壊れやすい天使 壊れやすい天使  
3章「卵人と呼ばれた者達」
 
 
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3-10

(タラタ。あたしは、タラタを手放すしかないの? タラタにとってあたしは、母親どころか、天使殺しの化け物になってしまったの?)  
 声にだして確かめたいが、怖くてそれもできそうにない。
(あたし、どうしたらいいの?)  
 胸の内に問いかけてみても、どこからも答えはなく、ジーナは唇を噛みしめた。
 その場にへたり込むのだけはなんとか堪えたが、体が小刻みにふるえだすのは、抑えることができなかった。
 怖くて、怖くて仕方がない。
 ジーナは、片手を強くクローゼットに押し付け、もう一方の手を握りしめて、唇に押し当てた。目をつぶってみたが、恐怖が内側から膨れあがってくるようで、慌てて目をあけた。
 と、ジーナの耳に、遠慮がちなノックの音が届いた。ジーナは、ハッとして寝室のドアに目をやると、口元の手をおろし、背筋を伸ばして、ノックに応えた。
「なあに?」
「入ってもいい?」
 いつもはそんなこと、聞きもしないのに。
 他人行儀な問いかけに、ジーナの胸は不安に騒いだ。
「もちろん。入って」
 ジーナが招くと、ドアが開き、タラタが怖ず怖ずと顔を覗かせた。
「少し、お話してもいいかな」
「いいわよ」
 頷きながらも、ジーナは怖くて堪らなかった。タラタの口から、別れを告げられるのではないかと、不安で仕方がなかった。
「こっちにきて」
 戸口でためらうタラタを、その目と同じ色のベッドに座るように促したのは、それ以上、まともに立っていられる自信がなかったからだ。
 ジーナは先にベッドに腰を下ろすと、懸命に平静を保って、タラタを手招いた。なんとか微笑みをうかべることができたが、引き攣った不自然な笑顔になっているような気がした。
 タラタは、ジーナの隣にそっと腰をかけると、両手の指を組み合わせ、ソワソワと指先を動かした。ジーナは、暫くそんなタラタを見つめてから、
「どうしたの?」
 と、タラタの顔を覗きこんだ。
「うん」
 タラタは俯いたまま、小さく頷いたが、先が続かないようだった。
 やっぱり、どうやって私から逃げだすか、切りだしかねてるんだ。
 ジーナの胸は絶望感に塞いだ。
 タラタは、自分に殺意を向けられるのが怖いから、なんとかうまく取り繕ろうとしているのだと思った。
 例え世界を敵に回しても、自分がタラタを傷つけることはないのに。
 そう信じてもらえないことが、たまらなく悲しかった。
「違うんだ」
 タラタが、ポツリと呟いた。
「え?」
 タラタがなにを言ったのか聞きとれず、ジーナが首を傾げると、タラタはようやく顔をあげ、ひどく悲しそうにジーナを見つめた。
(あ、とうとう別れを言いだすのね)
 そう思ったジーナは、タラタと反対に、思わず目を伏せていた。
「違うんだ、ママジーナ」
 もう一度、今度はさっきよりもハッキリと言い、タラタは力無くかぶりを振った。
「違う?」
 なにが違うというのだろう。
 違うというなら、今日、家をでる前と今では、なにもかもが違っている。本当に、なにもかも。
「ママジーナのことが怖いとか、嫌いになったとか、そんなんじゃないんだ」
 心臓が、跳ね上がった。 伏せていた目をあげて、ジーナはタラタを見返した。
「タラタ、どうして……」
 自分の態度は、そんなに明け透けだったろうか。
 いや、タラタの前では、それを危惧するゆとりすらなかった。とにかく、あの天使の死体を片付けなければと、それで目一杯だった。
 それなら、どうして。
 天使の感応能力は、離れた相手の心すら読むのだろうか。そんな話は聞いたことがないが、だとしたら、多くの天使が住むこの都市で、天使を殺した事実と、タラタをひそかに育てていることを隠し続けるのは、不可能だろう。
