壊れやすい天使 壊れやすい天使  
4章「再びまみえた宿命の子ら」
 
 
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4-8

 白い部屋の壁一面を占めるのは、一つの巨大なモニターだった。
 モニターは、その内部で数十もの小さな画面に分かれ、それぞれ異なる場所を映しだしていた。  
 モニターの前には、細長い制御卓が据えられ、回転式の肘掛け椅子が一つある。その椅子に座り、制御卓の計器類を操作しながら、アルビンがモニターに目を配っていた。
 そして、アルビンの背後には、ひょろりと背の高い、痩せた少年が立っていた。
 栗色の髪は、クルクルと渦を巻き、あちこちもつれて絡まりあっている。鼻から頬骨には薄いそばかすが散り、困ったように下がり気味の眉は愛嬌がある。名前は、ティーロ。アルビンの息子の息子、つまり孫だった。  
 モニターの映像は、どれも静かに動き続ける機械で、そこに人の姿はない。現場に行けば、騒々しい物音に溢れているのだろうが、防音設備の施されたこの部屋の中は、かすかな唸りしか聞こえない。空調と、制御卓やモニターから漏れる、ごく小さな囁き。二人の人間が放つ、生きている者の気配の音。  
 数十年来そうしてきたように、この地下都市で今も稼働する機械類に、不備や不調はないかと確認しながらも、アルビンの思考は、常とは違う場所へと漂っていった。  
 彼ら以外にこの地下都市にいる、ただ一人。天使と呼ばれるその者のことに。
「ここは、任せる」  
 そう言って立ち上がったアルビンに、ティーロは頷き、それから尋ねた。
「ルーァの所に行くの?」
「……まぁ、そうだな」
「僕も後で行っていい?」  
 ティーロはどうやら、ルーァのことが気に入っているようだった。それを言えば、アルビン自身も、相手が天使だとわかっているのに、ルーァのことを気に入ってしまっている。天使は全て、恐怖と憎悪の対象であったはずなのに。  
 期待に満ちたティーロの灰緑色の目を見返し、アルビンは頷いた。
「一通り、お前が自分でチェックをしてからならな」
「わかった! すぐに行くよ」  
 ティーロは、パッと顔を輝かせ、言葉通り、素早く椅子に腰をおろした。
「手は抜くなよ」
「わかってるよ」  
 答える間にも、ティーロの細長い指は、制御卓の上を軽やかに踊りだしていた。アルビンは一瞬、わずかに頬をゆるめて孫の背中を見守り、モニター室を後にした。  


