その店に一歩足を踏み入れた途端、青は、どこかの森に迷い込んだような気がした。
天井一面に埋め込まれた照明パネルは、店の中央にある楠の巨木と、その周りのエンジュ、シンジュ、ヒメシャラ、ナナカマドなどの生い茂った枝葉で、やわらかな木漏れ日となっていた。もちろん、本物の樹木ではないだろうが、いかにも作り物めいた感じはない。
入って左手にあるバーカウンターは、下からの青い光で照らされ、まるで、森の奥に見つけた泉のようだった。
店内に置かれたテーブルは、全てウッドテイストの素朴なもので、小さなランタンが一つずつ置かれている。椅子は深緑の低いソファで、ゆったりと落ち着けそうだ。
所狭しと置かれた観葉植物の鉢植えが、それぞれのテーブルを区切り、個室感を与えている。
そういえば、会社の会議室に飾ってあったのも、森と泉の風景だった。雪と氷に覆われたルパだから、こんな豊かな森の景色に憧れるのだろうか。
地下に下りてから、真っ直ぐ瑪瑙に連れてこられたこの店で、瑪瑙は誰か探しているようだった。
素早く店内を一瞥し、暗い隅に目を凝らした瑪瑙は、そこに目指す相手を見つけたのだろうか。青と碧玉を振り向き、
「ちょっと、知り合いと話してくるよ。適当に座って、休んでな」
近くの空席を指し示した。青は、眉をひそめて異を唱えた。
「そんな場合じゃねェだろ。あいつらの情報を集めるんじゃないのかよ」
「もちろん、そのつもりだよ。だから、一番手っ取り早くて、確実な方法を使おうとしてるんじゃないか」
「?」
「いいから、そこで待ってろ。それとも、こんな店に入ったことがなくて、怖いのか?」
薄く笑って顔を覗きこむ。
「んなわけねェだろっ。勝手に、話でもなんでもしてこいよっ」
思うツボの反応に、瑪瑙の笑みが深くなる。それから瑪瑙は、
「じゃあ、後でな」
片手をかるくあげて別れを告げると、森の奥の奥、より暗い方へ歩いていった。
青は、目の前で怒鳴ったことをひそかに反省しつつ、隣の碧玉に顔を向けた。
碧玉は、アレクサンダーをぎゅっと抱きしめて、酒を飲んでいる大人ばかりの店内を、少し不安そうに見つめていた。青以上に、こんな場所に馴染みがないのだろう。
(ここは俺がしっかりして、安心させてやんなきゃダメだよな)
そう思った青は、極力明るい声で言った。
「んじゃ、なんか飲んで、あいつが話し終わるの待っとくか」
「でも、お酒しか置いてないんじゃないですか?」
「んなわけないって。大丈夫だよ、ホラ、そこ、とりあえず座っとこうぜ」
「はい」
まだ不安げな表情を浮かべながらも、碧玉はこっくりと頷き、青の指差した四人掛けの席に、そっと腰を下ろした。コートを着たまま、アレクサンダーも抱えたままなのが、碧玉の落ち着かなさを物語っていた。
青は益々(俺が守ってやんなきゃ)的想いに駆られ、自分にでき得るだけの明るさと場慣れした雰囲気を総動員して、空いたグラスをトレーに乗せて近くを通りがかった店員に声をかけた。
「あ、ちょっと」
「はい、なにか?」
あんたらみたいなお子様達がうちの店に用でも?
そう言わんばかりの表情が、一瞬、年若い女の店員に浮かんだ。その表情はすぐに消えたが、どこか訝しむようなぎこちない笑顔の店員に、青は、
「メニュー、あるか?」
こっちは客だぞ、文句あるか的口調で尋ねた。
「そちらのランタンに触れてください。メニューが表示されますので」
「ランタン?」
青は、女店員の視線の先を追って、テーブルに視線をさ迷わせた。
「これだと思いますよ」
そう言って、碧玉がテーブルの上を淡く照らすランタンに手を触れると、メニューらしきホロ映像が、ランタンの上に浮かびあがった。
「あっ、これか」
「お決まりになりましたら、お声かけください」
店員はそれだけ言うと、さっさと離れていってしまった。青は、碧玉に向けて、少し気まずそうな照れ笑いを浮かべた。
「あ、じゃあ、先に選んでいいよ」
「ありがとうございます」
碧玉が、かすかに微笑む。ほんの少し、緊張もほぐれたようだ。
青は、碧玉がメニューを選んでいるのを、この後なんの話をしようかと思い巡らせながら、ぼんやりと眺めていた。
瑪瑙は、青と碧玉が入口近くの席に座ったのを、チラっと振り向いて確認すると、鬱蒼と生い茂る木々で暗く影になった店の最奥の席に向かった。
そこに誰かいることを、この店の何人が気づいているだろう。
黒っぽい厚手のマントは足首まである。足元は少し汚れたつま先の丸いブーツ。黒い長袖の服と第一関節から先が出るアサルトグローブをはめた手を、マントの合わせ目からテーブルの上に出して、空になったショットグラスを両手で玩んでいる。
テーブルの上には、ウィスキーの空のボトルが一本、半分まで空いたボトルが一本、伏せたグラスが一つあった。鼻先から肩までは暗灰色の大きめのネックウォーマーで覆われ、不揃いの黒くて長い前髪が、顔の表情をわかりにくくしている。それでも、唯一表情の見える鳶色のその目は、何気ない風を装いながらも、店内に出入りする全ての人物をチェックしているようだった。
