ひよこマーク  
 

そのいち
 
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「うわ、えばってる。なっまいきー」
 青は、ピンと、おでこの辺りを指で弾いた。
 ころ。
 もともとめいっぱい反り返っていたえみちは、あっさりひっくり返って、にゅうにゅう鳴きながらジタバタしている。自分じゃうまく起きあがれないらしい。
「あははははは、おもしれー」
「だろう?」
 どこか得意そうに言ったのは、なぜか、翡翠じゃなくて瑪瑙だった。
 瑪瑙の声に、青はハッと我に返り、改めて怒りの表情を浮かべて首を振った。
「って、そーじゃねェっての。 だからダメなんだって! 生き物はダメ! 瑪瑙も、なんで止めねェんだよ。ちゃんと見張ってろって言っただろ!」
「見てたよ、ちゃんと」
「ただ見てただけとか、言う気じゃねェだろうな」
「それもアリかな、とも思ったけどね。私が、欲しかったんだよ」
「は?」
 青は思わず怒るのも忘れて目を見開き、嫌そうに瑪瑙を見上げた。
「……瑪瑙? お前、いつから翡翠の病気が伝染ったんだよ」
「ちょっと違うな。妙なモノがほしかったんじゃない。こいつが、欲しかったんだ」
 瑪瑙の台詞に、翡翠の指先で起こしてもらったえみちが、ポッと頬を赤らめ、どこか期待に満ちた、BB弾みたいなつぶらな瞳で瑪瑙を見上げた。
(甘い)
 青は口の中で呟いた。瑪瑙がそんな甘い意味で言うわけがない。
「なんか隠し芸でもあんのか? こう見えても結構役に立つ、とか」
「いいや? なんの役にも立たないと、店主も断言してたしね」
「だったら……」
「お前だって思っただろう? 苛めると面白いんだよ、これ」
「……!」
 翡翠の手の上で、 がーん! と、背景にかき文字がうかんで見えそうな勢いでショックを受けているえみちを見下ろして、青はガックリと肩をおとした。
「わかった。もういい。好きにしてくれ」
 ショックを受けるえみちを眺める、瑪瑙の会心の笑顔に、青はわかってしまった。
 もう、なに言ってもムダだってこと。
 翡翠だけならまだしも、瑪瑙までもが翡翠の側に着くなら、自分に勝ち目はない。
 しかも、その理由が「苛めると面白い」なら、瑪瑙を説得するのは完全に無理だ。
 青は、ため息をひとつついて、諦めた。
 瑪瑙が、肩をおとした青をなぐさめるように、自分がその原因のくせに、ポン、と青の頭にかるく手を乗せた。
「大丈夫。その内タマも愉しくなるから」
「ってめ、頭に触んなつってんだろ!」
 青はその手を乱暴に払って、瑪瑙を睨みつけた。
「おや、これは失礼」
 白々しく両手を挙げて、その手をヒラヒラ振ってみせる態度がまたムカついた。
「くそ。髪がつぶれちまうじゃねェか」
 青は高くたちあげた髪を指先でそっと整え、形が崩れてないことを確かめてから、改めて瑪瑙を怒鳴りつけた。
「それから! 何度も言うけど、オレはタマじゃねェっ!」
 瑪瑙は、青のことを「タマ」と呼ぶ。青「玉」だから、「タマ」らしい。
(オレは猫じゃねェっつーの。こいつが、んな妙なあだ名をつけやがるから、社長にまで「タマ」とか呼ばれるよーになるし、その上……)
 以前、社長秘書の真珠と瑪瑙が共謀して、社長のブロークンデーに、「タマ」と呼ばれる青に由来して仕掛けた、「とある出来事」は、未だに青のトラウマだ。


