壊れやすい天使 壊れやすい天使  
4章「再びまみえた宿命の子ら」
 
 
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4-13

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 瓦礫の転がる道を歩きながら、ティーロはずっと、自分にはなにもできないのだろうかと考え続けていた。  
 天使と卵人が交錯する地区の、ビルとビルの狭間。
 銀錆色の廃ビルに穿たれた黒い穴に、長身の体を窮屈そうに潜り込ませる前に、立ち止まり、周囲を見回した時以外、ティーロはずっと、そのことばかり考えていた。  
 ビルの中は真っ暗だったが、ティーロは迷わずに奥へと進んだ。
 入ってすぐ、三歩目で大きく足をあげて、コンクリート片を跨ぎ超える。六歩目で、天井から斜めに突き出た鉄骨を、腰を屈めて避けた。
 それらは、招かれざる客のために、わざと配した障害物だった。八歩目にある壊れた敷石とガラス片の山を崩せば、想像以上に大きな音と共に、地下に知らせが届くようになっている。  
 ティーロは、警報装置になっている小山を跨ぎ、暗闇の中、突き当りにある鉄の扉までたどり着いた。
 扉は古く、分厚かったが、定期的に油を差しているおかげで、音もなく開いた。その先に小さく点る赤い光が、地下へと伸びるエレベーターのものだと知っているのは、ごく限られた者達だけだ。  
 ティーロは赤い光まで歩いていくと、そのすぐ下にある、数ミリのでっぱりを指で押した。
 ゴウン、と重い音が響き、獣の唸り声に似た機械音が近づいてくる。  
 ポッと、光が赤から緑に変わり、白い筋が暗闇に走った。  
 ティーロの頭より少し高い位置から爪先までの縦筋は、ゆっくりと広がり、ぽっかりと四角い穴になった。  
 エレベーターの中に入り、二つしかない上下の矢印ボタンの下を押す。それに応え、エレベーターの扉が閉まったが、上にも下にも動こうとしない。  
 ティーロは首元をまさぐり、銀の鎖に通された細長い金属の板を取りだした。
 金属の板を、上下のボタンの脇にある、小さなスロットルに差し込む。  
 一瞬、砂のような音が、ザザ、と響き、それから、エレベーターは少しずつ加速しながら、下へと降りていった。  
 その間もずっと、頭の中を占めるのは、自分の無力さのことばかりだった。  