暗い隅に陣取って、黒っぽい服に埋もれた姿は、影に沈んで殆どの目からその存在を隠していたが、それでも、特に注意深い者や、探すべき場所を知っている者には、ちゃんとわかった。
瑪瑙は最初から探すべき場所を知っていたようで、そんな彼女が自分を見つけて歩いてくるのを、その人物も待っていたようだった。
「いつ、ここに?」
瑪瑙が目の前に立ち止まった時、相手から声をかけてきた。その声は、意外に若い、男のものだった。
「ついさっきだよ」
そう答えて、瑪瑙は、男が座るようにと手で示すのに従い、男の前のソファに深く腰をおろした。
男は瑪瑙が座ると、片手で口の開いたボトルを掴んだ。伏せてあったグラスをひっくり返し、そこに琥珀色の液体を注ぐと、自分の空いたグラスにも同じように注ぐ。
それから、自分のウィスキーを一口啜ると、目線だけで、離れた席に座る青と碧玉を指し示した。
「向こうにいるのは連れ?」
「会社の同僚だ」
「ふゥん。……ジル、結構気に入ってるんだ?」
久しぶりに本名で呼ばれた瑪瑙は、面白がるように問い返した。
「どうして?」
「わかるよ、そのくらい。普通にしてるつもりかもしれないけど、聞かれた時にちょっと笑ったろ? それに、ここに来る前のやり取りも見てたよ。ジルが気に入りそうな奴だ」
それを聞いた瑪瑙は思わず笑いだし、笑顔のまま言った。
「久しぶりにからかい甲斐のある奴でね。お陰で最近、退屈しないで済む」
「ジルが退屈してないってことは、周りの奴らにとっても平和でいいことだね。それで? どうして急に戻って? 俺に、新しい自慢のオモチャを見せびらかしにきたわけじゃないよね?」
「それも一つの理由かもね。けど、ここに来たのはもちろん、アル、お前に頼みがあるからだよ」
「探し物?」
「そう、これを見てもらえるか?」
瑪瑙はコートのポケットを手探りして、銀色の折り畳み式ホロカードを取りだした。アル、と呼ばれた男は、瑪瑙の手からそれを受け取ると、パチッとロックを外し、自分にだけ見えるようにしてカードを開いた。
「……どっち?」
瑪瑙に渡されたホロカードには、アンバーに頼んでカードに記録してもらった、船内で映された翡翠とえみちの姿が立体的に浮かび上がっていた。翡翠もえみちも楽しそうな笑顔を浮かべている。
「両方だよ。つい数時間前に、攫われたとこでね」
「相手はわかってんの?」
「海賊だ。名前は、シャウラにテス」
それを聞いた途端、アルはぎょっとしたように顔をあげ、鳶色の瞳でまじまじと瑪瑙を見つめた。そして、瑪瑙の表情から、今のが冗談ではないと悟ると、さっきより声を潜めて言った。
「そりゃ結構な大物だね。リーパー船を持ってるって噂だけど?」
「事実だよ」
「そっか。ジルがそう言うなら確かだね。覚えておくよ。攫っていった理由も知ってるとか?」
「単純に金になるから、という可能性が一番高いね。その人間の方はハイファミリーの出だしね」
「ハイファミリー? この顔立ちからしたら、フォーリッジ、サウスゲート、シルベストル、デュガリーのどれかってとこ? 中でもこのぐらいの歳の奴がいるのは、フォーリッジかシルベストルだと思うんだけどな」
翡翠の顔を見ただけでそこまで絞りこむことのできるアルは、この星系内でもトップクラスの情報屋だった。
「フォーリッジ家の次男だそうだ」
「ふゥん、これがそうなんだ。小さい頃に公開された家族写真しか見たことがないから、すぐにはわからなかったよ。でも、身代金目当ての誘拐なんてするタイプじゃないと思うんだけどな。さっきの奴らなら」
アルはちょっと首を傾げ、ホロカードとパチリと閉じると、それを瑪瑙に返した。カードを受け取った瑪瑙は、すぐにポケットにしまい、アルの言葉に頷いた。
「ああ、目的はそうじゃなかったようだよ。モノのついでだったんだ。家の方にもなんの連絡もないようだしね」
「それで、ここに出てくるかもしれないって? そうだね、それはあるかもね。出身がハイファミリーとなると、かなり高値がつきそうだし。じゃあ、彼と……こっちの生き物って、もしかしてえみち?」
「知ってるのか。さすがだな」
「最近になって発見された新種の生命体だよね。こんな珍しいの、よく持ってたね」
瑪瑙はかるく肩を竦めた。
「そういうのばかり集める趣味があってね」
アルは、よくわかったと頷いた。
「金持ちの道楽ってやつだ。じゃあ、この一人と一匹がここのオークションに出品されるかどうか調べればいいんだね?」
「そうだ。とりあえず、ここにいる間はこのホテルに泊まってるから、なにかわかったら連絡してくれ」
そう言って、ワイズに貰った黄色いメモを見せる。
「うん、そこなら知ってる。なるべく早く連絡するよ」
「ありがとう。頼んだよ」
瑪瑙はメモを再びポケットにしまい、注がれたウィスキーを一息にあおって立ち上がった。
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