青は、発泡する紫と緑が二層になった液体の入ったロンググラスを口元に運びながら、瑪瑙が店の奥の暗闇から、こっちへ戻ってくるのを見た。
「戻ってきたみたいだぜ」
最初よりは少しリラックスした様子で、オレンジジュースをストローで飲んでいる碧玉に声をかける。
「ほんとですか?」
碧玉は振り返り、青の言葉を確かめると、ホッとしたように頬をゆるませた。
「よかった」
小さく呟く。青も、口には出さなかったが、内心ホッとしていた。
静かでいい雰囲気の店だとは思うが、絶え間ない不安感と落ち着きのなさが胸の奥に燻っている。ファミリーがほぼ公然と取り仕切っている場所なんて、近寄らないに越したことはない。翡翠とえみちのことさえなければ、絶対に足を踏み入れようとはしなかっただろう。短気で喧嘩っ早いが、小心者なところもある青だった。
瑪瑙は、二人のテーブルまでやってくると、青のグラスに目をやり、呆れたように言った。
「またそんなの飲んでるのか? そんなのばかり飲んでるから……」
見るからに不健康そうな色合いをしてるのは認めるが、美味しいと思って飲んでるものにケチをつけられたくはない。それに、その先に続くセリフはきっと、もの凄く不愉快なものに違いない。
青がジロリと睨みつけると、瑪瑙はハッとしたように口を噤み、わざとらしく目線を逸らした。
「飲んでるから、なんだよ」
「いや、別に」
ごまかされると追求したくなる。よせばいいのに、青は更に強い口調で問い詰めた。
「いいから言えよ。飲んでるからなんだってんだよ」
瑪瑙は青に視線を戻し、上から見下ろしながら、ひどくハッキリした口調で言った。
「飲んでるから、大きくなれないんだぞ」
「……思いっきり、ストレートに言いやがって」
「お前が言えって言ったんだろ?」
「モノには言い様ってモンがあんだろっ」
「どう言っても、言いたいことは同じだと思うけどね」
「なんだと!?」
青は強くテーブルに手をつき、瑪瑙を睨みながら眉間にきつく皺を寄せた。だが、瑪瑙は青の怒りなど意にも介さず、更に淡々と言った。
「どうしてもって言うなら、言い方を変えるよ。そんなものばっかり飲んでるから、身長が不自由なんじゃないのか」
「ってめ! 不自由とか言うんじゃねェっ」
思わず興奮して立ち上がった青の耳に、聞き捨てられない言葉が飛び込んできたのは、その時だった。
「うるせえチビだなァ」
小さい小さいと瑪瑙にからかわれるのは日常茶飯事だったが、「チビ」と直截的に言われるのは久しぶりだった。
十七年間、そう言って馬鹿にする奴らは、実力行使で黙らせてきた。今では、青を知ってる者の中で、その身長を馬鹿にしたり、からかったり、時には憐れんだり(これが一番キツい)するような相手は、家族とどれだけ怒っても堪えない瑪瑙くらいなものだ。
かなりのブランクを置いて言われた「言っちゃいけない言葉」に、青は過敏に反応して、臨戦態勢で言葉の主を振り向いた。
青に対して禁句を口にしたのは、カウンター席に座った三人組みの一人だった。くたびれたボア襟の皮ジャンを着て、振り返った青を挑戦的に睨みつけている。その肌は首や耳まで真っ赤で、白目は充血し、かなりの勢いで「できあがって」いる。
その横に並んだ、鋲打ちされた黒い皮ジャン姿の連れも、赤い顔にニヤニヤ笑いを貼り付け、仲間を諌めるつもりはないようだ。
「てめェ、今なんつった?」
パッと見ただけでも、相手の方が体格もいいし、喧嘩慣れもして見えた。
自分の連れが加勢したとしたら、数的には対等かもしれない。だが実際は、碧玉を数に入れるわけにはいかないし、瑪瑙が喧嘩しているとこなど見たこともないし、するとも思えない。実質的には三対一だ。
だが、それでもよかった。元々、瑪瑙や碧玉に加勢を求める気はないし、相手が何人だろうがそんなのはどうでもいい。
(俺のことをチビなんて呼びやがる奴は、絶対ぶっとばす!)
