暗い色をしたビルの群れ。重くたれこめた雲の天蓋。
都市のどこにいても同じようなそれとは異なるものが、ここには幾つかあった。
最初に気づいたのは、霧のような白い煙だった。
ジーナ達が押し込められていた赤いワゴンからも、灰色の煙が立ちのぼっていたが、周囲にあるのは、それよりも白く、大きな煙だった。粉っぽい、鼻腔を刺激するような奇妙な臭いは、今まで嗅いだことがない。ジーナ達がいる場所では、霧のようにたちこめているだけだが、煙の中心は、もっと濃密で、その先を見通すことができなかった。
濃密な煙は、あまり風のない都市の上空へと、ゆっくりと吸い込まれていく。
まるで、不思議な力で建てられていく新しいビルか、見たこともない巨大な生き物が、ゆっくりと立ち上がるのを見ているかのようだった。
ジーナとタラタがいるのは、その煙の柱へと向かう道の途中だった。あまり広くはない道が、少し大きな道にぶつかるT字路の少し手前だ。
赤いワゴンは、横転した状態で、一メートルほどめくれ上がった地面にぶつかって止まっていた。
その地面に埋め込まれた金属の棒が、半ばからポッキリと折れて、ワゴンを突き刺していた。
煙の柱の端に、くすんだ青い色のビルが見えた。暗い色をした建物の多い都市で、それはかなり特徴的だ。
その隣には、三階から上のない、白灰色のビル。一階の壁に小さな窓が並び、中央にあるドアが開いて、中から多くの天使達が姿を現していた。
天使の姿を見た途端、ジーナはギクリとして竦みあがったが、そこにいる天使の誰も、ジーナとタラタには気づいていないようだ。皆、自分達のいる場所から、青いビルの反対隣に視線が釘付けになっている。
立ちのぼる煙の中心は、丁度、彼らの視線の先にあるようだ。
青いビルの窓からも、幾つもの白い顔が覗いていた。どの顔も、巨大な煙の柱を見ているようだったが、いつ、どの顔が、ふとした瞬間にこちらに注意を向けないとも限らない。
ジーナは、自分とタラタが、およそ天使らしからぬ格好をしていることを思い出した。
ここが都市の中心に近い、天使だけの居住地域なら、卵人の自分がいることは、それだけで彼らの怒りを買うだろうし、格好は卵人のような天使の存在は、ただの卵人以上に彼らの目に奇異に映るだろう。その中に、タラタを知り、探している相手がいないとは限らない。
タラタの体調は気にかかるが、今は少しでも早く、遠くへ逃げるのが先決だ。
「ごめんね。少し急いで、ここから離れた方がいいみたい」
そう言って、ジーナはタラタの手を取った。
「うん。そうだね」
タラタも頷き、危なげながらも一歩を踏みだした。
走ることは、できそうになかった。歩くことさえ、タラタはまだ難しそうなのに、走りだしたら途端に倒れてしまいそうだった。
気持ちだけは急いで、ジーナとタラタは、道の端を歩いた。ビルの陰に隠れるようにして、少しでも遠くへ。
数十メートルほど歩いた頃だろうか。
突然、ジーナとタラタの耳に、大きな爆発音が轟いた。
「なに!?」
背中から吹きつける熱風を振り向き、ジーナは目を見張った。
巨大な煙の柱は、その手前の黒い煙の塊の先で、まだ空へと伸びている。
黒い煙の塊は、さっきまで赤いワゴンの横たわっていた場所で、火花を散らして都市の淀んだ空気を焦がしていた。
「あれって、さっき僕達が乗ってた?」
「たぶん、そうみたい」
もう少し遅かったなら、あの爆発に巻き込まれていたはずだ。
ゾッとし、そのすぐ後に、ジーナはワゴンの中に自分達の荷物を置き忘れてきたことを思い出した。
「忘れ物?」
「うん。あたし達の荷物、あの中よね。確認したわけじゃないけど。あいつらがどこか別の所に置いてきたんだとしても、今更、探しようもないよね」
この先、わずかに身につけたものだけで、どうやって逃げのびればいいのかわからない。
だが、命さえあるのなら、全ての希望が失われたわけじゃない。
「行こう。荷物のことは、諦めるしかないもの」
ジーナは、気を取り直し、再びタラタを促した。
「うん」
タラタが頷いた時だった。
「お前……天使か?」
ビルの陰からふいに現れた、金色の光が言った。
(天使!)
