(殺してやる)
タラタを傷つけるもの全て。タラタを奪い去ろうとするもの全て。
翠緑の瞳がギラリと輝き、天使は一瞬、その光に心を奪われた。
「お前……」
天使が、膝を折った。
タラタの喉にかかっていた手が、力なく落ちる。
そして天使は、横ざまにドサリと倒れた。驚きの表情を浮かべた青い目は、虚ろに見開かれたままだ。
タラタは、天使の手から解放されると同時に、激しく咳きこんだ。
喉を押さえ、背中をまるめたタラタから、ヒューヒューと、隙間風のような音がする。その音がひどく苦しげで、ジーナは慌てて駆け寄り、タラタの背中を擦った。
「タラタ、タラタ、大丈夫?」
タラタは目の端にきらめく涙を溜め、ジーナを振り仰ぐと、それでもニッコリと微笑んだ。
「うん。ぼくは、大丈夫だよ」
言葉通り、最初の発作のようなものが治まると、隙間風のような音も、咳もしなくなった。だが、締めつけられていた痕は痛むのだろう。ちょっと顔をしかめて、喉元を擦っている。
「本当に大丈夫? 見せてみて」
「大丈夫だよ」
襟元を開けて見せろと言うジーナに、タラタは微笑んで首を振った。それが、心配かけまいと無理しているような気がして、ジーナは重ねて言った。
「本当に? いいから、ちょっと見せてみて。痣にでもなってるんじゃない?」
「大丈夫だってば。それより、早く行かなきゃ。いつまでもここにはいられないでしょ?」
「でも……」
と、言いかけ、ジーナはふと、足元に倒れた天使を思い出した。
「そう、そうよね。ごめんね、タラタ。辛いだろうけど、早くここから離れよう」
「まさか、そのまま逃げる気?」
澄んだ硝子細工のような声に、ジーナはギクリと身を強張らせた。
ジーナとタラタが向かおうとしていた先の、黒っぽいビル。先程の天使も、同じビルから出てきたのかもしれない。あの天使に連れがいるかどうか、確かめもしなかった。もし、全てを見られていたのなら、どんな言い逃れも無駄だろう。
今、ジーナとタラタの前にいるのは、三人の天使達。三者三様に整った容貌に、一様に友好的とは言えない表情を浮かべていた。
(また、天使)
次から次へと現れる天使に、自分達は、よほど都市の中心部近くまで連れてこられたらしいと、ジーナは眉をひそめた。
今度は三人。本当に逃げきれるだろうか。
「ねぇ、死んでないよね?」
中の一人。膝上のワンピースを着た天使が、首を傾げた。その視線は、地面に倒れたままの天使の後ろ姿を見ている。倒れた天使の虚ろに見開かれた目は、彼らの位置からは見えない。
「手は触れてなかった」
長い前髪の小柄な天使が、抑揚のない口調でポツリと呟く。
「だけど、いきなり倒れたよ。意味がわかんない」
「威璃(イリ)、確かめて」
最初に声をかけてきた、やわらかそうな長い髪の天使が命じ、小柄な天使がそれに応えた。
「わかった」
ジーナとタラタが制止する間もなく、イリと呼ばれた天使は、倒れた天使の顔の方に回り込み、すぐに淡々と告げた。
「死んでる」
「嘘でしょ?」
ワンピースの天使が両手で口元を覆い、長い髪の天使が顔をしかめた。
「殺すの殺さないのって騒いでたけど……お前、なにをした?」
淡いブルーの瞳に睨みつけられ、ジーナの喉はカラカラに乾いた。
この場限りの出まかせで、天使を煙に巻くのは不可能だ。天使はその嘘を、たやすく見透かす。天使は心を読むのだから。
だからといって、本当のことは言えそうにない。なにか言葉を発することさえ、今はできなかった。
「なにをした」
天使が今にも斬りつけそうな声音で繰り返し、ジーナは、考えまいとしても、勝手に思考が流れだすのを、止めることができなかった。
なにをしたのか。
自分はただ、願っただけだ。タラタを傷つける者は、全部死ねばいいと、念じただけだ。
その、願うココロが、天使を殺すと知って、それでも願った。
実際に手をかけたのと同じだ。恐ろしい罪だと思う。例え相手が天使だろうとなかろうと、ただ一つの命をたやすく奪っていいわけはない。赦されないことだと思う。