 そして地下に戻ったティーロは、最初にモニター室に向かった。
 だがそこに、祖父の姿はなく、巨大なモニターに映しだされているのは、幾つもの見慣れた場所の様子だった。  
 ティーロは少しの間、ぼんやりと画面を眺め、それからルーァの部屋に足を向けた。  
 思った通り、アルビンはルーァのところにいた。
 兄の許から、ルーァの力になるようなものを何一つ持って帰れなかったティーロは、かなり暗い顔をしていたが、アルビンはそれ以上に塞いでいるようだった。皺だらけの顔は、普段から表情がわかりにくかったし、アルビン自身は自分の気持ちを押し隠そうとしているようだったが、それでも、長い間ずっと傍にいるティーロは、祖父がいつになく塞ぎこんでいるのがわかった。  
 アルビンは、ソファに座るルーァの前にある黒いスツールに腰をかけて、入ってきたティーロを振り返って見上げていた。
 ティーロは、アルビンからルーァに視線を移した。  
 心なしか、ルーァの表情にも翳りがある。だが、そこには、強い決意も感じられた。  
 それ以上近づくのを躊躇うように、立ち止まったティーロに、ルーァは穏やかに声をかけた。
「中に入らないのか?」
「え? あ、うん」  
 ぼんやりと頷き、ティーロは二人に歩み寄った。
「上の様子はどうだった」  
 アルビンに問われ、ティーロは陰鬱に首を振った。
「相変わらずだよ。兄さんは……」   
 言いかけ、ティーロはもう一度首を振った。  
 兄に助力と助言を求めても、無駄だとわかっただけだった。自分の無力さを思い知らされただった。だが、ここでそれを言ってみても、仕方のないことだ。  
 ティーロはただ、
「元気だったよ」  
 曖昧にそう答えた。
 アルビンも、「そうか」と頷いただけで、それ以上聞きだそうとはしなかった。ティーロの顔色を見れば、結果がどうだったのかぐらい、すぐにわかったのだろう。
「帰ってきてくれて、ちょうどよかった。私はそろそろ行こうと思う」  
 ルーァの言葉は唐突で、ティーロは一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
「行くって……どこに?」
「もちろん、地上だ。アルビンとティーロのおかげで、私の怪我もすっかり癒えた。あなた方や地上と地下のこともたくさん教えてもらった。ありがとう。本当に感謝している」
「え、え、でも、ホントに? 今?」
「長居をし過ぎたくらいだ。二人のおかげで、とても居心地がよかったから」  
 そう言って、ルーァはかすかに微笑んだ。  
 心臓を鷲掴みされたように、ティーロは息もできなかった。少しは慣れたつもりだったが、真正面から見つめられたり、こんなふうに微笑まれたりすると、どうしていいのかわからなくなる。頭の中は真っ白で、心臓の音だけが、耳の奥で鳴り響く。
「上まで、送っていってやれ」  
 アルビンが、感情の籠らない声で促した。
「でも、そんな……!」  
 息を呑み、アルビンを非難するかのような声をあげたティーロを、アルビンが静かに、揺るぎのない眼差しで見据えた。
「そんな、なんだ」
「そんなの、だって、いきなりすぎるよ」
「いきなりだろうがなんだろうが、それはルーァが決めることだ。儂らがどうこう言うことじゃなかろう」
「そう、かもしれないけど」  
 心の準備が、できていない。
 いつか出て行くことはわかっていたけど、こんなに急にいなくなってしまうなんて、ひどすぎる。
 ティーロは少し恨めしく思った。一週間、せめて一日くらい、お別れと名残を惜しむ時間をくれたっていいのに、と。
「すまない」  
 だが、ルーァに謝られると、途端に恨めしい気持ちは消えて、ティーロは慌てて両手を振った。
「あ、謝らないでよ。やめてよ、そんな」
「急なことはわかっている。二人にはなんの礼もできず、ただ世話になって、勝手に出て行くのを申し訳ないと思っている」  
 ティーロとアルビンは一瞬、顔を見合わせ、アルビンが顰めつらしい顔で、
「礼などいらんと、前にも言っただろうが」  
 と言うのに、ティーロもそうだと頷いた。
「そうだよ。そんなの、水くさい……」  
 言いかけて、ティーロは少し気まずそうに口を噤んだ。
 水くさいもなにも、自分達とルーァは、家族でもなければ兄弟でもない。種族すら違う。地上にいる天使達なら、言葉を交わすことすらおこがましいと言うだろう。そう言われる前に、殺されているかもしれない。  
 友人だと、心の中では思っていたが、それをルーァに告げるのは、少し怖かった。
 ルーァでさえ、天使と卵人が友人だと思うことを汚らわしいと感じていたとしたら、それをルーァの口からきかされたら、ティーロは、自分はちょっと立ち直れないかもしれない、と思った。
 頭ではそれが当然だとわかってはいても、心も同じようにはいかないのだから。
 どんなに、ルーァは憎むべき天使達の一員だと自分に言い聞かせても、やっぱり彼が好きだという気持ちは変えられなかったように。
 ルーァは、そんなティーロの内心を見透かしたように、淡く微笑んだ。
「ありがとう。私は、怖かったんだよ」
「怖い?」
「二人に、別れを告げることがだ。うまくできるか自信がなかった。出て行く日のことは、自分自身ではとうに決めていたんだが、言いだせなかった。アルビンとティーロは、彼ら以外にできた、初めての友人だから」  
 微笑みを深めて、ルーァはアルビンとティーロを交互に見やった。  
 ティーロは息もできなかった。アルビンでさえ、身動ぎ一つできずにいた。
「本当にありがとう。二人のことは、忘れない」
「僕だって……」  
 忘れない。忘れられるわけがない。これから、何年何十年経ったって。
 いつか来る最期の時にだって、きっと思いだすだろうと思った。
「また、いつでも来い」  
 ぶっきらぼうに言って、アルビンは作業着のポケットからなにかを取りだし、皺だらけの握り拳をルーァに向かって差しだした。
 ルーァは戸惑いがちに首を傾げ、指の先まで繊細で美しい手を、アルビンの拳の前で上向けた。  
 ルーァの手の平に、光の煌めきを見たように、アルビンは眩しそうに目を細め、拳を開いた。
 チャリ、とかすかな音がして、ルーァの手の上に、銀の鎖に繋がれた小さな金属片が落ちる。
「これは?」
「鍵だ。それがないとここに降りてこられん。使い方は後でティーロに聞け」
「だが、大切なものではないのか?」
「だから、大事にしてくれ。誰かに奪われそうになったら、壊してくれ。それ以外は、肌身離さず持って、なにか困ったことがあれば、ここに来い」
「……ありがとう」  
 心からの感謝を込めて、ルーァは銀色の鍵を握りしめた。





   
         
 
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