「えっ、いいの? あ、その、悪いね」
女は途端に申し訳そうな顔になり、かすかに愛想笑いのようなものを浮かべた。
ジーナは、とにかく、急かされることなく、タラタの無事を確かめたかった。
「あたしの背中に乗って。窓から体が出れば、なんとかなるでしょ」
事務的な口調で言ってから、ジーナは膝をつき、肩で体を支えた。後ろ手に縛られた両手のせいで、それだけの姿勢をとるのがやっとだった。
女は、もう一度、悪いね、と呟くと、やはり両腕が不自由なまま、這いあがるようにして、ジーナの背中に上半身を乗せた。
ジーナは、膝を少しずつ、めいっぱい伸ばして、女を窓の外へと押しあげた。
パラパラと、砕けたガラスの破片が降り注ぐ。切り口はあまり鋭くない。その破片で傷つくことはなかったが、爪先立った足が、ブルブルとふるえた。
もう駄目かと思った瞬間、ふいに楽になった。
首を捻って上を見上げると、女の体は、金属の棒を避けながら、割れた窓ガラスから既に半分以上出ているようだ。蜘蛛の巣のように細かな亀裂の入っていたガラスは、殆どが下に落ちて、通り抜けやすくなっている。
最後に、ジーナの背中で足を踏ん張り、女は窓から滑り落ちるようにして、外に出た。
ドサリと、重いものが落ちる音が聞こえ、少しして、
「ありがと。あんたも早く出た方がいいよ」
女が呼びかける声がした。
「わかってる」
ジーナは答え、体から力を抜いた。体格のいい相手ではなかったが、手首を縛められた状態で支えるのは、結構きつかった。
ふうっ、と大きく息を吐き、ジーナは、首を捻って運転席側を見やった。
頭から金属の棒を生やした男の他に、ジーナとタラタの前に立ちはだかった男がいたはずだが、鳶色の目をした女が脱出した時も、誰もそれを引き留めようとしなかった。カチカチと時を刻むような音と、低いモーターの唸り以外、なんの声もない。ジーナは、体格のいいあの男がどうなったのかが、ふいに気になった。
今、突然、襲いかかられでもしたら、ジーナにはどうすることもできない。
ジーナは、運転席から助手席へと視線を移した。
黒い岩のような塊があった。
それは、真実、岩のように動かず、黒々としてそこにあるだけだった。藁屑のような髪が、わずかに黒い岩の向こうに見えなければ、それがあの男だとはわからなかったかもしれない。
気を失っているのだろうか。それとも、ここからは見えない場所に致命傷を受け、運転席の男と同じように、二度と動くことはないのだろうか。
安心していいものかもわからない内、
「う、う……」
蹲ったタラタがかすかな呻き声を漏らした。
途端、ジーナは全神経をそちらに向けた。
「タラタ。タラタ、気がついたの? 大丈夫?」
膝をつき、タラタの方へにじり寄ったジーナは、手を後ろに回したまま、タラタの上に屈み込むようにして尋ねた。
「タラタ、聞こえる? あたしの声が聞こえる?」
タラタの白い指先が、ピクピクと痙攣するようにふるえた。それから、タラタはゴロリと横向きに倒れ、深いため息を吐きだした。
「タラタ?」
瞼と金色の暁光のような睫毛が、ジーナの声に反応するように動き、ゆっくりと、タラタは目を開けた。
「タラタ、大丈夫? 意識はハッキリしてる?」
生きて、意識を取り戻してくれたことに、ドッと安堵の波が押し寄せたが、全ての不安が拭い去られたわけではなかった。タラタの澄んだ青い瞳は、冷やかなガラス玉のように、そこになにも映していないように見えた。
「……ぼくらは、また、あえる……よ」
「え? なに?」
掠れた囁きは、殆ど聞き取れなかったのに、なぜかずっと前から知っている言葉のような気がした。タラタを案じる心とは別の、奇妙な胸騒ぎがジーナを落ち着かなくさせた。
「タラタ? なんて言ったの?」
まばたき。
「ママ、ジーナ?」
青い瞳に、ようやく理解の光が点る。
「タラタ。大丈夫? あたしがわかる?」
「うん。でも……ママジーナ? 手が、動かないんだ。ぼく、どうしちゃったの」
不安の滲む声に、ジーナは勇気づけるように微笑んだ。
「縛られてるだけよ。大丈夫。ここから出て、どこかで外せば、すぐに楽になるから」
「ここからって……」
そもそも、ここがどこなのか、自分はどうなったのか、タラタにはまるで掴めていないのだろう。その表情には戸惑いが隠せない。
その時、ゴンゴン、と車体を叩く音が響き、ジーナはギクリとして振り返った。
天井の窓から、先程ジーナが手助けして外に出してやった女が、焦りの滲む顔を覗かせていた。
