それでも、再び天使に会うことを予期していても、いつ、どんな形で会うことになるのかまではわからない。
ましてや、嫌な予感から逃れるために足を踏み入れた細い路地で、暴力的な臭いを体中にまとった卵人の男に行く手を阻まれた今は、すぐ先に待ち構えているかもしれない未来の恐怖に、身が竦んでなにも考えられなかった。
薄汚れた藁のような髭面の男だった。
櫛で梳いたこともないような、縮れた髪は肩より長い。背はそれほど高くはないが、横幅はたっぷりあった。擦り切れた革の上下に、ジャラジャラと重そうな鎖をあちこちにぶら下げている。
男は、髭に埋もれた口でニタニタ笑いながら、道の真ん中に突っ立ち、ジーナとタラタを、交互に舐めるような視線で見つめていた。
両手は幾つも鋲打ちされたジャンパーのポケットに突っこんだままだったが、明らかに道を譲る気配はなく、黙って横をすり抜けることも許してくれそうになかった。
ジーナは、タラタの手を強く握りしめ、ゴクリと唾を飲み込んだ。舌が口蓋にくっついて、声がでてこない。足は、ひび割れたアスファルトに張り付けられたように、ピクリとも動かすことができなかった。握りしめたタラタの手が、小刻みに震えているのがわかった。
「ふたァり」
粘ついた聞き取りにくい声で、男が言ったその時、ふいに、背後に人の気配を感じた。
ハッとして振り返ろうとした瞬間、側頭部に、ガツン、とした衝撃がきた。
痛みを感じる間もなく、暗闇がその巨大な手を伸ばして、ジーナを頭から包みこんだ。
そして、安らかな暗闇の中に、煩わしいノックの音が響いたのは、それからどのくらい経った後だったのだろう。
ズキズキと疼くような痛みと、常に感じる小刻みな振動と、時折加わる、大きな揺れ。それが、暗闇の中に押し入り、ジーナを無理矢理、現実に引きずり戻した。
(あたしは……)
どうしてしまったのだろうと記憶を探りながら、細く目を開けた。
最初に見えたのは、青ざめたタラタの横顔だった。帽子をかぶったまま、苦悶の表情で目を閉じている。眠っているのだろうか。服装に乱れはないが、背中に背負っていたはずのバックパックはなく、両手を背中に回した格好で、仰向けに寝ている。
それから、擦り切れた濃い灰色の敷物と、タラタの向こうに四角い窓。窓の向こうは、いつもよりも暗く見える、暗灰色の空。
タラタの足元の方には、見慣れない人影も一つあった。焦げ茶の髪は、かなり短い。こちらに背を向けているが、その肩のラインと七分丈のシャツからでた腕は、若い女のもののように思えた。両手首は、腰の後ろで、汚らしい太いロープに縛られている。
自分自身はといえば、絶えず振動する床に、体はうつ伏せに、顔だけは横向きに倒れているようだ。両手が不自然な形で後ろに回っている。動かそうとしたが、手首に食い込んだなにかが、ジーナの動きを遮った。おそらく、見知らぬ誰かと同じように、自分の手首もロープで縛められているのだろう。タラタの腕も、体の下敷きになっているが、きっと同じなのだろうと思った。
(ここは、あの車の中?)
そう思いついた途端、恐怖に心臓がわなないた。
どうやら、自分は、後ろ手に縛られ、赤いワゴンの荷台に乗せられて、どこかに移動しているらしい。
(どこに?)
逃げてきた都市の中心にだけは、向かっていませんようにと、胸の内で強く念じたが、嫌な予感が否応なく押し寄せてくる。
どうしてもそれを確かめたくて、ジーナはそっと身を起こした。
途端、粘ついた男の声が頭の後ろから聞こえ、ジーナを凍りつかせた。あの時、行く手を遮った男のものだということは、すぐにわかった。
「動くんじゃねェよォ」
石のように固まったジーナに、男の声が更に言った。
「大人しくおねんねしてなよォ。動いたら、まァた一発、お見舞いすることになるからなァ」
頭の鈍い疼きが、記憶の痛みに鋭い刺になり、ジーナは怯んだ。それに、ここで下手な真似をして、タラタを危険に晒すわけにはいかない。
ジーナは言われた通り、一旦起こした体を、再び振動する床に横たえた。
「それでいいよォ。いい子にしてりゃあ、そォんなに痛い目に、合わなくて済むからなァ」
笑いを含んだ声に、ジーナの中で燃えるような怒りが、チカリと光る。だが、今その怒りを、爆発させるわけにはいかない。
ジーナは、目を見開いたまま、燻る怒りを赤黒い塊にして、胸の奥にしまい込んだ。捨て去ったわけではない。機会さえあればいつでも呼びだせるように、しまっただけだった。
ふと、タラタの横顔に目を留めたジーナは、突然、息苦しい不安を覚えた。
(生きて、いるの? タラタは、大丈夫なの?)