「ママジーナ、ごめんね」
「タラタ? どうして謝るの?」
 謝るべきなのは、自分の方なのに。
 戸惑うジーナに、タラタは囁くような声で続けた。
「ママジーナがああしたのは、僕を守るためだってわかってるよ。ママジーナは悪くないよ。僕は、あの天使に連れて行かれたくなかった。ママジーナの傍にずっといたかった。なのに、僕にはなんの力もないから……。ごめんね、ママジーナ。痛かったでしょ?」
 タラタの小さな手が、そっと、羽根のようにそっと、ジーナの額に触れた。
 その瞬間、パチッと感電するような痛みが走り、ジーナは反射的に顔をしかめた。あの天使に蹴られ、傷ついていたことを、初めて思い出した。だが、タラタに嫌いになったわけじゃないと言われた安堵感が、そんな痛みなどすぐに消し去ってくれた。
「こんなの、全然平気よ」
 ジーナは、タラタの手を、優しく包みこんで額から離すと、にっこりと微笑んだ。
 そう。こんなのどうってことない。
 あの頃に比べたら……
(あの頃?)
 無意識に思い浮かべた言葉に、ジーナは首を傾げた。
 あの頃ってなに?
 タラタと出会うまで、愛に包まれた人生じゃなかったが、幸いにも、ひどい暴行や虐待には合わずにきた。額の傷と引き比べ、はるかに辛かった記憶などない。
「でも、まだ少し、血がでてるよ」
「平気よ。タラタが無事だったんだもの。これくらい、どうってことないわ」  
 それは事実だった。タラタさえ無事なら、命だって投げだせると思っていた。  
 タラタは痛々しげに額の傷を見つめ、それから、ふと、ジーナに視線を戻すと、ひどく哀しそうに顔を歪めた。
「タラタ、どうしたの? どうしてそんな顔をするの?」  
 タラタは、泣きだしそうな顔をしている。ジーナは、自分も泣きたいような気持ちで、タラタの手を優しく握りしめた。なめらかで、すべらかで、その肌に触れる度、いつもその心地よさに驚きを覚える。どんなに悲しくても、苦しくても、痛くても、タラタの手や頬を撫でていると、不思議と心安らいだ。
「ママジーナ」
「なあに?」
「ぎゅってして」  
 タラタが言うと、ジーナはすぐさまタラタを抱きしめた。
 体全体でタラタを包みこむように、互いの体温で溶け合うように、強く抱きしめた。
「ごめんね、ママジーナ」  
 囁くような謝罪の言葉に、ジーナは更に強く抱きしめた。
「いいのよ、タラタ。あなたが謝ることなんて、なんにもないんだから」
「ママジーナだって悪くない。悪くないんだよ」
「あたしは、いいのよ」  
 天使の死体の傍から、卵をこっそり持ち帰ったのも罪なら、ひそかに孵して育てあげたのも罪。取り戻しにきた天使を殺したのも、また罪。  
 これだけの罪を重ねて、悪くないとは言えないだろう。
 だがジーナは、後悔はしていなかった。
 腕の中に、タラタがいる。それだけで、どれだけの罪を重ねても、その後にどんな罰が待ち受けていても、ジーナはもう、充分なんだと思った。
「でも、ママジーナ。それが悪いことなら、同じことを望んだ僕も悪いよ。ううん、ただ望んでいるだけで、なんにもしなかった分、僕の方が悪いんだ」
「なにもしなかったのに、悪いわけないでしょ?」
「悪いよ。ママジーナの手だけを汚して、ママジーナだけを傷つけて、ママジーナだけが批難されるの? 僕も同じことを望んでいたのに? 同じことを望んでたなら、同じように手を汚して、傷ついて、批難されるべきだよ。ママジーナ、悪いのは僕なんだよ」
「違うわ。タラタは悪くない。だって、あたしは……」  
 あなたの母親なんだから、という言葉を呑みこみ、ジーナは続けた。
「あたしには、タラタを守る責任があるんだから」





   
         
 
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