壊れやすい天使 壊れやすい天使  
3章「卵人と呼ばれた者達」
 
 
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3-14

 そして、メラクに矛先を変え、ミザルがなにか一言二言、言ってやろうと口を開きかけた時、目を閉じたままのレグスが、かるく片手を打ち振って、それを押し止めた。
「やめとけ」  
 たった一言、それだけで、ミザルは全てを抑えつけ、口を噤んだ。ベナトシュは、胸の前で両手を結び合わせ、小声で囁いた。
「ごめんなさい。あたし……」  
 言いかけた言葉を、掌で制し、レグスはようやく、閉じていた目を開いた。  
 ハシバミ色の目が、自分を囲む六人を順に見つめる。底の知れない眼差しに、誰もが多かれ少なかれ緊張を見せていた。
「あいつを憐れむのも蔑むのも自由。それをどうこう言う気はねェよ。だが、二つ頭のクソ天使共には、そろそろ大人しくしてもらう。これは、俺のリーダーとしての決定だと思ってくれていい。そのために、あいつが使えそうなら使う。無理なら他の手段を考える。いいな?」  
 レグスが最後に確認するように尋ねると、全員が、ほぼ揃って頷いた。否定する者は誰もいなかった。
「それならいい」  
 レグスは満足げに頷いた。  
 それから、メグレズとこれまで沈黙を守っていたアリオトと呼ばれる青年の二人を残し、他のメンバーを部屋の外へ出て行かせた。今、下された決定についての計画を練るためだということは、全員が理解していた。  


