黒い雨のように降り注いだ天使達。
器となった天使の、本来の名前を呼んだのは、なんという名前の天使だったろうか。
定められし名。滅びと呪いの宿る名前。邪眼の天使サリエル。
その名を呼ばれた瞬間、ルーァの器となった天使が秘めていた力が目覚め、その名を呼んだ天使を赤光の瞳が射ぬいた。
黒い雨のように降り注ぐ天使達。
大聖堂へ急ぐ途中、行く手を遮る幾人もの天使を赤い瞳が射ぬき、狂いだす天使達から目を背けた時、黒い舗装路に見つけた、小さな塊。
ハッキリとした意志をもって、リフェールを傷つけた相手に呪いの目を向けた。
黒い雨のような天使達。
タラタを見つけた後、大聖堂の壁際に横たえておいたリフェールを迎えにいった時、空を舞い飛ぶ黒い天使達に違和感を覚えたのは確かだ。だが、その時は、他のことなどどうでもよかった。
暫くして、集積場の卵が気になり、大聖堂の外に出た時には、既に黒い天使達の姿は、どこにもなかった。代わりに見つけたのは、黒い天使の炎で焼かれることなく、寧ろその熱によって、一気に孵化した小さな天使達の姿だった。
小さな天使達はみな、タラタのような金色の髪とタテガミを持っていた。
あれだけいた黒い天使達がどこに行ったのか、気にならなかったかといえば嘘になる。
だが、それよりも、新たに生まれた金色の天使達の中に、リフェールが、サキが、宿ってはいないかと確かめることが先決で、黒い天使達は、そう、地上に、逃げだしたのだろうと思った。
自分の邪眼から。遂に生まれてしまった、新しい天使達から。
天使の黒い雨。
逃げだしたのではなく、逃げることもできずに、狂気に駆られて地上に降り注いだ、天使達の雨。
ただ金色の天使達を恐れたのだとしたら、為す術もなく墜ちてはいかなかっただろう。地上に叩きつけられるほど我を忘れていたのなら、それは、
(私のせいだ……)
罪悪感。そんな一言では済まない、重く、暗い痛みがルーァを押し包んだ。白く明るいはずの部屋が、急に真っ暗になったような気がした。
邪眼の狂気は伝染するものだったのかと、ルーァは今、初めて意識した。
ルーァの青褪め、強張った顔に、ただならぬものを感じたのだろう。アルビンは困惑しながらも、気遣うように声をかけた。
「お前さん、大丈夫かね? 随分と具合が悪そうだ」
「私は……」
「まぁとにかく、少し座った方がいい」
ルーァには、アルビンの声が聞こえていないようだった。聞こえてはいても、その意味が理解できなかったのかもしれない。ルーァは強張った顔のまま、茫然と立ち尽くしていた。
こんな時、相手が同じ卵人だったら、腕の一つもとって連れてってやるんだが。
アルビンは、瞬きを忘れて立ち尽くすルーァを見ながら思った。
ルーァは、アルビンが触れても、拒みはしないと思う。だが、いくら他の天使とは違い、自分達を蔑むでも嫌悪するでもなく、親しく接してくれるルーァであっても、いや、だからこそ余計に、その身に触れることが怖かった。
怪我をして意識のないルーァを手当する時でさえ、言い知れない感情に体がふるえた。手を触れ、そしてあの目に見つめられたら、正気を保っていられるか、アルビンには自信がなかった。
「聞こえなかったかね? 座った方がいい。あっちのソファにでも。さあ」
アルビンに再度促され、ルーァはフラフラと壁際まで歩き、崩れるように浅葱色のソファに腰をおろした。
そのソファは、ルーァが羽を仕舞って再び眠りについたあと、アルビンとティーロが二人がかりで運びこんだものだった。ルーァが座った三人掛けソファの他に、スチールの土台にガラス板の古びたローテーブルと黒い豆のような形のスツールが一脚、ソファの前に置かれていた。
と、ルーァがソファに腰をおろした直後、アルビンの背後でドアが開き、ティーロが入ってきた。
アルビンは咄嗟に振り向き、静かにしていろと目で伝えようとした。
ティーロは、急いだからか、嬉しさからか、そばかすの散った頬を上気させ、
「え? なに?」
アルビンの表情の意味が掴めず、キョトン、として首を傾げた。
アルビンは、シッ、と鋭く制し、ルーァを見遣った。ルーァはティーロが入ってきたことにも、二人のやり取りにも気がついていないようだった。
どうしたの?
