「そいつは本当にそう言ったのか。滅びの種子と呼ばれる卵人の女を探してると言ったのか」
「卵人の少女と、その子の持っている卵を探しているんだって。もしかしたら、卵はもう孵っているかもしれないって言ってたよ。卵から生まれるなら、天使ってことだよね。卵人と天使の二人連れなんて、聞いたことないけど」
「……」
「兄さん? どうしてそんな恐い顔してるの」
「ティーロ」
「なに?」
「その、邪眼の天使の名前、なんて言ったか」
「ルーァだよ」
「ああ、そのルーァとかいう天使は、もうすぐ出て行くって言ったんだな?」
「うん」
「出て行って、どこを探す気か知ってるか?そいつになにかあてはあんのか?」
「先予見に会うつもりみたい。滅びの種子を予見した天使がいて、その天使に会おうとした時に、騙されて地下に突き落とされたんだって。だから、今度こそ、その先予見に会って、卵人の少女がどんな姿をしてて、どこにいるのか、尋ねるつもりみたいだよ」
「そうか」
レグスは重々しく頷き、目を閉じた。
「兄さん?」
ティーロの呼びかけにも応えず、レグスはなにやら考え込んでいるようだった。
やがて目を開けたレグスは、見る者を不安にさせるような強い眼差しで、ティーロを見据えた。
昔から、兄のこの目だけは苦手だった。ザワザワと胸が騒ぎ、いたたまれない。なにもしていなくても、なにかしたような気になる。なにかした時なんて、まるで正視できなかった。
「そいつは滅びの種子と呼ばれる卵人を探してるんだろ。そいつ自身が滅びの種子だとは言ってねェよな。お前はなにを心配してんだ?」
なにかもっと深刻なことを言われるのかと思ったティーロは、少し拍子抜けしたように頷いた。
「うん。でも、彼の話が本当なら、本当だと僕は思ってるんだけど、滅びの種子、だよね」
「古い天使共にとっちゃ、そうだな」
「今いる天使達は違うの?」
「そいつは、確かなことはわからねェ。そうかもしれねェし、違うかもしれねェ。お前は、そいつが滅びの種子だとして、そいつが天使共を滅ぼすのが怖いのか?」
「違うよ。あいつらがいなくなったって、せいせいするだけだ」
「なら、そいつが、他の天使共に追われるのが怖いってことだな」
あっさりとレグスは言ったが、そう言われて、ティーロは途端に罪悪感に胸を刺された。
天使は敵だ。例外はない。
それは、自分達兄弟にとって、当たり前の事実だった。少なくとも、今まではずっと。
「兄さん、僕は……」
「ティーロ」
名前を呼ばれた途端、なにを言いかけていたのかもわからなくなって、ティーロは口を噤んだ。
レグスは感情の見えない顔で、静かに言った。
「爺さんのところに戻れ」
「兄さん」
「そいつのことは、お前があれこれ考えたって仕方ねェ。どうせ近々、出て行くんだろうが」
「そうだけど」
「出て行った後で他の天使共がそいつをどう扱うか、なんてこた、お前には関係ねェ。そうだろ」
「……」
ティーロは泣きだしそうな顔で唇を噛んだ。
関係ない。そうかもしれない。だが、出て行ったらそれっきり、ルーァのことを忘れられるとは思えなかった。
「なぁ、ティーロ。お前がそいつをどう思おうが、そいつは天使だ。しかも、黒い天使共を絶滅させる力を持っている。その上、金色の天使共を滅ぼすといわれる卵人まで探しているときた。お前が関わっていいような相手じゃねェよ」
レグスは、ぞんざいな口調を少し和らげて言った。
「奴らのことは、奴らに任せとけよ。お前が思い悩むことはねェ」
もうこれ以上、どう訴えてみても兄を動かすことはできそうにないとティーロは思った。
自分にとって、頼りがいのある優しい兄ではあったが、兄が一度、自分で決めたことを覆すことは不可能だと、ティーロは身に染みてわかっていた。泣こうが喚こうが脅そうが同じことだ。
巨大な地下都市の管理人の仕事を継ぐのも、本来なら兄となるはずだった。自分より頭もいいし、意志も強い。兄の方が責任あるあの仕事を継ぐのに相応しい。
だが、兄には心に決めた「やり遂げなければならない仕事」があるらしく、アルビンや自分懇願にも、頑として頷かなかった。
「帰るよ」
ティーロは項垂れ、力なく立ちあがった。
「ああ、気をつけて帰れ。そいつのことはさっさと忘れるんだな」
ルーァを忘れろという言葉に、ティーロは哀しげに眉を寄せ、応えなかった。
「じゃあね、兄さん」
呟くように別れを告げ、部屋を出て行くティーロの背中に、レグスは、
「じゃあな」
と、軽く声をかけた。
ティーロは振り向かなかった。
兄のいたリビングを出て、玄関に向かう途中でアリオトに出会い、切れ長の目に問いかけるような光を見たが、ティーロはそれを無視した。
