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「あの頃、私は虜囚だった」
ルーァは言った。
天上にある漆黒の都市でただ一つの、忌み色の白い建物に閉じ込められて、無数の卵を数え続けていたのだと言った。
終わりの見えない永遠の虜の日々に、ある日突然射した、小さな黒い光。
世界は、反転した。
喪失の予感に胸を塞がれることがあっても、それでも幸せだった。小さな天使を抱いて、白い卵の海の上を飛ぶ瞬間が、なによりも幸せだった。
やがて見つけた、ひび割れた一つの卵。
その卵が孵った時、反転した世界は、大きく開かれた。
開かれたのは、光に満ちた世界だった。今まで感じたことのない、あたたかい光に満ちた世界だった。
そんな幸せが、いつまでも続くはずはないとわかっていた。少しでも長くと、願うことしかできなかった。
遂に訪れたその日が、アルビンの言う「二十年前のあの日」だったのだとルーァは言った。
二人の黒い天使が現れ、卵から孵った金色の天使を奪い去り、小さな黒い天使も去った。
絶望に、ただ嘆き悲しむには、奪われた二人の存在は、あまりにも大きく、その時初めて、白い牢獄から逃げだすことを考えた。
「扉は、もちろん開かなかった。壊すこともできなかった。だから私は、卵を、孵すことにした」
「卵。それは、その集積場とかいう場所にあった、卵のことかね?」
果てが見えないほどの無数の卵を、必死に想像しながら、アルビンが尋ねた。ルーァはその場にいるアルビンではなく、記憶だけを見つめる虚ろな目で頷いた。
「そうだ。それはもう、天上にいる黒い天使達の卵ではないはずだった。進化の卵が孵った以上、そこにあるのは、新しい天使達の卵だろう。多良太が願った、多良太と同じ、金色の天使達の卵だ。黒い天使達がなによりも恐れた、新しい天使。私がその卵を孵そうとすれば、それを止めようと誰かがやってくるかもしれない。そうすれば、隙をついて外に出ることができるかもしれない。私が二人を追って、集積場を出る機会は、もう他にないと思った」
「それで、うまくいったのか?」
今、ルーァがここにいるということは、その時、逃げだすことができたからだろうかと思いながら、アルビンは聞いた。
ルーァは鋭い痛みに耐えているような顔で、かすかに頷いた。
「天使は来た。だが、それが「あの日」の始まりだった」
次々と卵を孵そうとするルーァを阻むため、単身乗り込んできた天使は、忘れていた器の名前を呼んだ。
その名に宿る呪力が、ルーァ自身も意図していなかった力を呼び覚ました。
それは、天使を狂わす力。自ら滅亡へと身を投げる、終末の呪い。
炎に包まれた集積場を後にして、ルーァは飛んだ。
「空が、やけに青かったことを覚えている」
「青い? 空が青いの?」
思わず口を挟んだティーロをチラリと見遣り、ルーァは白い天井、そのはるか高みを透かし見るような目をした。
「雲の上の都市も、更に高い雲に覆われることもある。だが、あの日の空は、青かった」
白熱する円盤が、ギラギラと輝いていた。
果てしない雲海の上を、黒いサーチライトのように、一本の道が走っていた。
黒い道は、蹲る影のような黒い都市へと続いていた。
青い空の下、黒い都市の中心を目指して飛ぶルーァの前に、都市に住む天使達が立ちはだかった。
一人が、ルーァの赤い邪眼に貫かれて、狂った声をあげながら墜ちていった。
幾人かを自らの邪眼から避けようと、都市の隙間を縫う黒い舗装路に眼を落したルーァは、そこに、小さな黒い塊を見つけた。
それは、ルーァの黒い光。リフェールという名前の小さな天使の屍だった。
ルーァは、リフェールを殺した天使達を、ハッキリとした意志をもって見据えた。
天使達は一人残らず、壊れてどこかへ飛んでいった。
おそらく、それが全ての火種だったのだろうとルーァは言った。
その後、多良太を探しに行ったルーァは、都市の中心にある大聖堂で、変わり果てた姿で生きる多良太を見つけ、リフェールをその場に連れて行く時、空を舞い飛ぶ天使達に違和感を覚えたが、その時はそれどころではなく、もっと後に外に出た時には、既に黒い天使達の姿はどこにもなかったのだと言った。