声にはださず、口をパクパクさせながらティーロが尋ねる。アルビンは、とにかく黙っていろと身ぶりで示し、気遣わしげにルーァに向き直った。
ゆっくりと歩いて、座りこんだまま虚空を見つめているルーァに近づく。ローテーブルを挟んだ向かい側に置かれたスツールの手前で、アルビンは立ち止まった。
「大丈夫かね」
囁くように尋ねたアルビンを見ることなく、ルーァは静かに語りはじめた。
時折、苦しげに軋む声は、捩じ込まれる錆びた釘のように、アルビンの胸を痛めた。
※
ひび割れ、亀裂の走るビル群の上を、暗い色をした厚い雲が覆っている。
ビルに挟まれた灰色の道路は、巨大な鉤爪で切り裂かれたように抉られ、めくれあがったアスファルトの下からは、白っぽく枯れたような雑草が伸びていた。
アスファルトの広い道路の脇には、細い歩道があった。網の目のような亀裂があちこちにあり、ひどく歩きにくい。
ティーロは、大きく抉られたような場所を迂回して、それ以外は広い道路を歩いた。
その視線は、殆どが危なげな足元とその先に注がれていたが、時折、ビルの隙間から覗く暗い曇り空にも向けられた。暗灰色の空を見上げる時、普段は明るい灰緑色の瞳が、頭上を覆う雲のように翳るのだった。
空を見上げ、ティーロは、真っ白な地下都市にいる、哀しげな青灰色の瞳の天使のことを想った。
彼のことは好きだ。
だが、「天使」という存在は、どうしても受け入れ難かった。
幼い頃に父と母を奪った、天使だけは、どうしても赦すことができそうにない。
(天使じゃなかったらよかったのに)
両親を殺したのは、彼じゃない。そんなことはわかっている。同じ「天使」でも、姿形もまるで違う。今、この地上に巣食っている金色の天使共とは似ても似つかない。
彼は違う。頭ではわかっているのに、それでも天使は天使だと、心の片隅で囁く声が消えない。
とはいえ、その囁き声があってもなお、彼が好きだという気持ちが変わらないのは、奇跡にちかいのかもしれない。
六階より上が、ザックリと切り取られたように失われたビルがあった。
ティーロがそのビルの正面玄関を通り抜けると、左側から突き刺さるような視線を感じた。
瓦礫の散らばる玄関ホールの隅から、その視線は投げかけられている。照明はなく、ただでさえ薄暗いホールの中でも、隅の方はなにがあるのかさえわからないほど暗い。
ティーロは、黒々とした影をゆっくりと振り向いた。こちらからは見えないが、相手に自分の顔を確認させるのが目的だ。
視線から、棘が消えた。ティーロの姿を認め、追い払う相手ではないと判断したのだろう。
そこにいるのが誰なのかわからないまま、ティーロはかるく頭を下げた。それから、また前に向き直り、ホールの奥にある一基のエレベーターへ向かった。
ギシギシと軋むエレベーターで五階まで昇り、ティーロは最奥の扉の前に立った。
インターホンを鳴らし、誰何する声に名を名乗り、開けられた扉からまっすぐに廊下を進み、灰色のリビングに入ったティーロは、リビング中央に置かれた真紅のソファで、目指す相手に対峙した。
「ここには、あまり来るなと、言ってあっただろうが」
眠たげな口調に咎める響きはないが、わずかに寄せられた眉根が、ティーロがここに来たことへの懸念を表している。
「うん。わかってるよ」
素直に頷くティーロに、ソファに座った男、レグスは仕方ないと首を振り、ティーロに傍にきて座るように促した。
「爺さんの仕事はどうした。ちゃんと教わってんのか」
「教えてもらってるよ」
ティーロは、レグスの隣ではなく、ソファの前の床に胡坐をかいて座りこんだ。
「しっかり仕込んでもらえよ。大事な仕事だからな」
「わかってる」
「……それで、なにかあったのか」
この場所にはなるべく近づかないように言ってあった。ティーロもそれはわかっていると言う。それなら、どうしても会いに来なければならなかった理由があるのだろう。
それがなんなのかと尋ねるレグスに、ティーロはフッと視線を落とし、擦り切れた灰色の絨毯の綻びを見つめながら、抑えた声で尋ね返した。
「兄さん、前に予言をする天使だとかの話をしてたよね?」
レグスは、年の離れた弟に頷いた。
「ああ、してたな。それがどうした」
「天使を滅ぼす種がどうとかって、覚えてる?」
「まあ、な」
「あれって、ホントに卵人なのかな」
ティーロは相変わらず視線を落としたままだ。レグスは、人の目を見て話すことのできない人間を基本的に信用しないが、ティーロは別だ。いつもはしっかり目を見て話す弟が、自分の目を見ることもできないほどなにを思い悩んでいるのかと、レグスは眉をひそめた。
「どういう意味だ」
「それが天使ってことはない?」
「そう思う理由は?」
ティーロは、乾いた唇を舌先で湿らせ、ゴクリと唾を飲み込んだ。
それから、意を決したように話し始めた。
二十年前に黒い天使を滅ぼした、邪眼の天使の話を。
「二十年前、雲の上でなにがあったのか、聞いたんだ……」
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