声をかけたいが、大きな声をだせば、あの男に「痛い目」に合わされるかもしれない。いや、痛みなど、この際どうでもいいが、また気を失って、今の状況を探ることもできず、この先にあるかもしれない逃げだすチャンスを棒に振ることになるのは困る。
もしも、あの夜の天使の言葉が、正しく未来を予言していたなら、ここで自分が死ぬことはない、と思う。
だが、タラタは?
あの言葉は、タラタの無事を保証するものだったか?
答えは、否だ。それなら、例え自分一人の命の安全が保証されることに、なんの意味があるのか。タラタを失って生きる命に、意味なんかない。
そう思うと、ジーナは全身の血が、音をたてて流れだすような気がした。
確かめたかった。
せめて、一言声を聞くなり、呼吸や心臓の鼓動を確かめるなりしたかった。
意を決し、タラタの名前を囁こうとした瞬間、
ドン、
という音とともに、ジーナは車体ごと宙に跳ねあがった。
なにが起こったのかと考える間もなく、ワゴンは地面に叩きつけられ、ジーナは肺の中の空気を一気に吐きだした。そのまま、一瞬、息が止まる。
「なんだァ!?」
更にもう一度、ズウン、という地響きと強い風、ガラガラと重くて硬いものが崩れ落ちるような音がして、ジーナ達を詰め込んだ赤いワゴンは、もう一度宙に跳んだ。
「タラタ!」
体が浮きあがった瞬間、咄嗟にタラタの名前を叫んだが、タラタは青褪めた顔で目を閉じたまま、今の衝撃にも無反応だった。
着地の時に、めくれあがったアスファルトか、道路近くにあった瓦礫にでも乗りあげたのかもしれない。ワゴンは着地と共に傾ぎ、そのまま横倒しになった。
ジーナの上に、ぐったりしたタラタの細い体が滑り落ちてくる。ジーナは、手を縛られて不自由な体を駆使して、必死にタラタのクッションになろうとした。頬がタラタの首筋に触れ、そのぬくもりを感じたかと思った次の瞬間には、ワゴンはクルクルと大きく旋回し、ジーナとタラタは、ワゴンの天井に押しつけられた状態のまま、為す術もなくワゴンと共に円を描いて道路を滑っていった。
路面の凹凸にぶつかる度、車体に衝撃が走り、遂には、下になった窓ガラスが砕けた。
「クソっ」
聞き覚えのない男の罵声が聞こえた。あの時、ジーナ達を背後から襲った相手のものかもしれない。粘ついた男の声はしなかった。立て続けの衝撃の中で、どこかに頭でもぶつけて気を失ったのかもしれない。そうであって欲しいとジーナは願った。
一際大きな破砕音。同時に、ジーナの体はタラタと絡みあったまま、天井と反対の床に叩きつけられた。
目の奥に、閃光。上から落ちてくる暗闇。ガシャン、となにかが割れる音がした。
また気を失うのかと思ったが、数秒、呼吸が止まっただけで済んだようだ。
黒くて細長い塊が、すぐ目の前にあった。
(なに、これ)
瞬きを繰り返し、ジーナはそれが、窓を突き破ってワゴンに侵入した、錆びた鉄柱だと知った。道路の脇に時々、折れたり曲がったりしながらも突き刺してある、古い金属の棒だ。
それは、今は天井になった窓から、運転席側へと伸びていた。自然とその先を目で追ったジーナは、咄嗟に顔を背けた。
金属の棒は、運転していた人間の後頭部を、見事に貫いていた。焦げ茶の巻き毛の中に吸い込まれているあの様子では、運転手はおそらく即死だったに違いない。
「ちょっと、あんた。ボサッとしてないで、さっさとそこからでなよ。あんたがいたんじゃ、あたしがでられないじゃないのさ」
突然の声に、ジーナはビクッと飛びあがった。
声を振り向くと、ワゴンの後ろから、芋虫のような格好で、若い女がこちらに向かってくるところだった。鼻筋が猛禽類のように鋭い、鳶色の目の女だった。どこかで切ったのだろう、頬に一筋の傷が走り、そこから赤い血が滲みだしていた。
女は苛々した口調で、更にジーナを促した。
「ほら、早く。それとも、ここでくたばりたいわけ?」
そんなわけはない。だが。
「タラタ……」
ジーナはタラタを探して、視線をさ迷わせた。
「もう一人のこと? だったら、あんたの足元にいるよ」
口早に言って、女は更にジーナの方ににじり寄ってくる。割れた窓から外に出ようとしているのだろう。それには、確かにジーナが邪魔なようだった。
ジーナは足元に視線を落とした。後ろ手に縛られたまま、蹲るような形でタラタがいた。
「タラタ! タラタ、大丈夫?」
「……う」
かすかな呻き声にジーナが安堵した直後、女はジーナの間近で、出口をあけるように迫った。
「ちょっと、早く! そこどいてよっ」
ジーナは、膝を使って移動し、窓の真下の位置を譲った。
「先に出て。あたしが下から押しあげるから」
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