「いい加減、待てって!」
明らかにイラついている声に背中を叩かれて、柚己(ユズキ)・ツェータ・有坂は、走りながらチラリと肩越しに振り向いた。
その瞬間に、黒にちかい栗色の髪が目の前に落ちかかり、それをうるさそうに片手ではねあげて、からかうような口調で応える。
「待てって言われて待つバカいないって、過去の歴史が言ってるぜ?」
琥珀色の瞳が悪戯っぽくきらめいている。
「じゃあ、待つな!」
と、あまりにも素直な返答に、柚己は思わずちょっと笑ってしまった。
(やべえ。こんな基本的な切り返しに笑っちまうなんて、不覚。けど、まぁ……)
「じゃ、お言葉に甘えて……」
とりあえず、基本には基本で返して、柚己は前に向き直った。
振り返った途端、通行人にぶつかりそうになったが、ギリギリで避ける。往来で追いかけっこなんて、するもんじゃない。
「どっちなんだよ!」
「だから、どっちにしろ待つ気なんてナイの。用があんならまた今度な」
今度はくるりと身体ごと振り返り、ちょっとサービスで立ち止まって、その場マラソンで応えた。
必死に間を詰めてくるライナス・ラクツールは、どう見ても走っているというより、歩いていると言った方が近い。短く刈り上げた赤い髪と同じくらい真っ赤な顔で、本気で走っているようなのだが。
(……うーん、遅ェ)
しみじみと思う柚己に、ライナスは荒い息の下から吐き捨てるように言った。
「ってめーは……いっつもそやって走って逃げる。きたねェんだよ、この地球野郎!」
柚己は、ちちち、と人差し指を左右に振りつつ、
「体力ないのは自業自得だろ? コロニーの低重力に頼りきって、トレーニングを怠ったお前が、悪い」
再びライナスに背を向けた。
だが、やはり気になるのか、数メートルもいかないところで後ろを振り返ってみる。
ライナスは、すぐ先で、びっしょりと汗をかいてへたりこんでいる。真っ赤な顔をして、ひどく苦しそうだ。
「ちくしょー……なんで、通常重力は一Gなんて決まってんだ……くそ。……っはぁ………もう、勝手にしろっ」
と、ギブアップ。
「あそ。んじゃあな」
柚己はにこやかに手を振って、問答無用のスピードでその場を走り去った。
まるで疲れを見せず、更に軽やかに通りを走り抜ける柚己は、ちょっとだけ反省していた。小型のコロニーで生まれ育った相手に、一Gの通常重力に保たれた巨大コロニーのメインストリートで追いかけっこをさせるなんてのは、
(さすがにちっと、悪ィことしたかもな)
低重力に慣れた人間は、普通に生活する分には、一Gの重力もさほど影響はないけれど、
ヘタに心臓に負担がかかるような真似をさせたら、心臓発作とか重力症にでもなりかねない。
これで、ライナスが本当にぶっ倒れでもしたら、
(かなりやべーよな……)
少々、心配になってきた。
チラリと後ろを振り返ってみたが、とっくの昔にライナスがギブアップした場所からは離れてしまっている。
(うーん……まぁ大丈夫、だよなぁ……?)
心配は心配だけれど。
今更、戻るわけにはいかない。早くしないと、またしても誰かにあの場所を奪われてしまうかもしれない。もう三日連続で、それぞれ違う相手に先を越されている。
だから、今日こそはと思い、全部の誘いを断り、呼びだしもみんな無視して、いつもより二時間も早くアパートメントを出たのだ。
二時間。これならさすがに、
(大丈夫、だよな? いくらなんでもな、こんなに早く行くヤツなんていないだろ。そんなバカ。
んで、行ってる俺はなんだ? ……バカか、やっぱ)
なんてことを考えながらも、柚己は、メインストリートの随所にあるエアロックを通り、コロニー全体に蜘蛛の巣のように張り巡らされた無重力の連結通路に抜けだし、壁を流れる移動棒に捕まって 、『展望室』の標識が緑に光るゼリーロックに辿り着いた。
淡いブルーのゼリー質の扉を、身体を捩じこむようにして通り抜けると、そこは再び標準重力の一Gの状態になる。
重力の変化に、一瞬、内臓が床に押しつけられるような、骨に、肉や筋肉がぎゅっとくっつくような感覚を覚えたが、すぐに治まった。
そして柚己は、プラスチックガラスの円筒が扇状に数本並ぶ場所で、ぐるりと周囲を見渡した。
透明な円筒はすべて、展望ドームへの直通エレベータだった。
地球側の外壁に、幾つもの半球が連なる様は、宇宙から見ると、昆虫の複眼のように見えた。
ざっと見でも、使用中のものは一つもないようだった。
(……よし!)