だが。
それでもいいと思ったのだ。タラタを傷つけられるくらいなら、タラタを奪われるくらいなら、どれほどの罪だろうと、敢えてその汚泥をかぶることを、自分自身で選んだのだから。
「心が殺す? お前が、卵人のお前が、僕達天使に殺意を向けた? それで琉戯(ルギ)は死んだっていうのか」
ルギ、というのが、地面に横たわって死んでいる天使の名前なのだろう。長い髪の天使は、瞬きもせずにジーナを見つめている。その冷えた青い瞳に宿っているのが、驚愕なのか、怒りなのか、恐怖なのか、ジーナにはわからなかった。ただ、自らの意志を裏切って、天使に真実を告げた自分の思考が、腹立たしかった。
「走って」
ジーナの手を引き、タラタがふいに駆けだした。
「えっ」
一瞬、戸惑ったものの、ジーナもつられて走りだし、すぐに、反対にタラタを引っ張る形で、暗い都市の、ひび割れた道を走った。
「待て!」
突然逃げだしたジーナとタラタに、天使達は慌てて追い縋った。
ひび割れた道路。押し潰されそうな雲の天蓋。背中の産毛がチリつくような、背後からの圧力。
薄暗い都市の狭間を、追われながら駆け抜けるこの感覚を、ジーナはどこかで味わったような気がした。
嘆きの天使を殺し、その屍と目に見えぬ追っ手から逃げる日々とは別に、今とよく似た経験を、確かに昔、したような気がした。
ただの既視感とは思えないほどに、その感覚はリアルで、ジーナの中を恐怖が満たした。
(逃げなきゃ。少しでも早く、少しでも遠くに)
立ち止まるわけにはいかない。
立ち止まれば、天使の矢が、この心臓を貫くから。
(天使の矢?)
当たり前のように流れていった思考に、ジーナは眉をひそめた。
ジーナの知る金色の天使達は、その手に武器を持たない。ただ、その存在だけで、卵人達を意のままに操るだけだ。
「こっちです!」
切羽詰まった囁きが、すぐ横の暗がりから聞こえた。ビルとビルの狭間、人一人がようやく通れるか通れないかの隙間に、黒っぽい人影があった。
躊躇いは一瞬。タラタの、
「行こう」
の言葉に、ジーナはタラタを先に、続いて自分も細い隙間に体を滑り込ませた。
「嫌だ。こんなとこ入るの?」
後を追ってきた天使の、嫌悪とためらいの声が背中に聞こえた。
「反対側に回りめばいい。イリ、あんたはここに残って。挟み撃ちにしてやるから」
「わかった」
続けて聞こえた会話に、ジーナはギクリとして、動きを止めた。
ひどく暗いビルの狭間。その出口の光も今は見えないが、行き着く先が一つしかないなら、いずれ捕まるのは確実だろう。
どちらに進めばいいのか、立ち止まって逡巡するジーナに、先を行くタラタが言った。
「ママジーナ、立ち止まらないで」
「でも、タラタ。挟み撃ちにしてやるって、今……」
「大丈夫です。とにかく、こっちに進んでください」
二人をこの細い隙間に誘い込んだ声が、タラタの向こうから聞こえた。その声に、最初の焦りは感じられなかったが、それでも、有無をいわせぬ響きがある。
「でも」
尚もためらうジーナに、暗闇の中でタラタが言った。
「大丈夫だよ。ぼくを信じて」
タラタを信じろというのなら、自分がこれ以上あれこれ思い悩むことはないのかもしれない。タラタは、見知らぬ救い手の心の声を、聞いたのかもしれない。その心に、天使から無事に逃げきる道を見出したのかもしれない。
「そうだよ。だから、大丈夫」
タラタのその言葉に、自分の考えを天使の力で感じ、タラタがそれを肯定したのだとわかった。ジーナは、ホッと安堵の吐息をもらし、再び壁に体を擦りつけながら前へ進みはじめた。
タラタの前にいる誰かも、ジーナが動きだした気配に、また歩きだしたようだ。
ジャリ、ジャリ、となにかの破片か砂を踏みしだく音と、衣服が壁を擦る音、三人の呼吸の音だけが、暗いビルの狭間に響いていた。
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