壊れやすい天使 壊れやすい天使  
3章「卵人と呼ばれた者達」
 
 
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3-15

「わかった。一緒に行きましょ」  
 ジーナは涙を堪えて、笑顔で頷くと、少し真剣な表情で付け足した。
「でも、絶対にあたしの後ろからついてきてね」
 もし、壁や床が崩れた時には、タラタだけでも無事で済むように。そう考えたことを、タラタは知ったのだろう。驚くほど強い力で、ジーナの腕を両手で掴んだ。
「嫌だよ。僕だけ助かるなんて。ママジーナになにかあったら、僕、嫌だ」
「タラタ」  
 真摯な眼差しに、一瞬、声を失った。堪えたはずの涙が、目頭を熱くする。
 こんなに、涙脆い質じゃなかったはずなんだけどな、と、頭の片隅で考えて、ジーナは微笑んだ。
「大丈夫よ。そんなに大袈裟に考えないで。もし、なにかあった時、二人一緒だったら助けも呼べないし、抜けだすこともできないかもしれないでしょ? だから、タラタには、もしもの時の安全弁になってほしいだけ。あたしがどこかの穴に落ちそうになったら、タラタ、助けてくれるでしょ?」  
 ジーナの言葉に、タラタはようやく納得したようだ。
「もちろん。わかったよ。僕、絶対に助けるから」  
 力強く頷いた。  
 そしてジーナは、手始めに、今いる場所に一番近いビルから調べてみることにした。
 辺りはどんどん暗さを増してきている。調べるのは、早い方がいい。
 二人が歩いていた道の左手にあったそのビルの入口は、元々は、数段のコンクリートの階段の先にあったようだ。
 だが、鉛色の階段は、今やバラバラの破片の積み重なりでしかない。
 ジーナは、比較的大きな瓦礫の一つに、爪先をそっと乗せてみた。
 体重をかけると、不安定にぐらつく。だが、支えることが不可能なほどではなさそうだ。
 その次に大きな破片にも爪先をかけて、ぐらつきを確認すると、ジーナは思い切って、崩れた階段の欠片を踏んで、かろうじて形を留めている玄関ポーチへ向かうことにした。
「待ってて」
 肩越しに振り返ってタラタに言うと、ジーナはここぞと見当をつけた瓦礫に足をかけ、一気に上まで昇った。
 最後の段で破片が大きく傾ぎ、ジーナはバランスを崩しかけた。が、両手を広げて、なんとか足を踏み外さずに済んだ。細かな石片が、パラパラと滑り落ちたが、それが治まる頃には、ジーナは亀裂の走る玄関ポーチの上で、タラタに向き直っていた。
「タラタ、来れる?」
「うん」  
 タラタに右手を差しだして尋ねると、タラタは躊躇うことなく、ジーナの後を追って、瓦礫と化した階段を昇ってきた。  
 ジーナがバランスを崩したのと同じ場所で、タラタもやはり揺れる瓦礫によろめいたが、その時には、ジーナの手が、タラタの左手首をしっかりと握りしめていた。  
 ぐらつく体を引き寄せ、玄関ポーチで抱きとめたジーナは、
「大丈夫?」  
 と、タラタの顔を覗き込んだ。
「うん」  
 頷いたタラタの微笑みは、緊張のせいか、少し強張ってみえた。ジーナは、励ますように、タラタの背中を軽く叩き、扉が外れ、暗い洞窟の入り口のような玄関を見やった。
「よくがんばったね。すぐに行ける?」
「大丈夫、行けるよ」
「えらいわ。じゃあ、ついてきて」  
 タラタの手を、一瞬、強く握ってから、ジーナは先に立って、明かりのない洞窟へと足を踏み入れた。  
 入ってすぐ、ジーナはジーンズの後ろポケットから、小振りのペンライトをだした。今日、エルシアの店で買ったそれを、右手で持ち、左手で灯りを塞ぐようにして点けた。
 一応、辺りを窺って、人気のないのを確認したが、どこかでこの灯りを見咎める者がないとも限らない。奥の方に行くまで、あまり堂々と使うのはやめようと思っていた。  
 背後からのかすかな薄明かりと、掌から漏れるオレンジ色の淡い光を頼りに、足元と頭上を確かめながら、ジーナはゆっくりと進んでいった。  
 最初に確認したのは、電気と水道が使えるかだった。
 だいぶ、ビルの奥まで入ってきていた。ここまでくれば、少しは大丈夫だろうと、ペンライトを塞いでいた左手を外した。
 それから、暗がりの中、ペンライトの細い光を頼りに、壁にある電気のスイッチを入れてみたが、ほんの瞬きほどの光さえ点らなかった。どこかにある配電盤をいじれば復旧するのかもしれないが、探し当てるのは難しそうだ。
 次に、狭い給湯室のような場所を見つけ、錆びついた蛇口を力任せに捻ってみた。最初、固く軋んだ蛇口は、回り始めると、キイキイと甲高い音をたてながらも、簡単に捻ることができた。数回、回してみたが、錆びついた泥水すら滴り落ちることはなかった。
 これで、このビルに誰かが住んでいる可能性は薄くなったが、同時に、ここにいられるのは、せいぜい明日の朝までだとわかった。最低限、水道が使えなければ、隠れ家にするのは無理だ。
 もともと、夜の間だけの休息地にしようと思っていただけだ。人が住むのに不適切なことは、寧ろ喜ぶべきなのかもしれない。
 それでも、一口なりとも水分を補給できれば、かなり助かっただろう。ジーナは、途端に耐え難くなってきた喉の渇きを無視しようと努めた。
 バックパックの脇ポケットに水筒があったが、我慢できるまで我慢しておかないと、この先、なにがあるかわからない。
 今はとにかく、安全な寝所を確保するのが先決だと思った。