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 その日のことは鮮明に覚えている。
 忘れたくても忘れられないのだ。ただ意志の力で、思い出すまいと記憶を捩伏せているだけだ。
 あれは、本社に船の定期メンテナンスに訪れた時だ。メンテナンス自体は滞りなく終了し、外殻の再塗装も終わって、鮮やかなひよこイエローが目に痛いくらいだった。
 メンテナンス中、瑪瑙は誰かと約束があるとかでさっさといなくなったし、翡翠は、青がやめろと言っているにも関わらず、いつの間にか買いこんでいた妙なコレクションを自宅に送る手続きをしに行ったし、青は、一人でのびのびとお気に入りのパーツショップに出かけて、満足のいく買い物ができたと上機嫌で船に戻った。
 降りっぱなしの階段を駆け昇り、船内に入った時も、アンバーとメンテナンス結果について話しながら通路を歩いていた時も、自分の個人用キャビンの前に立った時も、一片の予感さえ抱いていなかった。
 青は鼻唄まじりに、キャビンの扉脇にあるタッチパネルに触れ、シュッと微かな摩擦音をたてて開いた扉から、自分のキャビンに足を踏み入れた。
 キャビンの中は明るかった。照明を点けっぱなしにした覚えはないから、きっと、アンバーが気を利かせて先に点けておいてくれたのだろう。
 青はさして違和感も覚えず、なんの気なしに、壁に埋め込まれたユニット式ベッドに目を遣った。
 ベッドの上に、有り得ない物体が存在していた。
(逃げなきゃ!)
 咄嗟に思ったが、足が竦んで動けなかった。
 その時、有り得ない物体が口を開き、有り得ないセリフを口にした。
「やぁ、タマちゃん」
 男にしては高く、女にしては低い、不思議な響きの澄んだ声音は、その外見からは信じられないくらいだ。いや、一部は確かにその声に相応しいのだが、それ以外が問題だった。それもかなり。
 色は白。それはいい。だが、認められるのはそれくらいだ。
 後は認められなかった。 断じて。
 細長い尻尾があった。頭のてっぺんに、先が尖った耳があった。丸くて大きな緑の瞳は、ガラス玉みたいだった。逆三角の黒い鼻とピンと伸びたピアノ線みたいなヒゲが左右に三本ずつ。大きく開いた口の中には、鳥肌が立つ程整った相貌が見えた。
 猫の着ぐるみのぽっかり開いた口の中にあるその顔は、見紛うことない、社長の黒曜その人だった。いつも無表情な顔に、眩しい程の微笑みを浮かべている。
 一瞬息が詰まるくらい魅力的なはずの笑顔だったが、その時青が感じたのは、紛れも無い、恐怖、だった。
 そして巨大な白猫が、スルリとベッドから滑り下り、くるりとターンを決めると、両手を伝統的な猫の手の形に挙げて、
「ニャー」
 と鳴いた。
「うっ」
 青の喉から呻き声のようなものが漏れ、それが青の石化を解いたのか、次の瞬間、青は素早く踵を返し、白い恐怖に満たされた自分のキャビンから逃げだした。
「うわあぁぁっ!」
 迸しる悲鳴を、止めることはできなかった。
 通路に飛びだし、開きっぱなしだった船尾ハッチに向かって駆けだした青は、開いたハッチの前に、白い影を見た。
 一瞬、あらゆる法則を無視して、白い猫の着ぐるみを装着した社長がそこに現れたのかと思い、パニックになりかけた青だったが、それが別の人物の姿だと把握した途端、力が抜けて、思わず立ち止まっていた。本当は、その場にへたり込みたいくらいだったが、それはかろうじて堪えた。
「ああ、丁度よかった」
 青の顔を見ると、普段からにこやかな顔が、より一層嬉しそうに輝いた。
 青がなにも言えずにいる内に、通常の会社支給の制服よりも装飾が多くて高級感のある、(噂によると、真珠が自ら社長に頼みこんで作ってもらったという)純白の制服に身を包んだ、艶やかな光沢のある白髪に澄んだ水色の瞳の持ち主、社長秘書の真珠が、ニコニコと微笑みながら続けた。
「社長、見かけませんでしたか?」
「あっ、おっ、にっ、に……!」
 社長、と聞いて、津波のように押し寄せて青を飲み込んだ記憶に、まともな言葉にならない。
 青はパクパクと酸欠の魚のように口を開けて、震える指で自分のキャビンを指差した。真珠は、青の言いたいことなど最初からわかっていたかのように頷き、微笑んだ。
「あ、やっぱりこちらでした? 姿が見えないから、たぶんそうじゃないかと思いました」
「どっ、なっ?」
「ええ、今日特注の衣装が届きましてね。是非お見せしたいなぁって、お話してたとこだったんですよ」
 青は胸元でギュッと拳を作り、ようやく言葉らしい言葉を絞りだすのに成功した。
「な、なんで。あ、あれは一体なんなんだよ」
「あれ? ああ、あの衣装のことですか? コンセプトとしては、トラディショナル・タマってとこですね」
「トラディショナル……なんだって?」
「トラディショナル・タマですよ。タマというのは、伝統的な由緒正しい白猫の名前らしいんですよ。ですから、ね?」
 そう言って少女のように小首を傾げた真珠に、青はカッとして声を荒げた。
「な、なにが、ね? だよ! 大体、タマって誰のことだ!」
「勿論」
 と、当然のように青を指差した真珠を、青が怒鳴りつけようとした時、真珠が青の背後に目を向けて、言った。
「あ、社長」
 途端、青はビクッとして体を強張らせた。ガラス玉みたいに青い目が、恐怖に見開かれている。
 凍りついた体が、やがて小刻みに震えだした。
「急に飛びだして、どうしたんだニャー?」
 澄んだ声音が、語尾に有り得ない響きを紡ぎだし、青の背中を冷たいなにかが走り抜けた。
 そして青は、真珠を突き飛ばすようにして、船尾ハッチから外へ飛びだした。
 まさに、飛ぶように駆けおりて、恐怖に歪んだ顔で走り抜けていった青を見た人々は、業務課長の瑠璃が見せる暴走の発作のようだったとも言い、背後から殺人鬼に追われている恐怖映画の登場人物のようだったとも言った。
 そして青自身は、その後どこをどうやって走ったものか、全く覚えていなかった。 気付いた時には、一日が終わろうとしていて、青は見知らぬレストランの前でその看板を凝視していた。
 それから、どうやって見つけたのか、いつの間にか瑪瑙が現われ、まるでなにもかも見透かしたかのような薄笑いを浮かべて、青を船に連れ戻した。ショックから立ち直っていなかった青は、ただ促されるままに瑪瑙に従うことしかできなかった。
 この、あまりに衝撃的な出来事の後、またそこに社長の姿があるのではないかと、青はずっと、ありもしない幻影に惑わされ続けた。今も、宇宙にでている間は大丈夫だが、どこかに寄港した時は、やっぱり自分のキャビンに入るのが少し怖い。特に、本社に立ち寄ることになった時は尚更だ。
 そして後に、瑪瑙が青を見つけて船に連れ戻したのが、ただの偶然じゃなく、真珠と共謀した瑪瑙が、船の中ではモニタカメラで、船の外では密かに靴に仕掛けた追跡装置と隠しマイクで、青の動向を追っていたからだとわかった時には、会社への借金踏み倒してでも逃げようと思ったくらいだ。
 そうしなかったのは、ただ、追われる身になったとバレた時の、母親の反応が怖かったからだった。







 
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