壊れやすい天使 壊れやすい天使  
3章「卵人と呼ばれた者達」
 
 
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3-9

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 薄暗いアパートの廊下は、湿ってカビ臭い。ひんやりした空気の中に、激しい感情と死の残滓が、チラチラと小雪のように舞い散り、赤く降り積もっているような気がした。
 ジーナは、決意を込めて天使の死体を見下ろした後、
「タラタ、立てる?」
 タラタを促して、手を貸しながら自分のすぐ側に立たせた。それから、両手で改めて抱きしめ、繰り返し囁いた。
「大丈夫よ、タラタは絶対に大丈夫」
「ママジーナ?」
 タラタが訝しげに首を傾げる。ジーナは、わずかに体を離し、タラタの二の腕を両手で掴んだまま、翆緑の瞳で、タラタの紫がかった青い瞳を覗きこんだ。
「ねえタラタ。これからママジーナがすることは、全部タラタのためだって、信じてくれる?」
 タラタは、真剣な顔で尋ねたジーナを、同じくらい真剣に見返すと、こっくりと大きく頷いた。
「うん、ママジーナ」
「ありがとう。タラタ、大好きよ」
 ホッとしたように微笑むジーナに、タラタは幸せなのに、どこか哀しそうな微笑みで応えた。それはまるで、ジーナの心を映しているかのようだった。
 ふいに、タラタが目を伏せ、ジーナの胸の中に顔を埋めた。
「タラタ?」
「大好き。ママジーナ、ずっとずっと大好きだよ」
「ありがとう。ママジーナも大好き」
 タラタの背中に手を回し、ジーナはギュッとタラタを抱きしめる。タラタもジーナの背中に腕を回し、負けないくらいにジーナを強く抱きしめた。
 失いたくない、と強く思う。このぬくもりを離したくない。
(あいつらなんかに、奪われてたまるもんか)
 天使。今、すぐそこで、二度と動かなくなった天使のように、ふいに現れて、タラタを連れ去ろうとする奴らを、絶対に許さない。そんなこと、認めない。
 ジーナは、タラタの背中を軽く、ポンポン、と叩き、タラタの腕を掴んで体を引き離した。抵抗するかと思ったが、タラタは素直に離れ、ジーナの言葉を待つように、黙ってジーナを見つめた。
「タラタ、お手伝いしてくれる?」
「うん、いいよ」
「ありがとう。そこのドア、開けて、そのまま押さえててくれるかな」
「うん」
 頷き、タラタは重い玄関のドアを、体全体で引き開けた。それから、目一杯開けた状態で、体をドアに預け、
「開けたよ」
 と、ジーナに言った。
「ありがとう。少しの間、頑張ってね」
 ジーナはタラタに微笑みかけると、散らばった買い物袋の中身を素早く拾い集めた。
 それから、袋を抱え上げて、玄関を入ったところにある靴箱の上に置き、すぐに廊下にとって返した。
(運べるかな)
 倒れ伏した天使を見下ろし、わずかに首を傾げる。
 天使は、ジーナよりもかなり背が高く、その分重そうだ。
(悩んでる場合じゃない。やらなきゃ)
 ジーナは腹を括った。
 死体の肩口から手を差し入れ、脇の下に肘をかけた。ぐにゃりとしてやわらかく、まだ体温の残るそれを、腰を屈め、思いっきり引いた。
 重い。
 だが、わずかに引きずられ、動いた。
 動かせないわけじゃないと知り、ジーナは、更に力を込めて引っ張った。
 ズル、ズル、と、少しずつだったが、なんとか爪先まで玄関に引き入れると、ジーナは一旦手を離し、汗だくの額を手の甲で拭った。
「タラタ、もういいよ。玄関閉めて、足元に気をつけて、中に入って」
「うん」
 緊張したような返事を返し、タラタがドアと一緒に、玄関に入ってきた。足元に横たわる大きな肉の塊から、強張った顔を背け、タラタは隙間を縫って、ジーナの背後に立った。
「ありがとう。あっちの部屋で、少し休んでて。ママジーナもすぐに行くから」
「うん」
 その天使の死体をどうするのかと、タラタは尋ねようともしなかった。ただこっくりと人形のように頷き、ジーナに言われるまま、リビングへと歩いていく。その背中を見送り、ジーナは再び、死体に手をかけた。  