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 その時に考え得るだけの準備をして、五年半暮らしたアパートを出たジーナは、タラタをビルの物陰に潜ませてから、もう一度、エルシアの店に立ち寄った。  
 訝しむエルシアに、曖昧な別れを仄めかし、アパートを出て隠れ潜むのに必要と思った品物を幾つか買い揃えたジーナは、タラタを伴って、薄暗い都市のひび割れた道路を歩いた。
 明確な目的地はない。だが、都市の中心よりも、少しでも外側の方が安全だろうと考えた。
 タラタは、キャスケットを目深にかぶり、ぶかぶかのカーゴパンツを履き、ブルゾンのファスナーを一番上まで引き上げ、襟をたてて、口元を隠していた。都市に溶け込むような暗い配色の服に靴。出ているのは、鼻と頬の一部ぐらいだ。  
 そしてジーナは、厚い雲に似暗灰色のパーカーにジーンズ、黒いスニーカーを履いていた。カーキ色のキャップ帽をかぶり、銀褐色の髪を少し低めのポニーテールに結んで、帽子の穴に通している。
 ひび割れ、めくれ上がり、穴の開いた道路は、歩き慣れないタラタにとっては、真っ直ぐに歩くのも難しいようだった。
 ジーナと手を繋いでいても、時折、躓いて転びそうになる。だが、タラタはそれに、文句一つ言いはしなかった。
 歩いている間、ジーナとタラタは、殆ど言葉を交わさなかった。たまに、危なそうな段差や崩れそうな場所で、ジーナが小声で、そっと注意を促すだけだ。
 正午過ぎにアパートを出て、夕暮れまで歩き続けた。
 灰色の空に血の色がかすかに滲み、伸びた影に飲み込まれて、都市は暗闇に沈もうとしていた。ポツリ、ポツリと、辛うじて生きている明かりが点り、影は暗さを増す。
「あっ」
 馴染みのない景色、道になって久しい。気をつけてはいたが、道路の段差に足を取られ、タラタが大きくよろめいた。
 タラタは、繋いでいたジーナの手ごと、前のめりに倒れ、膝をついた。
「大丈夫!?」  
 跪き、助け起こしながらジーナは、もうこれ以上、暗いこの道を歩くのは無理だろうと思った。
(どこか、休めるところを探さなきゃ)
 かれこれ数時間、歩き続けていた。
 立ち止まれば、すぐ後ろに迫った昏い影に、肩を掴まれそうな気がした。振り返れば、見つかりそうな気がした。
 タラタを連れ去りに来た青い天使は、捨ててきたアパートのバスタブの中で、追ってくるどころか二度と動くこともない。
 それはわかっていた。今すぐ天使の追っ手がかかることも、他の卵人に見咎められることもないはずだ。タラタが天使であることを、今の姿から確信する術はないはず。
 だがそれでも、不安は澱んだ霧のように纏わり付き、心を重くした。そして重さの分だけ気が急いて、歩みを止めることができなかった。
 だが、このまま進み続けることは、いくらなんでも無理だ。自分一人なら、夜通し歩く無茶もしたかもしれないが、タラタにそんなことはさせられない。
 ジーナは、タラタがしっかり立ち上がったのを確認すると、素早く辺りを見回した。
 夜の闇へと向かって真っすぐに延びる道に、人通りは殆どなかった。
 ジーナとタラタが歩いていた大きな通りの右側を、反対方向に歩く中年の男が一人。これから向かう先、年格好もわからないくらい遠くに一人。背後に見える姿はない。
 通りの左右に聳えるビル群には、一様に巨大な亀裂が走り、人の住む気配はない。死に絶えた世界に据えられた、黒い墓石の群れのようだった。
 ジーナは、このビルの中で、一夜を明かすことは可能だろうかと考えを巡らせた。
 誰も住んでいないように見えても、実は住んでいるかもしれないし、昼間は無人でも、夜には物騒な連中のたまり場になっていることも考えられる。建物自体も、今は無事に形を保っているようだが、一歩中に入れば、途端に崩れだすほど脆くなっているかもしれない。
 あれこれ考えてはみたが、ジーナにはわからなかった。なにしろ、この辺りに来るのはこれが初めてだ。とにかく、天使の住む中心部から離れることばかり考え、どこが比較的安全で、どこが危険なのかも詳しく調べることができなかった。エルシアの店に寄った時に、特に物騒な地域については、多少聞きだしておいたが、それ以外の場所が安全なわけではない。寧ろ、安全な場所の方が皆無に近いだろう。
 今まで住んだことのある場所なら、少しは危険か安全かの判断もできたが、一度見つけだされた以上、今まで少しでも関わった場所に近付きたくはなかった。  
 考えてもわからないのなら、行動するしかない。ジーナはそう決意した。
「タラタ、今日はもう休もう?」
「僕は大丈夫だよ。まだ歩けるよ」  
 タラタはそう言ったが、ジーナは既に決めていた。
「でも、これ以上歩くのは無理よ。危険だし、少しは休まなくちゃ」
「だけど、どこで休めばいいのか、わからないんでしょう?」  
 タラタは、ジーナが先ほどから声にださずに考えていたことを、心で聞いていたのだろう。
 ジーナは、まだ心を読まれることに慣れていなかった。これからも、慣れることはないかもしれない。  
 思わずドキリとしたジーナの中にあった恐怖を、タラタは感じたのだろうか。タラタは咄嗟に、小声でジーナに謝った。
「ごめんなさい、僕……どうすれば心を読まずにいられるか、よくわからないんだ。聞かずいようとは思うんだけど、それでもやっぱり、時々、聞こえてきちゃうんだ。聞かないように練習するから、だから」
「いいのよ、タラタ」  
 必死で弁解するタラタに、ジーナは鷹揚に微笑んだ。
「あたしが、まだ慣れないだけだもの。タラタに隠し事をする気はないし、ただ、少しビックリしちゃうだけよ。大丈夫、タラタは悪くないから」
「でも」  
 尚も続けようとするタラタを笑顔で遮り、ジーナはそれでもキッパリとした口調で言った。
「大丈夫。それより、この辺りで、少し休めそうなところを探しましょ。とりあえず、使えるかどうか、近くの建物に入って、様子を見てこようと思うんだけど」
「僕も一緒に行くよ」  
 間髪入れずにタラタが言った。
 エルシアの店に寄る時、一人で物影に隠れていてもらった後、タラタはひどく心細げだった。戻ってきたジーナを見て、深い安堵の表情を浮かべたものの、それから一時間くらい、ジーナの手を握りしめるタラタの手は、必要以上に強い力がこもっていた。
 生まれて初めての外の世界。それも、あんな形で逃げるように出てきた世界。本当は、怖くて怖くてたまらないのだろう。だが、ジーナに迷惑をかけまいと、それを必死に押し殺しているに違いない。
 ジーナは、タラタの心情を察し、胸の奥に鋭い痛みを覚えた。目の奥が痺れるように熱くて、泣きたいような気持ちだった。





   
         
 
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