壊れやすい天使 壊れやすい天使  
4章「再びまみえた宿命の子ら」
 
 
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4-6

 それから、どのくらい進んだ頃だろう。  
 左右のビルは、かなり大きなものだったらしく、出口の光はまだ見えなかった。暗灰色の雲から漏れる薄明かりも、このビルの狭間には届いてこないようだ。
 今が昼間で、ここがビルとビルの隙間だということすら忘れそうになるほど、暗くて細い道を進んでいたジーナは、最初、その声がなにを言っているのかも理解できなかった。
「ここです」  
 なにを言っているのかと、耳をそばだて、更に先へ進もうとしたジーナを、立ち止まったタラタの背中が止めた。
「タラタ? どうして先に行かないの?」
「着いたんだよ、ママジーナ」
「着いた?」  
 ジーナは訝しげに首を傾げた。
「そうです。止まってください。今、開けますから」
「開けるって……」  
 なにを開けるのかと尋ねようとした時、カチャカチャと小さな金属音が聞こえた。そして、乾いたノックの音。
「誰だ?」  
 低いしゃがれた男の声が聞こえた。くぐもって聞こえるのは、ドアかなにかに隔てられているからだろうか。
「僕です。予定外のお客が二人一緒です」
「客? そいつは招かれざる客か?」
「いいえ。僕が自分で招きました。どうしても会わせたくて」
「それなりの理由があるんだな?」
「はい」  
 交わされる会話を、ジーナはじっと押し黙って聞いていた。タラタはこの会話の意味を、全てわかっているのだろうか、と思いながら。  
 カチャン、と内側からの金属音のあと、白い亀裂が暗闇に走った。  
 線状の亀裂が横に広がり、幅広い帯になった頃、ジーナはそれが、ビルの内側へと扉が開いていっているのだとわかった。扉から溢れだした光は、そんなに強くはないのだろうが、暗闇に慣れた目にはひどく眩しい。
 ジーナは目を細め、扉から漏れる光で、前にいるタラタと、その先の人物の姿が、黒っぽく浮かびあがるのを見た。  
 黒い影が動き、光を遮る。そして光の向こうから、誘う声がした。
「入ってきてください」
「ママジーナ、行こう?」  
 黒いシルエットのタラタが手を伸ばし、ジーナの右手を掴んだ。  
 ジーナは、タラタに手を引かれ、目をしばたたかせながら、光の中に足を踏み入れた。  
 眩しくて、まだよく見えない。足の裏が、凹凸のない硬い石のような感触を伝えてきた。
 目が慣れてくると、そこがあまり広くない倉庫かなにかのような場所だということがわかった。外へ漏れた光は、天井のダウンライトのものらしい。幾つかあるダウンライトは、壊れたか切れたかしているものも多かった。
 目の前には、帽子を深くかぶったタラタと髪の短い小柄な少年。更にその奥には、鉄製の大きな箱に腰を下ろした、熊のようなスキンヘッドの大男がいた。  
 黒髪の少年が、ジーナを手招きしてもっと奥にくるように促した。ジーナは、操られるようにフラフラと歩みを進めた。少年は、
「もう大丈夫ですよ」  
 上目遣いにジーナに言うと、ジーナの横をすり抜け、入ってきたばかりの紺色の扉を閉めた。カチャン、カチャン、と施錠の音が二回、聞こえた。鍵をかけ終えると、少年はもう一度ジーナの横を通り、座ったままの男の前に立った。
「あっちはどうした」  
 ひび割れた掠れ声で男が尋ねた。
「無事に想いを遂げましたよ。ただ、やっぱり見つかってました」
「逃げたのか」
「逃げる気は、もともとなかったみたいですから」  
 男は、束の間、考え込むような間をあけ、重々しく「そうか」と呟いた。
「それで、そっちをすぐに連れて行く気か?」  
 気持ちを切り替え、ジーナとタラタをかるく顎でしゃくって尋ねる男に、少年は素早く一度、頷いた。
「できれば」
「問題ないのか」
「ないはずです」
「ふむ」  
 唸るように言って、男が立ち上がった。  
 立ち上がると、本当に大きかった。筋骨隆々たる体躯は、動かしがたい巨石のような印象だ。はるか高みから見下ろされ、ジーナは自分が子供になったような気分だった。頼りなく、心細く、無力だ。  