 ジーナがリビングに戻ると、タラタはソファに膝を抱えて座り、膝の間に顔を埋めていた。
「タラタ、寝ちゃったの?」  
 ジーナが声をかけると、小さく、くぐもった返事が聞こえた。
「寝てないよ」
「そっか。疲れたなら、寝ててもいいよ。あたし、ちょっと、着替えてくるね」
「うん、わかった」  
 顔をあげないままなのが気にかかったが、一仕事の後で、ジーナは汗だくだった。とにかく着替えて、少しサッパリしてから話そう。  
 ジーナはそう決めて、寝室に向かった。  
 寝室は、タラタが生まれてから様替えをした。床と天井は白。壁は淡い水色。カーテンは深い青。クローゼットは白。ベッドシーツや枕カバー、ベッドカバーは全て、タラタの瞳のような、紫がかった明るい青だ。  
 ジーナは、真っ白なクローゼットから、濃紺のジーンズと黒い長袖のシャツと青い靴下、白い下着の上下を選びだし、じっとりと湿った服を全て脱ぎすて、新しい服を身につけた。 
 それから、クローゼットの奥から灰色のバックパックを引きずりだすと、その中に、自分とタラタの着替えを数点、詰め込んだ。
(他になにを用意すればいいのかな)
 バックパックを床に置き、ジーナは少し考え込んだ。
 この先、なにが必要になるのかもわからないし、どうればいいのかさえ、今もまだよくわかっていない。だが、とにかくできるだけの準備をしておかなければ。
 それと、忘れてはならないことが、もう一つ。
(タラタに、話さなきゃ)
 ジーナは、寝室の扉越しに、リビングにいるタラタのことを想って、気が重くなった。
 タラタには、辛い思いをさせてしまうかもしれない。それ以前に、本当に自分についてきてくれるだろうか。
(こんな、天使殺しの嘘つきなあたしに)
 そう思うと、不安に押し潰されそうだった。
 もし、タラタに拒絶されたら、どうすればいいんだろう。
(タラタを天使たちの許に返す?)
 本当は、それが一番いいのかもしれない。タラタにとっては、そうした方が、幸せなのかもしれない。
(だって、あたしは……)
 タラタの本当の母親ですらないし、それどころか、タラタの父親を殺した張本人だ。
 普通なら、憎まれて当然だろう。タラタは、確かに離れることをためらい、本当の母親じゃなくても構わないようなことさえ言ってくれたが、それも、あの天使を殺す前のことだ。
 実際に手をかけたわけではないが、それと同然の殺意を抱いたのだし、知らなかったとはいえ、その想いが、天使を殺した。いくらタラタでも、以前と同じように自分を慕い、ついてきてくれると思う方が間違いなのかもしれない。
 だが。
(タラタは言ってくれたわ。なにがあっても、ずっと大好きだって。あたしのことが大好きだって、タラタは言ってくれた)
 それさえも、ただ、恐れからだとしたら?
 想いで殺すあたしのことを恐れ、殺されたくないから、好きだと、嘘をついたのだとしたら?
 そこまで考えると、目の奥が痺れたように熱くなり、ジーナは目をしばたたかせた。
 もう、タラタの心が自分から離れ、恐れと憎しみしか残っていないとしたら。
 足元がガラガラと奈落へと崩れ落ち、底のない暗闇へと落ちていくような気がした。
 膝から下に力が入らない。ジーナはクローゼットに片手をつき、座り込みそうなのを必死に堪えた。





   
         
 
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