「あんた、まだグズグズしてんの? この車、妙な音がしてるし、外もヤバイよ。そっちも気がついた? だったら、さっさとそこから出なよ」
「わかってる。今、出るつもり」
「どうやって?」
「どうって……」
両手は縛られたままで、なにか踏み台でもなければ、窓から抜け出すのは無理だ。タラタのことは、さっきと同じようにして出してやればいいだろうが、自分はどうすればいいだろう。
ジーナが考え込んでいると、女は返事を待つのがもどかしいと、窓枠を掴んで、足から車内に入りこんできた。その手に縛めはない。
「それ、外してやるよ」
「え、あ、ありがとう」
ジーナが驚きに目を見張っている間に、女はジーナの背後に回り込み、きつく縛られた結び目に手をかけていた。
タラタはそんな二人を、未だ夢から醒めやらぬ表情で、ぼんやりと見上げている。
「借りは返しておきたいからね」
言いながら、指先に力を込める。その手首には、縛られた痕がくっきりと残っていた。
「あなたは、どうやって外したの?」
「このクソロープのこと? この車の前が潰れててさ。尖んがったとこがあったから、そこで切ったのさ。もしかしたら、そっちの方が早いかもね。この忌ま忌ましいロープったら、やたら固くて頭にくるよ。けど、もうちょい、ここを引っ張れば……ほら、取れた!」
女の言葉と共に、ジーナの手首を締めつけていたロープが緩み、ジーナは手首をさすりながら礼を言った。
「ありがとう。助かったわ」
「礼はいらないよ、借りを返しただけだからさ。それに、まだ助かったわけじゃないからね。言っとくけど、この車から出ても、一安心ってわけじゃないよ」
「どういうこと?」
ジーナはタラタの上に屈みこんで、その手首のロープをほどこうと苦心しながら、女に尋ねた。女の答えを、半ば予期してはいたが、それでも確かめずにはいられなかった。
「ここは、ヤバいよ。もう天使地区に入ってる。あんたらも、さっさと逃げだすんだね。せっかく拾った命、ムダにしたくないんならね」
「でも、あいつらは天使じゃないでしょ」
運転席で死んでいる男と、助手席で死んでいるかもしれない男を目線で示して、ジーナは言った。
天使でもないのに、天使地区へ車を乗り入れて、それでどうしようというのだろう。天使に見つかれば、自分達だってただでは済まないかもしれないのに。
鋭い鼻筋に嫌悪の皺を寄せて、女は吐き捨てるように言った。
「あいつらはクズ以下だよ。自分たちの同類を天使に売り捌いて生活してんだから。くたばって、自業自得ってやつだね」
「売り捌いて……」
「とにかく、あたしはもう行くよ。モタモタして、天使共に見つかりたくないからね。あんたらもうまく逃げな」
そう言い捨てて、女は天井の窓に手をかけ、再び車の外へと出て行った。
ジーナは、女の言葉が、ひどく心をざわつかせるのを鎮めることができずにいた。
天使に売り捌く。
天使に売られる。天使に連れ去られる。赤い車。卵人の血の色に似たその赤。赤い色をしたなにかに、連れ去られ、そして……
「ママジーナ?」
気遣わしげなタラタの声に、ジーナは我に返った。
「あ、ごめんなさい。とにかく、あの人が言った通り、ここから早く逃げよう。タラタ、起きれる?」
「うん、大丈夫だよ」
頷きながらも、タラタの顔色はひどく悪い。まだ、完全には回復していないのだろう。
ジーナはタラタの背中に手を添え、腕を取って支えてやりながら、タラタを起こし、膝立ちの姿勢で、窓の下まで誘った。
最初に、タラタを立ちあがらせ、下から押して車外に出すと、ジーナは、縛めの痕の残る両手を、窓枠にかけた。
運転席の方は、敢えて見なかった。
もし、少しでも振り返ったら、死んでいるはずの男も、気を失っているだけかもしれない男も、むっくりと起き上がってくるような気がした。
頭に穴を開けたまま、虚ろな目で、自分を捕まえようとするような気がした。
腕の力で、なんとか体を引き上げようとしている時も、足が窓枠にかかった時も、今にも起き上がった男達に引きずり戻されるような気がして、ジーナはロクに周りも見ず、ただ、真っ赤な車体の鈍いきらめきだけを見つめて、体を動かした。
「ママジーナ、大丈夫?」
「大丈夫よ」
めくれ上がったアスファルトの向こうで、タラタが心配そうにジーナを見ていた。ジーナは反射的に微笑みながら、初めて、周囲を見回した。
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