 一度目覚め、傷ついた羽を仕舞ってから再び眠りについた後は、ルーァはあまり眠らなくなった。  
 地下都市の管理人であるアルビンは、いつ訪れても必ず目覚めているルーァに、
「お前さん、眠らないのかね」  
 と、思わず尋ねたことがある。ルーァは、かすかに微笑んで、アルビンを歳甲斐もなく動揺させる優しい口調で答えた。
「眠っている。ただ、少し眠り過ぎたのかもしれない。あまり眠くはないんだ」
「そうか。まぁ、多少なりとも眠れてるならいいが」
「心配かけてすまない。ありがとう」  
 天使は卵人に、謝罪も感謝もしない。  
 それが当たり前の世界に生まれたアルビンは、こんな時、どうしていいかわからなくなる。口ごもり、困ったように首を掻き、少しぶっきらぼうに、
「礼を言われるようなことじゃない」  
 と言いながら、自分の前にいる、天使にしか見えないこの相手は、本当に天使なのだろうかと、改めて思う。  
 その背中に、確かに翼を見た。完璧なまでに整った容貌と肢体も天使のものだ。
 だがそれでも、拭い去れない違和感がある。決して不快なものではないが、その違和感は、常にアルビンの頭の片隅に引っかかっていた。  
 ルーァはよく、壁際に佇んで、黄色い額縁の中の卵を眺めていた。アルビンがこの地下都市の管理を任された頃には、既に壊れかかっていたが、今もかろうじて、天上、地上、地下を包む、この卵型都市の外観と名前だけは映しだされているそれを、飽きもせずに見つめていた。  
 そんな時、彼はなにを考えているのだろうか。アルビンには想像もつかなかった。聞けば、率直に答えてくれるのかもしれないが、今日もアルビンは、それとは違う言葉を、ルーァの背中に投げかけていた。
「お前さん、有翼人の話を、聞いたことがあるかね」  
 アルビン自身、どうして今、その話を持ちだす気になったのかわからなかった。だが、あまり深く考えず、咄嗟に口をついてでたその言葉に、ルーァの背中が、ピクリ、とふるえた。  
 ゆっくりと、あまりにもゆっくりとルーァが振り向く。その動きの静かさに、そこだけ時の流れが変わってしまったようだ。  
 ルーァの、青を含んだ灰色の瞳が、アルビンのハシバミ色の瞳と交わる。アルビンは、途端にいたたまれないような、それでいて身動きできない衝撃に、体の動きを奪われた。  
 見つめるだけで相手を縛るこの力は、まさしく天使のものだ。やはり彼は、天使そのものなのかもしれない、と思う。  
 ルーァの瞳が、アルビンを見つめながらも、ふいに遠ざかる。どこか遠い景色を思いだすような、はるか昔の記憶を手繰るような、そんな目だった。  
 時間にすれば、一分か二分程度のことだ。だが、ルーァの中に押し寄せた記憶は、それ以上のものだった。ルーァは、わずかに、喘ぐように息を吸い込んだ。  
 朽ち果てた広場の噴水。傍らに座りこんだ少女のまるい額には、赤い目のような印。自分を見上げた、あの、翠緑の瞳。  
 少女が夢見るように語ったのも、有翼人と呼ばれる者達の昔話だった。
「以前、一度だけ、聞いたことがある」  
 ルーァは、今もハッキリと瞼に映る少女の面影とともに、アルビンに答えた。
「空の上に住んでいる、悪い子には恐ろしく、いい子には優しい友達だと」
「まぁ、大体、そんな話だな」  
 アルビンはようやくの思いで頷き、ルーァの視線からかろうじて顔を逸らすと、白い天井を見上げた。
「天から降りて、地上の悩める人々を救うだとか、悪しき人々を焼き殺すだとか、そんなお伽噺だ。いや、お伽噺だと思っていた」
「思っていた? 今は思っていないのか?」
「お前さんは、あの日、どこにいた?」  
 ルーァの問いには答えず、反対に問い返されて、ルーァは少し戸惑ったように眉をひそめた。
「あの日?」
「あの日。二十年前のあの日のことだ」
「二十年前……」  
 それが正確に「あの日」なのかはわからない。だが、二十年前といえば、無数の卵に囲まれてタラタと暮らしていた場所に、冷たい目をした天使が二人現れてタラタを連れ去り、それを追って、自分も集積所を出た。黒い舗装路に斃れたリフェールの小さな死骸を見つけ、大聖堂の一室で、ガラスケースに閉じ込められたタラタを見つけた。  
 記憶の痛みに眉をひそめ、ルーァは胸をおさえて俯いた。
「天上の都市にいた」  
 呟くようにルーァが答えると、アルビンは突然、ハッとしたような顔になった。敢えて逸らしていた目線をルーァに向け、やけに真剣な顔で尋ねた。
「なら、あの日、上でなにがあったのか、お前さんは知っているのか」  
 アルビンが尋ねているのは、もちろん、タラタやリフェールのことではないのだろう。ルーァにとって、二十年前といえば、その二人のことに尽きるのだが。  
 黙っているルーァに、アルビンが必死の面持ちで続ける。
「知らんはずがないんだ。たとえ地上にいようと天上にいようと、あれだけのことを知らずにいられるわけがない」  
 アルビン自身が目にしたわけではない。あの時も今も、管理人としてこの地下都市に籠っていた自分は、人伝てにそれを聞いただけだ。だが、その場にいなくとも、それは鮮烈なイメージとして、アルビンの中にも刻まれている。  
 厚い雲に覆われ、暗い色をした空から降り注ぐ、黒い天使の雨。燃え上がる地上。誰もが恐怖にふるえたあの日。黒い天使が消え、金色の天使の生まれたあの日。  
 ルーァはようやく顔をあげ、どこか哀しげな表情でアルビンを見た。
「私自身に起こったことなら覚えている。だが、アルビンが聞きたいのは、それとは違うと思う。話してくれないか。その、二十年前のことを。地上ではなにがあった? それは天上も関わっていたのか?」  
 本当に、ルーァがそれをわからないのなら、あの日のことを、どう話せばいいのだろう。アルビンは言葉に詰まり、少し逡巡した後、口を開いた。
「人から聞いた話だ。儂が見たわけじゃない。二十年前のあの日、天使達の間で争いが起こったらしい。理由は知らんが、地上の都市はあちこちで炎があがり、かなり激しい争いだったようだ。そしてその争いの最中、空から無数の天使が、落ちてきたそうだ。まるで、黒い雨のようだったという。雨みたいに降り注いで、そのまま地面に叩きつけられて、ひどい有様だったらしい。今までいた天使達の殆どは、その日に死んじまった。その後は、それまで見たことのないやつらが、あっという間に、今までいた天使達を飲み込んで、この地上に溢れかえった。その、新しく生まれた金色の髪とタテガミを持つ奴らも、天使と呼ばれている。姿形はまるで違うのにな。なぜだ? 奴らがそう名乗ったのか? いや、姿形は違っても、奴らから発する気配というか雰囲気というか、そのキレイな皮の下に隠れているものは同じだと誰もが感じ取ったからだろうな。まぁ、そういうことらしい」  
 アルビンは一気に喋ると、ふいに疲れきったように口を閉ざした。
「天使が……」  
 呟くように言った後、ルーァもまた声をなくした。





   
         
 
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