だけだ。
爆発寸前の青の問いかけにも、二人の男は平然とうすら笑いを浮かべ、声をかけてきた男は喧嘩腰に禁句を繰り返した。
「うるせえチビだって言ったんだよ。チビのガキのくせにナマイキに女二人もはべらして、調子こいてんじゃねェぞ」
はべらせるとか、瑪瑙を女と数えることとか、納得いかないことは他にもあったが、やっぱり青の頭に血を上らせるのは、「チビ」の一言だった。
「俺を、チビなんて言うんじゃねェっ」
「はぁ? チビをチビと呼んじゃいけねェ決まりでもあんのかよ? つーか、チビすぎてカウンターに手も届かねェんじゃねェの?」
男の下らない冗談に、仲間はわざとらしく大声で笑った。
「この野郎っ」
次の刹那、青はテーブルに飛び乗り、そこから、まだ笑い続けている最初の男の顔に、空中から跳び蹴りを放った。白いコートが翻る。
「タマ、やめろ」
瑪瑙が制止した時にはもう遅い。いつもなら敏感に反応するその呼び名さえ耳に入らないほど、青はすっかり頭に血を上らせていた。
いきなり空中から襲い掛かってくるとは、さすがに予想してなかったのだろう。男はモロに蹴りを食らって、椅子から転げ落ちた。
と、反射的に立ち上がった仲間の一人の腹に、青が拳を叩き込む。
先ほどから不穏な空気を感じていた客たちが、遂に始まった騒ぎに大きくざわめく。
腹部に一発もらった男は、顔をしかめながらもそれを耐え、青の頭めがけて上から拳を振り下ろした。
青はそれを右に避け……たはずだったが、床に崩れおちた男に、足を取られた。頭部への一撃は避けられたが、左肩に直撃を受けて、少しよろめく。
その間に、もう一人の男が青の背後に回りこみ、フラつく青の背中を蹴りつけた。
「このガキ、ふざけやがってっ」
蹴られて床に転がった青の腹や背中を、二人がかりで蹴りつけてくる。青は咄嗟に体を丸め、防御の姿勢をとった。
「おい、お前ら。子供相手になにやってんだ」
と、事態を見かねた客の一人が、一方の肩を掴んだ。
「余計な口出しすんなよ。おめェに関係ねェだろが」
「関係ないことないだろ。こっちはここでゆっくり飲みたいんだ。そんな騒ぎ起こされちゃ迷惑なんだよ」
強く、だが冷静な口調で言われて、男は益々カッとなったようだ。
「ああ、そうかよっ」
一声叫ぶと、仲裁に入った客を力任せに蹴りとばした。
客の男は吹っ飛び、グラスや料理の皿が乗せられたテーブルに背中からつっこんだ。ガラスや陶器の割れる音と、奥の席から響いた女の悲鳴が重なる。その席にいたスーツ姿の男は、高そうなスーツに酒やら食べ物やらをぶちまけられて、ヒステリックにテーブルの上に滑りこんできた男に指をつきつけた。
「おいお前、なんてことしてくれるんだ! 弁償してもらうぞっ」
「うるせェっ」
冷静に仲裁に入ったはずの男は、いきなり殴り飛ばされた上にヒステリックに文句をつけられ、一気にたがが外れたようだ。
喚くスーツの男を殴りつけ、その男が今度は隣のテーブルの上をメチャクチャにするのに見向きもせず、自分を蹴り飛ばした男に飛び掛っていった。
「てめェ、ぶっ殺してやる!」
その間、瑪瑙は、素早く碧玉を連れて店の端まで避難していた。だが、このままでは、被害と喧嘩は広がる一方に見える。
そして青は、自分を蹴りつける男が一人になったと見てとるや、タイミングを見計らって横に転がった。男の足が空を切り、バランスを崩した。
その瞬間、両手をついて起き上がり、男の軸足を垂直の回し蹴りで薙ぎ払った。
「うわっ」
男は見事に尻餅をついた。
青は、その間に立ち上がり、今度は最初の跳び蹴りの衝撃からようやく身を起こした男の顎を、力任せに蹴り上げた。やっと起き上がったと思った男は、そのまま意識を失った。
「いいか!? 二度と俺を、チビなんて呼ぶんじゃねェっ」
既に意識のない相手に青が言い聞かせている間に、店内は更に混乱と混沌を深めていた。
気づけば、いたるところで喧嘩がはじまっている。止めようとした店の従業員までも、殴られ、カッとなって喧嘩に参加する始末だ。
店の隅の方に避難していた瑪瑙と碧玉のところにも、その火の粉が降りかかろうとしていた。
「ガキがこんな店ウロつくなっ!」
既に色んなところで殴られたり蹴られたりしたのだろう。短時間で顔中が腫れあがって、唇から血を流しながら碧玉に食ってかかったのは、スーツを汚されたあの男だった。碧玉は、ビクッとして、腕の中のアレクサンダーを強く強く抱きしめ、瑪瑙の影に隠れるように身を竦めた。
瑪瑙は、碧玉を庇うようにして男の前に立ちはだかり、周囲の熱気を一気に凍らせるような冷ややかな声で言った。
「八つ当たりはやめてもらおう」
「な、なんだと?」
スーツの男は、自分と変わらない身長の相手を見やり、文句を言おうとその目を見て、途端に声を失った。
その口調よりも冷ややかな目に、熱くなっていた頭の中が完全に冷え、背筋を悪寒が走る。
その男は、確かに喧嘩慣れも修羅場慣れもしていないかもしれない。だが、瑪瑙から発散されるぞっとするような冷たく重い空気。これこそが殺気というものだと思った。
噴きだした汗が首筋を伝い、男は慌てて、なにか言葉にならないものを言い訳がましく呟きながら、二人に背中を向けた。
急ぎ足でその場を離れようとする男の横から、もつれあうようにして殴り合う二人がぶつかり、男はそのまま、最後の一撃を食らって、気を失ったようだった。
「まったく、全然収拾がつきそうもないね」
因縁をふっかけてきた男を追い払うと、瑪瑙はため息まじりに呟いた。
「どうするんですか?」
碧玉が怯えたまなざしで問いかける。
「さぁ? ただ、これ以上騒ぎが大きくなると、ちょっと厄介かもしれないな。ファミリーの耳に入って、目をつけられるようなことになりたくないしね。とはいえ、この騒ぎの中からあいつだけ連れて逃げるのは……難しいね」
碧玉は、そう言って腕を組んだ瑪瑙を見上げ、少し考えこんだ後、小さな声でためらいがちに言った。
「あの……もしかしたらそれ、できるかもしれません」
「できるって?」
「でも、もしかしたら、もっとひどいことになっちゃうかも」
話してみろと促され、碧玉は、店内の騒ぎに時折声をかき消されそうになりながらも、腰を屈めた瑪瑙の耳元に爪先立ちで囁いた。
瑪瑙は、黙って碧玉の話に耳を傾けていたが、聞き終わると、にっこりと笑って頷いた。
「それで、いこう」
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