月光蝕  

 
 
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7


〈ボクハダイジョウブ ソレダケヲツタエテ〉
 ソイツの乳白色の手が、ガラス越しにぼくの手に触れて、そして震える。
〈ツタエルヨ ソレジャアサヨウナラ〉
〈サヨウナラ マタイツカ〉
〈マタイツカ〉
 弾力のある牛乳のような宇宙人は、とろけだすような姿には不釣合いなほど、ひどく優雅な一礼をぼくに送り、ベランダの柵を越えて、するりと消えた。
 向かいの家の窓に、オレンジ色のカーテンがゆれている。ぼくは、
 くたり、と膝から崩折れるように、座りこんだ。ぼくの熱であたたかくなった窓ガラスを指が伝い、白っぽい皮脂の跡と、かすかな悲鳴のような音を残した。
(ぼくは……?)
 グルグルぐるぐる。
 世界は攪拌機の中に放りこまれたみたいに、ぐるぐる回る。木星の雲のように、激しく渦をまいて流れていく。世界の始まりは渦だった。
 そしてぼくは、救いを求めるみたいに、ゆっくりと制服のポケットに右手を差し入れた。
 公園の砂場に埋まっていた宇宙船。あれは夢なのだろうか。これは幻覚なのだろうか。
 ぼくの手の中にあの、シリコーンでできた小型宇宙船が感じられたなら、なにが夢で現実か、少しわかるような気がして。
 ぼくはポケットの中を探り、サッと青ざめた。
(ない)
 宇宙船はポケットの中にあった。あの日も、そして今日も。
 だけど、ない。
 ぼくは血の気を失ってポケットを探った。ブレザーの右ポケットだけじゃあなく、制服のポケットというポケットはみんな。上着を脱いで、ひっくり返してパタパタやってもみた。
 なのに、ない。ない。ない。ない。ナイ。
「……ウソだろ?」
 あれはぜんぶ、ただの幻だったというのだろうか。それじゃあぼくは、なにが本当で嘘なのかわからない。わからなくなってしまった。
 ガラスの振える振動音で会話するぼくは、あれは現実? わからない。
 もしも、あれが現実だというのなら、それならぼくは……?
 でも、ぼくにはこの星以外の思い出なんて……ない?
 でも。でも。
 胸の中の小人が、断末魔のダンスを踊る。
 ぼくは胸を押さえてうずくまった。こめかみから重い汗が流れおちる。息が苦しい。
 昼間の月は、いまもひそかに輝いているのだろうか。


 ぼくはゆっくりと目を開けた。
 夢の中でぼくは、思いついたことがある。
 ポケットから消えた宇宙船。ぼくの部屋のベランダにいた宇宙人。ガラスを振るわせてする会話。
 あれは宇宙人の精神電波が見せる幻。 ジャングルジムの宇宙人。背の高い宇宙人と小柄な宇宙人が、ぼくを惑わせるために見せた幻。ぼくは確かにあいつの目を見た。ポケットにはあいつらの宇宙船があったし、ぼくのココロの力も、少し回復していたから、ぼくは大丈夫だと思ったけれど。
 大丈夫じゃあなかったってことだ。
 目から目に伝わる精神電波で、ぼくは記憶を奪われる代わりに、偽りの記憶を植え付けられた。そういうことなのだろう。
 ポケットの中に、今も宇宙船が入っていたなら、ぼくの想像は当っていたってことだ。もしも空っぽだとしたら……  
 あの公園で、二人の宇宙人に会ったとき、精神電波で操られて、宇宙船を取り返された記憶を失ったからだ。
 確かめる術は、それじゃあなにもない?
 でも、証拠など要らない。ぼくは、わかる。ぼくにはわかる。ぼくが自分で真実を知っているのなら、それで充分じゃあないか?
 そしてぼくは、顔の向きをかえて、窓の外を見やった。



 

   
         
 
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