瑪瑙は、ニヤリと笑って後ろ手に手を振り、
「じゃ、後でな」
青の突っ込みを無視して、さっさとブリッジを出て行った。
と、瑪瑙以上になにもしない人間が、瑪瑙と入れ違いに、のんびりとブリッジに現れた。
「そろそろ出発するの~?」
間延びしたクリーミィな口調は、聞いてるだけで眠気を誘う。
青は、瑪瑙への怒りを、思わず翡翠にぶつけていた。
「まだだよ! 荷物の手配が済んでねェんだから。つーか、お前もたまには手伝ったらどうなんだよっ」
瑪瑙は、青がすぐにカッとなって騒ぐのを、しっかり受け止めて楽しんでいるようだったが、翡翠は、青の怒りなど感じてもいないようだ。八つ当たり気味に怒鳴りつけた青に、翡翠は気を悪くする様子もなく、まったりと、とろけるように笑った。
「うん、いいよ~」
(いいのかよ! だったらいつもやれよ!)
あっさりと承知されて拍子抜けしたのか、口の中でモゴモゴと突っ込むと、青は、通信士席に座り直して、翡翠を手招いた。
「じゃあ、お前もこっち来いよ。今から、別口の依頼がないか聞くところだからさ」
「うん」
翡翠は子犬のように頷いて、素直に従う。
青は、翡翠を呼び寄せておきながら、やっぱり翡翠に任せてしまうのが不安で、結局、自分自身で配送センターへの通信を開いた。
(もしかして、意味ねェかも)
後のフォローを考えなければ、翡翠にやらせてもいいのだけれど。どうしても後々のこと、それも最悪のケースばかりを考えてしまう青だった。
青は、ガニメデの配送センターの女性事務員達が、嫌いというのとは違うが、少し苦手だった。
全員が全員、なにがそんなに楽しいのか、いっつもやたらにテンションが高くて、キャピキャピキャラキャラ騒がしいし、なにより全員、青より背が高い(ここがポイント)。
基本的に、自分より背が高い女の人は、ちょっと苦手だし、男には若干の敵意を感じてしまう青だった。だがそうすると、世の中の殆どが駄目になってしまうことに、青は気付いていなかった。
濃い金髪をクルクルのカーリーヘアにした二十代前半の女性事務員が、今日の通信窓口担当らしい。薄いそばかすの散った鼻は少し上向きで、目はちょっと離れすぎて美人とはいえないが、キラキラした好奇心旺盛そうな榛色の瞳と明るい笑顔は、なかなか魅力的だ。
(名前は確か、リサ・トレーシーとかいったっけ)
青としても、彼女のことを魅力がないと思っているわけじゃない。寧ろ、相手が座ったままでいてくれたら、かなり好印象だとさえいえる。仏頂面でぞんざいな態度を取られるよりは、多少テンションが高いくらいは、まぁ許容範囲だ。
例え彼女が、ハートのきらめく眼差しで終始、珍しく可視領域内にいる翡翠だけを見つめて話をしようが、仕事さえきちんとしてくれたらそれでいいし、翡翠のことを、本人のいないところで「王子様」呼ばわりしていることも知っているが、物好きだと思いこそすれ、腹立たしく感じることもない。
(王子は王子でも、天然王子だけどな)
『その他のセレスまでの荷物ですよね。ええ、幾つかあります。本社の方から連絡を受けている特別品以外、特に注意が必要な物はありませんし、重量も問題ないはずです』
「じゃあ、それも一緒に、貨物室に運んでおいてもらえるかな」
カーリーヘアの女性事務員リサは、青の方を見もせずに頷いた。
『わかりました、手配しておきます。二時間もあれば出発できると思います』
「わかった。じゃ、よろしく」
そう言って青が通信機のスイッチに手を伸ばしかけた時、リサが、彼女のあからさまなラブ視線もまるきりわかってない様子で、ただ眠たげな微笑みを浮かべて立っている翡翠に、意を決したように声をかけた。
『あの、翡翠さん、もしよかったら、その間お茶でもいかがですか?』
(お。こいつ、なんて答えんだろ)
ちょっと興味を覚えて翡翠に目をやれば、目を開けたまま寝てでもいるのか、全く反応がない。聞こえてもいないようだ。
(聞いてねェのかよ! ったく、仕方ねェなぁ)
「おい、翡翠! お前に言ってんだぞ」
「え?」
ちょっと振り返った青に、右腕をかるく小突かれて、翡翠はようやくまともに青を見た。
「なーに?」
「一緒に茶でも飲まねェかって。この人が」
と、モニターの中のリサを指差した。
自分の存在などまるで眼中にない翡翠の反応に、リサはかすかに傷ついた表情を浮かべたが、青に促された翡翠の視線を受けると、緊張と恥じらいに口元をピクリと引き攣らせ、精一杯の微笑みを浮かべた。
『お忙しくなかったら、で、いいんですけど』
そう付け加えるリサの期待と不安は、たぶん不安の方が大きそうだ。
翡翠は、そんな他人の心の機微など、どうでもいいのか、どうにもわからないのか、あっさりと言った。
「ごめんね。出発まで、えみちに必要なもの調べなきゃいけないから」
「えみち?」
「うん。ごめんねぇ」
「あの、えみちって……」
一体誰なのかと、聞きたかったのだろう。だが、翡翠はその意図に気づかず、そういうことだからと、もうその話は終わった気でいる。モニターの向こうの、リサの気がかりな表情に、青は仕方なく、自分が口添えして、安心させてやろうと思った。
「あー、えみちってのは、こいつのお気に入りの……」
謎のどーぶつで、さっき買ってきたばかりなんだ。
そう言いかけた青の言葉を遮って、リサは泣き笑いを浮かべて、口早に言った。
「あ、そういうことですか。わかりました、変な事言ってごめんなさい。忘れてくださいね。それじゃ、お疲れ様でしたっ」
ブツッ、と、一方的に切られた通信モニターを見つめ、青はわずかに顔を顰めた。
(今の絶対、誤解してたよな)
えみちというのが、翡翠が今付き合ってる彼女かなにかだと勘違いしたのだろう。えみちの名前を告げた翡翠の、えらく幸せそうな表情のせいかもしれない。
もう一度通信を開いて、誤解をといておくべきだろうか。
少し考え、結局、そのままにしておくことにした。
(そこまで俺が面倒見るこたねェよな。それに……)
いくら翡翠に想いを寄せたところで、正直、翡翠が彼女を振り向くどころか、まともに認識することすら怪しい。
後々泣くなら、さっさと諦めて真っ当な相手を探した方が彼女のためにもなるに違いない。
と、それもある意味大きなお世話で思って、青は、結局傍に突っ立ってただけで、いつもと変わらずなにもしなかった翡翠を振り仰いだ。
「んじゃ、まぁ、出発の準備するか」
「うん、そうだね~」
とろけそうに微笑む翡翠は、既に頭の中はえみちのことでいっぱいのようだった。
えみちが恋人とリサが思ったのも、実はあながち誤解ではないのかもしれない。かなり不毛な関係だとは思うけれど。
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