 幸いにも、タラタは天使で、自分よりはるかに渇きにも飢えにも強い。必要とすらしていないのかもしれない。アパートに暮らしていた時も、ジーナが促さなければ、自分から飲んだり食べたりはしない子だった。ただ、ジーナがそうしたがっているから、付き合っていただけなのかもしれない。
 タラタと自分の、種族の違いを際立たせるのが怖くて、今までジーナは、素知らぬ顔で同じように食事を用意し、飲み物も与えてきた。タラタが自分の正体を知った今は、ごまかすだけの食事は必要ないのかもしれない。だが、タラタが天使と知れた途端、急に習慣を変えるのは難しい。
 そんなことを考えながらも、ジーナはペンライトの灯りを頼りに、建物内を探った。
 どこに行っても、歩く度に埃が舞いあがり、ライトの光の中でキラキラと白く光った。足元や壁には、無数の亀裂が走り、時々、踏みしだかれて新たな傷口を広げる音が聞こえた。
 そうして、一時間ぐらいうろつき回った後、ジーナは、どうやらここは、長い間放置された無人の廃ビルらしいと結論づけた。
(ここなら、きっと朝まで誰にも見つからないわ)  
 だが、どこもかしこも埃まみれで、崩れた壁やガラスの破片が散乱している。これだけ暗いと、床をきれいに掃除するのは至難の業だ。
(これからは、もっと明るい内に、休む場所を探すようにしなくちゃ)  
 心に誓い、ジーナは最初の内に立ち寄った給湯室にタラタを誘った。  
 多少狭いが、壁の損傷は割と軽微だったし、ガラスの破片もない。建物の内側で、人目にもつかない。とりあえずここなら大丈夫だろうと思った。
「タラタ、今日はここで休もうか」
「うん」  
 ジーナの言葉に、タラタは素直に頷き、背中のバックパックをおろした。ジーナも、自分のバックパックを下ろすと、タラタのそれと並べて給湯室の奥に置き、ようやく水筒を手に取った。今は暗くてよくわからないが、エルシアの店で見つけた時は、深い緑色をしていた。
「タラタも飲んだ方がいいよ」  
 そう言って、タラタの脇ポケットからも青い水筒を抜いて、タラタに差しだす。タラタは、一瞬、躊躇うような素振りを見せたが、すぐに、
「うん、わかった」  
 と、水筒を受け取った。  
 ジーナは、タラタが口をつけるのを確認すると、自分も栓をあけ、直接口をつけた。
 たった一口だけだったが、体中に沁みわたるような気がした。だが、すぐに前以上に喉の渇きを覚え、ジーナはもう一口だけ、ゆっくりと時間をかけてから、ゴクリと水を飲み下した。
 今度は、ジーナの喉も少しは満足してくれたようだ。ジーナは水筒に栓をすると、自分のバックパックに、元通りきちんと水筒を差し込んだ。  
 空腹は、限度を越えたのか、緊張のせいか、あまり感じなかった。タラタに、なにか食べるかと聞いてみたが、タラタはお腹が空いていないと言った。  
 ジーナは、ひとまず食糧の方は節約して、今日このまま体を休めようと決めた。  
 床の上のゴミや小さな瓦礫を片付け、かるく埃を払った後、上に着ていたパーカーを脱いで、黒いシャツだけになったジーナは、パーカーを畳んで、まくら代わりに床に置いた。タラタもそれにならい、ブルゾンを脱いで、ジーナのパーカーの隣に並べた。  
 それから二人は、それぞれの服の枕に、帽子を脱いだ頭を乗せ、硬くて冷たい床の上に横たわった。
 ペンライトの灯りを消したジーナは、隣のタラタに囁くように言った。
「タラタ、疲れたでしょ。今日はよくがんばったね」
「うん、ママジーナ。ママジーナも疲れたでしょ?」  
 同じような囁き声でタラタが言い、ジーナは、一度は否定しかけたが、
「あたしは……そうね、さすがにちょっと疲れちゃったかな。ゆっくり休んで、明日またがんばろうね」  
 暗闇の中で、励ますように微笑んだ。
「うん、僕、がんばるよ」  
 タラタは力強く応えたが、ジーナにはその懸命さが胸に痛かった。  
 タラタに、今日のような大変な思いを、これから先も続けさせなければならないのかと思うと、本当に辛い。それがいつまでもわかっていれば、まだがんばりようもあるだろうが、まるで先の見えない現状は、尚更に堪える。  
 自分はいい。自分はいいが、タラタに苦しい思いをさせたくはないのに。
「ありがとうタラタ。ごめんね」  
 思わず心苦しさに謝るジーナに、タラタが言った。
「謝らなくていいよ。僕の方こそありがとう」
「ありがとうって、なにが?」  
 ジーナは思いがけないタラタの言葉に、目をしばたたかせた。
「……僕を捨てないでくれて」  
 迎えの天使に、引き渡さないでくれてありがとう、と、タラタは呟いた。  
 ジーナは、途端に胸を締めつけられ、思わず声を詰まらせた。
「馬鹿ね。あたしがタラタを捨てるわけないじゃない。なにがあったって、絶対にそんなことしないから」
「うん、ママジーナ」  
 頷くタラタを、ジーナはそっと胸に引き寄せた。タラタが、ジーナの腕の中で、安心しきったような吐息をつき、その気配に、ジーナの胸も安らいだ。  
 二人一緒なら、きっと大丈夫だと、ジーナは思った。
 二人だけじゃ、なにかが足りないと、心の奥底で囁く渇望には、その時は気付かなかった。
 そして、ジーナとタラタの逃亡第一日目の夜は、何事もなく、静かに更けていった。





   
         
 
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