 押し潰されそうな圧迫感に、右手を握ったタラタの手を、無意識に強く握りなおしていた。
 タラタの手は、震えていなかった。
 天使達と対峙した時とは違い、寧ろジーナを力づけるように、きゅっと握り返され、ジーナは少しだけ気持ちが楽になった。タラタが怯えていないなら、見知らぬ二人に、今すぐ自分達を傷つける意図はないのだろう。
 男は、暫くジーナとタラタと交互に見比べ、それから、低く掠れた声で尋ねた。
「お前、名前は」  
 その問いは、ジーナに向けられたもののようだった。ジーナは男を見上げ、揺るがない灰色の目を、磨きあげられた硝子のような緑の目で見つめた。  
 正直に答えるかべきか、ほんの一瞬だけ迷った後、ジーナは答えた。
「ジーナ」
「ジーナ。ふむ。どこかで聞いた名前だな」
 なにかを思い出そうとする目つきで呟いたが、ジーナにはこの男と会った記憶はない。これだけのインパクトのある相手なら、一度会えば忘れそうになかった。
 だが、どこかですれ違う程度のことはあったのかもしれない。ジーナの記憶の縁を、カリカリと引っ掻くなにかがあった。今のような姿格好ではなかったのかもしれない。
 ジーナは思い出すことができなかったが、それは男も同じようだった。
「まぁいい。ついて来い」  
 記憶を探る目つきを消し、タラタの名前は尋ねようともせず、男がクルリと背を向けた。
 倉庫らしき部屋の、もう一つの扉の前まで歩いていった男は、肩越しに振り返り、ジーナ達について来るように促した。  
 これ以上、どこへ連れて行こうというのだろう。さっきは確かに「着いた」と言った。天使の追っ手も、さすがにここまでは来られないだろう。いつまでたっても出てこないジーナ達に、嫌々ながらも暗い隙間に入りこんだとしても、暗闇の中、中への扉を見つけるのは難しい。ましてや、中から既に鍵をかけてある。この場所を天使が見つける可能性は殆どないはずだ。  
 それなら、自分達に、見知らぬ相手に誘われるまま、これ以上よくわからない場所に入りこんでいく理由があるだろうか。  
 そんなものはない、と思ったジーナだったが、タラタは再び言った。
「行こう」  
 ジーナはタラタを見やり、眉をひそめた。
「でも、タラタ。あいつらはもう撒いたんじゃない?」
「そうかもしれない。でも」
「表からここを見つけることができるの?」  
 ふいに思いついた疑念に、不安が胸をざわつかせた。
「それはわからないけど……」  
 タラタは曖昧に首を振った。その言葉を受けて、ここまで二人を連れてきた少年が言った。
「その可能性は薄いですよ。表の入り口は塞いでありますから」  
 ジーナは少年をチラリと振り向き、再びタラタに向き直った。
「ほら、ああ言ってるし。だったら、ここで時間を稼げば、あいつらも諦めるかも」
「どれだけ待てば諦めるかなんて、わからないよ」
「ここにずっと留まるつもりなんですか? 食料や水はどうする気です? トイレは? ここには、長く逗留するような備えや設備はありません」  
 少年の言葉に、ジーナは首を傾げた。
「ここは、なんなの?」  
 今頃になって、あんな隙間に通じる扉が存在することが、ジーナには不思議でならなくなった。天使地区で、天使から身を隠すための避難場所なら、それこそ、それなりの食料や水が蓄えてあってもよさそうなものだ。  
 ジーナのその問いに答えたのは、ジーナが尋ねた少年ではなく、扉の前で待機していた、熊のような大男だった。
「通路だ」
「通路?」
「そうだ。だから、さっさとついて来い」
「でも、待って。どこへ通じる通路なの? あたし達をどこへ連れて行くつもりなの? あたし達はただ、天使達から逃げてただけよ。この地区から抜けだせるならそれでいいの。あなたについて行けば、ここから逃げだすことができるの?」  
 ジーナの問いかけに、男は太い眉を寄せ、小柄な少年に訝るような目を向けた。





   
         
 
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