をごっそり取り替えられてしまう。
ぼくは掛け布団をはねのけて立ちあがった。
ドアには鍵がかかっている。窓には鉄格子がはまっている。ドアノブを掴んで回す。ガチッと音がして、すぐに動かなくなった。何度も何度も捻って回して押して引く。開かない。
「開けろ! 開けろよ! 出せェッ!」
堅いドアをバンバンと掌で叩いて叫んだけれど、それに応えるものはなにもなく、物音一つしない。ドアのすぐ向こうで、だれかが息をひそめているような気がした。
「いるんだろッ そこにいるんだろ! 開けろよ! 開けろォォぉ!」
喉が痛い。喉につかえた錠剤が気道をふさいでいるように、息が苦しい。
ドアを諦めたぼくは、鉄格子のはまった窓に向かった。ガラスを叩き割るような勢いで拳を振り下ろし、強化ガラスのふるえるのを感じる。
ガラスがふるえる。
泣いているようだった。叫んでいるようだった。ガラスをふるわせて語るのは、
シリコーンの宇宙人。
青い、とても青い目をしていた。
いつかぼくは、ふるえているのは窓ガラスなのか、ぼく自身なのか、それとも世界そのものなのかわからなくなった。
頭が重い。体がだるい。手足が痺れたようにうまく動かせない。
あのクスリのせいだろうか。
ふと脳裏を掠めた思いを、確かな形にすることもできずに、ぼくは叩き続けた。だんだんと弱まる力と現実感を意識しながら、叩き続ける。
強化ガラスの向こうの白い鉄格子が鈍く光っている。 白灰色の空よりも、ぼくは灰色だった。
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