それは、陽炎のような薄青い衣をまとった、一人の天使だった。
プラチナブロンドの髪は短い。鋭く、冷やかな印象の、男の天使だ。
ジーナとタラタの前に立ちはだかったその天使は、ジーナよりわずかに背が高いくらいだったが、不意打ちの天使の威圧感に、ジーナは反射的に目を逸らした。
血管のようにヒビの走る道路に視線を落とし、ジーナはタラタに素早く囁いた。
「タラタ、こっちよ」
「待て」
有無を言わせぬ口調だった。
思わず動きを止めたジーナとタラタに、天使が続けた。
「お前は卵人だろうが。なぜ、卵人ごときが天使に指図する? 大体、手を触れるのもおこがましい。お前も、卵人なんぞに触られて、なんで平然としてられるんだ」
不快げに眉をひそめ、その天使は汚いものを見るように、タラタの頭から爪先までを眺め回した。
「大体、その格好もひどい。卵人みたいな服着て、悪趣味にも程がある。どんな変態嗜好か知らないが、周りが不愉快だ」
「……ごめんなさい。すぐに消えるから」
か細い声で、哀願するようにタラタが言うと、
「そうしろ」
吐き捨てるように言い、天使は顔を背けた。これ以上、見たくもない、と言うように。
ジーナとタラタがホッとして立ち去ろうとした時、
「いや、待て」
急に気が変わったのか、天使が二人を押し止め、再びジーナの心臓は跳ね上がった。
「お前、今、なんて言った」
「あ、あたしは、なにも」
ジーナは、天使の顔をまともに見ることなく、力なく首を振った。
「その臭い頭ん中で、なにを考えたのかって聞いてるんだ」
「……っ」
強い口調の問いかけに、声が詰まった。
心臓の鼓動が、耳の奥でドクドクと騒がしい。ついさっき、ジーナが頭の中で考えたことを、この天使に聞かれたのだとしたら、このまま見逃してもらうのは難しそうだ。
「お前、俺を殺さずに済んでよかっただとか言いやがっただろう。お前が俺を殺す? 卵人の屑虫が天使の俺を殺す?」
天使の声が、段々と大きく、熱を帯びていくにつれ、ジーナとタラタは、反対に熱を奪われていくようだった。
(どうしよう。このままじゃほんとに、この天使を殺……ダメっ、余計なこと考えちゃっ)
「お前、また!」
(あ、また聞かれた)
ジーナは青ざめた顔で、口元を片手で覆った。
実際に声にだしたわけではないが、口を押さえれば、少しは心の声が相手に届きにくくなることを願った。
天使の顔が、歪んだ。
目が吊り上がり、口元がわななき、鼻孔が広がる。それでも美しい夜叉の顔で、天使はジーナと繋いだタラタの手を掴み、強引に引き寄せた。
「こいつのために、本気で俺を殺せると思ってんなら、今すぐ殺してみろ。じゃないと、俺がこいつを殺すぜ」
そう言いざま、反対の手で、顔を隠すようにたてたブルゾンの襟ごと、タラタの細い首を掴んだ。
たちまちこもる強い力に、タラタは苦悶の表情を浮かべ、空いていた手で、天使の手を引きはがそうとした。
「やめてっ」
ジーナはタラタの手を離し、両手で天使の手を掴もうとした。
「触るな!」
射るような青い瞳が、ジーナを凍りつかせた。
冷やかな青い目でジーナを見据え、天使は両手の親指をタラタの喉の真ん中にくいこませる。
タラタが苦悶の表情で喘ぐのを、ジーナはまばたきを忘れて見つめていた。
薄紅色の頬が、みるみる色を失っていく。空気を求めて大きく開いた唇は、声にならない叫びをはらんで、ジーナの心臓を締めつけた。
「……やめて」
掠れた哀願がジーナの唇から零れおち、それは激しい叫びに変わった。
「やめてやめてやめてやめてやめてぇっ」
「うるせえな。文句があるなら、止めてみろ」
侮蔑を込めて、天使が吐き捨てる。
その瞬間、ジーナの心は呪縛を振りほどき、天使に向けて明らかな殺意を告げた。
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