「おそらく、邪眼の呪力は伝染するのだろう。私の邪眼に狂った天使が、別の天使を狂わせ、その天使がまた別の天使を狂わせ、そうやって、あの黒い都市に住む殆ど全ての天使が、壊れて地上に墜ちていったのだと思う」
それが、あの日に降った黒い天使達の雨の原因だったのだろうとルーァは言い、天上の、そして地上の黒い天使達の殆どが滅んだのは、自分のせいだと苦しげに呟いた。
アルビンも、ティーロも、かける言葉が見つからなかった。
二十年前のあの日について尋ねたことを、アルビンは悔いた。開かなくてもいい傷口を開き、ルーァを苦しめた。だが、これであの日の秘密がわかったと、満足する気持ちもなくはない。
このことを、あいつが知ったらどうするだろうか。
アルビンは長く会っていない、もう一人の孫息子の姿を思い浮かべた。
「……ルーァのせいじゃ、ないよ」
重苦しい沈黙を破ってティーロが言った。
「私のせいじゃなければ、誰のせいだというんだ? 私の持つ力が、彼らを壊したのに」
灰色がかった青い瞳が苦悩に揺れている。
天使も泣くのだろうか。
アルビンは、不思議な気持ちでルーァを見つめていた。
「だけどそれは、ルーァが望んだことじゃないでしょ。そんな力が欲しいって、誰かに頼んだわけじゃないでしょ」
「力を欲したことはない。だが、自分の望みのためにその力を利用したのは確かだ。私のせいなんだよ」
「確かに、お前さんのせいかもしれん」
わざと軽い口調で言ったアルビンを、ティーロが驚いたように見やった。
「だが、誰のせいでも構わんさ。お前さんがそんな力を授けられて生まれたということは、いつかその力が使われるはずだったのかもしれんだろ。運命なんて言葉で片付けるのは好かんが、信じ難いような偶然が重なって歴史はつくられるものかもしれん」
ルーァは黙ってアルビンを見つめた。
その凝視に心をざわつかせながらも、アルビンはかすかに笑って手を振った。
「くよくよするのは、もうよさんか。起こってしまったことは起こってしまったことだ。それよりも、これからのことを考えることだ」
「これから……」
そう呟いたルーァの瞳に、強い光が宿るのを、アルビンとティーロは見た。
それが決意の光だったのだと、二人はすぐに知ることになった。
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ティーロは話し終えると、俯いたままレグスの言葉を待った。
レグスは膝の間で手を組み、前のめりの姿勢のまま、身じろぎせずにティーロの話を聞いていた。聞き終えても、暫くそのまま、石のように固まっていた。
ティーロは兄の言葉を待ち兼ねて、そっとレグスの顔色を窺った。そして堪えきれずに声をかけようとした時、ようやくレグスが口を開いた。
「そいつは、今も爺さんのところにいるのか」
「うん。でも、もうすぐ出ていっちゃうみたいだ。怪我も殆ど治ったから、地上で人探しをしなくちゃいけないんだって」
ルーァのことを話し、心の重荷が取れたのか、ティーロはやっとレグスの目を見て答えた。
だが、パチパチとやけに瞬きが多い。レグスは、口にされていない懸念がまだあるのだろうかと訝った。
「人探し? そいつは、ずっと上にいたんだろ。こっちに知り合いがいるのか。いても、二十年前にくたばっちまってるだろうに」
「それがね、探してるのは天使じゃなくて、いや、天使もなんだけど、卵人みたいなんだ」
「意味がわからねェな。ついこないだまで雲の上の方で暮らしてたんじゃねェのか。卵人に知り合いなんざいねェだろ。それともあれか? こっちに下りてきてから会ったどいつかに用事か」
ティーロは、ゴクリと唾を飲み込んだ。
ルーァが話してくれた、「これから」のことを思い出す。
強い決意を込めてルーァが語った話を、狂人の戯言と退けるには、ルーァの瞳に狂気の色はなく、その内容は、ティーロにとっても、耳に新しいものではなかった。
「滅びの種子と呼ばれる卵人の少女、を、探してるんだって」
「なんだと?」
兄が本気で驚く顔を、ティーロは久しく見ていなかった。
いつも冷静で、無表情なくらいの兄が、本気で驚いたり動揺するのを、たまには見てみたいと思うこともあったが、今はそれを喜ぶ余裕はなかった。
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