玄関を出て、エレベーターホールに歩みを進めながら、ティーロは、
どうして、自分は兄のところまで行ったのか。兄になにを期待していたのか。
と、今更ながら自らに問いかけた。
ルーァが滅びの種子ではないと言って欲しかったのか。
先予見と呼ばれる天使が言ったのは、ルーァのことじゃないとしても、黒い天使達にとっては滅びをもたらす者だというのは変わりがない。それは、兄の言葉を聞くまでもなくわかっていた。
ルーァが天使達を滅ぼす特別な天使と知ったら、兄が他の天使達からルーァを守ってくれるかもしれないと思ったのか。
ティーロは、その通りだと思った。
自分は、兄にルーァを守ってもらうことを期待していたのだ。
だが、天使のことは天使に任せろと兄は言い、ルーァのためになにかしようという気は全くないようだった。
兄の協力が得られないのなら、自分になにができるだろう。
兄のようなまとまった組織も、人を動かす力もない自分に、一体なにができるのか。
自分の非力さに涙ぐみそうになりながら、ティーロはエレベーターに乗り込んだ。
一階へのボタンを押す。
灰色の扉が閉まると、世界にたった一人取り残されたような気になった。
脳が吸い上げられ、落ちていく感覚に、深く、どこまでも沈みこんでいくような錯覚を覚える。
なにもできないのだろうか。
アルビンとルーァの待つ地下都市へたどり着くまで、ティーロの頭の中を占めるのは、そればかりだった。
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ティーロが出て行くのと入れ違いに、レグスのいる部屋にアリオトが姿を見せた。
レグスは立ち上がり、アリオトに少し待てと身ぶりで示すと、部屋を出て、廊下の右手にある扉を開けた。
そこは、もう一つのリビングのようだった。壁際に置かれたダークブラウンの大きなソファと黒いローテーブル。正方形が縦横に並んだラックには、銀色の缶やら黒い箱がいくつも置かれていた。窓には灰色のブラインドがさがり、天井のダウンライトがオレンジがかった光を投げかけている。
背の高いラックの前には、灰色がかった赤毛の細身の青年が、黒い箱の一つを手に立っていた。
扉の開く音に振り返り、レグスの姿を認めると、濃い緑の目をした青年、メラクは問いかけるように眉をあげた。
「ティーロが帰った。頼む」
それだけで、メラクはレグスの意図することを汲み取ったようだ。
「了解」
メラクは口の端をつりあげ、持っていた箱をラックに戻した。
「地下の入り口まででいいんだよな?」
「ああ」
「じゃ、行ってくる」
かるく手をあげ、メラクはレグスの傍をすり抜けて、玄関に向かった。
レグスは、メラクの背中を見送ってから、もといた部屋のドアを開けた。
「待たせたな」
レグスは部屋で待っていたアリオトに言って、赤いソファにドサリと座りこんだ。
「ティーロはなんの用だった?」
一本の剣のような見た目の印象と裏腹の、やわらかな口調でアリオトが尋ねた。
レグスはソファの前に立つアリオトを、ハシバミ色の目で見上げた。ひどく真剣な眼差しに、アリオトに懸念の色が浮かぶ。
「レグス?」
「……あいつらは、どうしてる」
自分の質問とは無関係と思えることを聞かれ、アリオトは戸惑ったように答えた。
「あいつらって、例の二人? メグレズのおっさんが話を聞きに行ってるよ。なにか新しい話でも聞き出せればいいけどね」
レグスは、「そうか」と頷いた後、硬い声で言った。
「ティーロのところに、あいつらを探している天使がいる」
「え。それって、二人を追いかけてたっていう? 天使がどうやって地下に」
「違う。そいつらじゃねェ」
「違う?」
「上から下りてきたんだと」
「上からって……まさか、雲の上から? まだ黒い天使が上に住んでたの?」
「らしいな」
「あの日以来、上からおりてきた天使の話なんて聞かなかったけど……。だけど、その天使がどうして、あの二人を?」
「夢物語みたいな理由だ。頭がイカれちまってんのかもな。だが、先予見とか呼ばれてる天使共も関わってるらしい。もう一度、あいつらから話を聞いてみねェとな」
レグスは、昨日、ドウベーとフェクダに伴われ、ここへやってきた二人のことを思い浮かべながら言った。
おかしな二人連れだった。
灰褐色の髪をした、十七、八の少女は、突き刺さるような鮮やかな緑の瞳で、臆することなく自分を睨みつけた。
その少女の連れは、キャスケットを目深にかぶった小柄な少年で、それは……天使だった。
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