ひよこマーク  
 

そのいち
 
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 これが水の中だとでも言うのなら、まだしも透けて見えるだろうが、えみちとえみちの間のわずかな隙間さえ、その向こうのえみちのピンクで埋め尽くされている。
 おまけに、手でえみちを押しのけるたび、えみちはちょっとかなしそーな、くるしそーな声をあげるし、そのぷにっとしたやわらかい感触が、なんとも言えない気分にさせる。
 まるで相当ひどい仕打ちをしているような、自分が瑪瑙にでもなったような(それだけはイヤだ)気になる。
『青、右前方一メートルにいます』
「右? っても、見えねェんだよな」
 十センチ先さえ見えないのに、一メートルも先なんて見えるわけがない。
 右手をえみちとえみちの間に差し入れ、掻き分け、押しのける。左手も同じように、交互にその動作を繰り返し、ふと今までとは違う感触に気づいた。
「あ……?」
「いたのか?」
「ちょ、待て……これは? これか?」
 指先に触れる布地の感触を逃さないように、人差し指と中指でつまみ、少し引き寄せ、右手でがっちりと掴む。
 それから、力を込めて、右腕全体で引き寄せた。
 少し、近づいた。左手を伸ばす。同じものに触れる。掴んで引き寄せる。右手でもっとしっかりしたものを掴み直した。
「タマ?」
 タマ、と呼ばれたことにも気づかないほど、青はその腕の感触だけに集中していた。
『翡翠と青の発信源が同調しました』
 ピンク色の渦の中、真夜中の色がわずかに目に触れた刹那、青は最後の力を振り絞って手の中のものを引き寄せた。
「翡翠!」
 青は、翡翠の左腕を掴んでいた右手に力を込め、眠っているかのような翡翠の名を呼んだ。翡翠はグッタリして、青の呼びかけになんの反応も示さない。
 一度眠ったら、叫んでも怒鳴っても、なかなか目を覚まさない翡翠だから、こんな呼びかけくらいじゃ起きないのはいつものことだ。だが、あの状況でいきなり眠りこんだはずはないから、眠っているわけじゃないはず。眠ってもいないのに目を開けないのは、それなら何故だろう。
(ちょっと気を失ってるだけ、だよな?)
 それならまだいい。打ち所が悪くて、なんて、まさか。
「どうしたんだ? 翡翠はいたのか?」
「え? あ、ああ、いた。けどなんか、気絶……してるみてェだ」
『間もなくハッチです、青』
「戻れ、急げ」
 瑪瑙の声にも、アンバーの声にさえ微妙な緊張感が漂っているような気がするのは、気のせいだろうか。
 青は翡翠の脇の下に腕を差し入れ、自分より一回りは大きい相手の胴体に手を回すと、左手でえみちを掻き分け、ハッチがあるという方向に向かって両足をバタつかせた。えみちの訴えるような鳴き声も表情も、今は聞こえないし、目に入らない。
 えみちの流れに逆らおうとする面積が増えた分、青にかかる負担も増している。その上、今は右手も使えない。必要な力は増えたのに、使える力は減ってしまった。
 青は歯をくいしばり、ピンク以外の色を求めて泳いだ。
(くそ。くそったれだぜ、ちくしょー!)
 なんでこんなことになってしまったんだろう。
 懸命に手足を動かしながら、青はふと考えた。
 もしもハッチまで辿り着けなかったら、死んでしまうって。こんなところで。こんな悪い冗談みたいな理由で。
 あの場所に閉じ込められたままでも、同じだったかもしれない。だけどあの男は、そんなに簡単に自分たちを殺しはしなかったんじゃないか、とも思う。ひと思いに殺してしまうほど、自分たちへの恨みは浅くなかったはず。簡単に殺そうとしないなら、もっと別な方法で逃げだせたかもしれない。
 少なくとも、こんな、ピンク色の妙な生き物に押し流されて、セキュリティで塵になるなんて危険はなかったはず。
(冗談じゃねェ。こんなん冗談じゃねェっ!)
 間に合わないかもしれない。
 身体はどんどん重くなって、力が入らない。右腕が痺れたように重い。翡翠はまだ意識を取り戻さない。
『青、間もなく通り過ぎます』
「タマ! どこだっ」
 瑪瑙の切羽詰ったような声が聞こえる。
(珍しい。あいつがあんな声だすなんてこと、あるんだ)
 なんて、ちょっと思う。それから、俺はここにいると、声にだそうとしたが、苦しさに声もでなかった。
「アンバー!」
『近いです、瑪瑙』
(やべェ、間に合わねェ!?)
 と、ふいに、なにかに引っかかった。
 違う。なにかが自分制服の裾を掴んでいる。
 えみちが「にゅうにゅう」鳴きながらどんどん流れていった。
 背中や後頭部に当たっては流れと向きを変えて、どんどんどんどん流れていった。
「こっちだ」
「……瑪瑙?」
 裾を掴み、自分をえみちの流れの中で留まらせているのは、瑪瑙の手なのだと、青はようやく気づいた。
「早くしろ。二人分の重さなんて、いつまでも耐えられるわけないだろ」
 青は瑪瑙の細すぎる身体と腕を思いだして、我に返った。
「あ、悪い。頼む、ちょっとだけ翡翠を持っててくれ」
 そうしたら、なんとか向きを変えて、行き過ぎてしまったらしい瑪瑙の所まで戻れるはず。
「……掴んだよ」
 瑪瑙の声と同時に、少しだけ身体にかかる重みがやわらいだ。
 青は、接着剤で固められたみたいな指と手を引き剥がし、翡翠を流れと逆に押しやった。
 そして、その反動を利用して翡翠から少し離れると、最後の力を振り絞り、細い蜘蛛の糸のような瑪瑙の腕を頼りに、えみちを掻き分ける。
 瑪瑙の腕から肩に手がかかり、反対の肩、腕、そしてはじめて金属性の壁に手が触れた。
 なめらかな硬さにほっとして、青は手探りをする。その間も、翡翠から完全に離れないようにして、その身体が流れ去ってしまうのを防いでいた。
 そして青は、ハッチの、横に細長い取っ手部分に掴まると、
「瑪瑙、翡翠を引っ張るぞ」
 一声かけて、思いっきり自分の身体ごと翡翠を引き寄せた。
 今度は、瑪瑙の助勢もあって、さっきよりは楽に引き寄せることができた。
 同時に、青のヘルメットと瑪瑙のヘルメットがかるくぶつかり、青は外からは琥珀色に見えるヘルメット越しに瑪瑙を見た。
 瑪瑙は青の視線に気づくと、口の端を歪めて薄く笑い、青も安堵感から少し笑った。







 
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