小さくガッツポーズ。
柚己は、その内の一基、向かって右から三番目のエレベータに迷わず乗りこんだ。
そして、上矢印のボタンを押すと、扉はスライドして静かに閉じた。
かすかな加重感を経て、今はシェードが降りている、展望ドームに着いた柚己は、自分よりバカなヤツを見た。
床の蛍光パネルの光だけが、ほのかに半球状のドーム内を照らしている。
(……おい、冗談だろ?)
何故。どうして。今。ここに。
(先客がいるんだよ!? しかもそいつ、ソファで寝てやしねェか、おい!)
直径十メートルの展望ドームには、一人で座るには少し大きく、二人で座るにはちょっと狭い位のシングルソファが、一つだけ置かれている。
あとは、透明な円筒形をしたエレベータの乗降口がある以外、なにもない。
そのゆったりしたソファに、膝を抱え、うずくまるような姿勢で誰かが眠っていた。柚己の位置からは、抱えた膝とその上に乗せた頭が見えるだけだ。
顔は見えない。男か女かもわからない。ただ、細身で、身長もあまり高くないような気がする。
「……」
寝るなら帰れ!
でっかい書き文字が脳裏に浮かぶ。
(うん、これだな。この線で攻めてみよう)
柚己は決意と共に、明るい浅葱色のソファで眠る先客に近付いていった。
ひょい、と顔を覗きこみ、柚己は思わず息を飲んだ。
(うわ、すげえ)
ほのかな光にきらめく細い髪は、氷の青。
ソフトフォーカスがかかって見えるほどの秀麗な容貌。名高い芸術家の彫刻みたいに、それは侵しがたい神聖な美を湛えていた。
(けど、なんか変だ)
と、柚己はわずかに眉をひそめた。
どこがというわけじゃない。ただどこか、
(人間離れしてるってか、たとえば、頭に脳みそ詰めこむ前の、美神型サイボーグの義体とか、そんな感じ)
作り物の無機的な美しさ。
(あ、そっか。サイボーグか、こいつ)
一人納得して、また首を傾げる。
(けど、全然見たことないタイプだな。新型か? こんなタイプ、発売されたって話、聞いてないけどな。一度発表されたら、すぐ評判になりそうなのに。こんだけキレイなら……って、俺はなにごちゃごちゃ考えてんだ!? そんなことより、こいつ叩き起こして、開く前に出てってもらわなきゃ駄目だろう!)
思って柚己は、ふと不安になる。
(けど、こいつも実はすごい物好きで、この場所を時間までキープしようとしてたりして? そしたら、寝るなら帰れってのは効かないよな)
まぁ、とにかく。 起こしてみなければ始まらない。
「おい、あんた、なぁ、ちょっと」
反応なし。
肩の辺りを軽く叩きながら再チャレンジ。
「なぁってば、おーい、あのー?」
「……ん……ルファ……」
(起きたかな?)
なにか口の中でブツブツ言っているのが聞こえ、柚己はそれに耳を澄ませた。
「……ータ……ンマ、デルタ、…プシロン、ツェータ、イータ、シータ…オタ…ッパ、ラムダ、ミュー…ニュー…サイ、オミクロン、パイ、ロー……グマ、タウ、ユプ…ロン、ファイ…ここにいるよ………カイ…サイ…」
「……おい?」
(……寝言か? みょーな寝言だな。つーか、長ェし)
ちょっと強く肩を叩いてみた。
「!?」
途端、ビクッと身体をふるわせて、その人物が柚己を振り仰いだ。
瑠璃色の瞳。
宇宙に浮かぶあの惑星みたいだと思った。
「……オメガ?」
その、最後の呟きで、ようやく目覚めたようだ。
夜が明けるように深い青の瞳に光が点り、目覚めたばかりのその人物は、膝を抱える腕に力を込めて、怯えたように柚己を見やった。
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