壊れやすい天使 壊れやすい天使  
3章「卵人と呼ばれた者達」
 
 
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3-7

「いや、そんなことはどうだっていいな。儂はアルビンだ」  
 相手の名乗りに頷き、ルーァは再び口を開いた。
「アルビンも言っていたが、外に出したままより、仕舞っておいた方が早く傷が癒える。だが、羽になにか巻きつけたまま仕舞うわけにはいかないんだ」  
 淡々と話すルーァに、アルビンは、違和感の答えを、見つけた気がした。
 天使を前にした時の威圧感は、ルーァにも確かにある。だが、ルーァからは、天使独特の黒い棘のようなものを感じない。こちらを明らかに蔑んでいる空気を感じない。まるで、天使と卵人が、対等の存在であると、そう思っているようだ。
「なるほどな。なら、今外してやろう」
「すまない」  
 卵人に詫びる天使など、益々聞いたことがない。アルビンは、明らかな戸惑いを悟られないように、急いでルーァの背後に回り込んだ。  
 濃い灰色の羽は、聞いていたものとは違っていた。
 今、地上の天使に羽はないが、二十年ほど前にいた黒い天使達には羽があったらしいと聞いた。アルビンが実際に、それを見たわけではない。だが、二十年前のあの日、黒い雨を見た者に聞いたことがある。  
 その日、都市のそこかしこで火の手があがり、厚くたれこめた雲の天蓋から黒い雨のように降り注いだ天使達は、落ちて、地面に花のように血飛沫を飛び散らせたという。灰色の煙が立ちのぼり、赤く燃える地上に降り注ぐ、天使達の雨。アルビンにその様子を話してくれた友人は、これが世界の終末と覚悟したらしい。
 そして、地上に降り注いだ無数の黒い天使達の背中には、やはり黒い羽があったという。肌の色も、地上にいた天使よりも黒く、まさに闇の申し子のようだったと。  
 羽のある人の形をした者といえば、記憶も朧な子供時代に聞いた、有翼人ぐらいだ。
 遠い昔話。天から降りて、地上の悩める人々を救うだとか、悪しき人々を焼き殺すだとか、お伽噺ぐらいにしか思っていなかった。特に、子供にとっては、悪さを諫める怖い話でしかなかった。  
 黒い雨の降った日、その話を思い出した者はどれだけいたのだろうか。それと天使が同じだと、悟った者はいただろうか。  
 アルビン自体は、ああ、そういうことだったのかもしれないと、大した驚きもなく感じたものだった。
 だが、目の前に横たわる暗灰色の翼を持つ天使と言葉を交わした今、伝説の有翼人というのは、あの日に降り注いだ黒い天使達ではなく、この天使のことのような気がした。そんなふうに、他の天使とは種族すら違うと感じさせるほど、この天使は独特だ。
 それとも、アルビンが知らないだけで、棘のない天使も中にはいるのだろうか。卵人と呼ばれる者達にも、それこそ様々な者がいるように。  
 そんなことを思いながら、アルビンは、ルーァの左の翼に巻きつけた白い包帯を、節くれだって皺だらけの手でほどいていった。昔に比べ、手先は不器用になったが、それでも、こんな包帯をほどくくらいは、まだまだ簡単にできる。
 全てほどき終わると、縛りつけていた場所が、少し凹んでいた。  
 きつく縛り過ぎたのかもしれない。  
 後悔が胸を塞ぎ、アルビンは少しの間、立ち尽くした。
「終わったのか?」  
 ルーァの静かな問いかけに、アルビンはハッと我に返った。
「あ、ああ。できた。だが、羽の形が少し崩れてしまったようだ」
「大丈夫だ。かえってそのくらいの方が、しっかり固定できてよかったかもしれない」  
 アルビンの不安と後悔を感じたのだろうか。ルーァがやさしく宥めるように言い、アルビンは、年甲斐もなく、頬を赤らめた。同時に、ルーァが背中を向けていて、今の自分の顔を見られないことを安堵していた。  
 ルーァは、アルビンに背を向けたまま、静かに目を閉じた。翼をだす時もしまう時も、こうやって目を閉じるのが、彼の癖だった。
 背中の羽に向け、意識を送り込む。吸い込まれ、溶けて、体の一部になるような、そんなイメージだ。 
 シュル、と微かな布ずれの音と共に、ルーァの暗灰色の羽は、ルーァの肩甲骨付近へと吸い込まれ、消えた。
 何かの拍子に取れたのだろう。ヒラヒラと舞い落ちた、一枚の羽根だけを残し、全ての羽が消えると、背中にあった細い切り傷のようなものも、すぐに塞がり、傷一つない背中となった。  
 アルビンは、初めて目の当たりにした光景に、声もなく、呆然と見とれていた。今、実際にその目で見ても、まだ信じられないような光景だった。  
 閉じていた目を開き、ルーァはゴロリと仰向けになった。
 白く発光する正方形のパネルが、天井の中央に見えた。右腕はまだ痺れている。左手で二の腕から手首までをゆっくりとさすっていると、右手の内側に、十センチくらいの傷痕があることに気づいた。どこでどんなふうに傷ついたのかはわからないが、体のあちこちが傷ついているのかもしれない。  
 ルーァは、記憶を手繰り、いつ、どうして、こんな傷を負ったのかを思いだそうとした。  
 だが、意識を取り戻す前の、混乱した記憶の断片が邪魔をして、うまく思いだすことができない。ルーァは、もう少し落ち着くまで、最後の記憶を取り戻すのは諦め、先ほどから気にかかっている壁の絵を見てみようと思った。  
 右腕の痺れは、まだ完全にはとれていないが、左に力を入れて、なんとか体を起した。ベッドの左側には、藍色のドアがある。アルビンが入ってきたのが、そこのドアなのだろう。  
 ルーァは、ベッドから両足をおろした。上半身にはなにも身につけていなかったが、下半身には自分の物ではない、水浅葱色のゆったりしたズボンを履いていた。丈が少し短く、ルーァの脛の半ばまでしかない。足は裸足だった。
 裸足の足が、クリーム色のつややかな床につくと、ひんやりした感触が、一瞬、頭の先まで通りぬけた。その冷たさに、記憶の糸が間近に近づいた気がしたが、すぐに薄れて遠のいていった。
 ペタペタと足の裏に張りつくような感触が、新鮮だった。ルーァは少しふらつきながら、ゆっくりとベッドを回り込み、手を貸すべきかどうか決めかねているアルビンの前を通って、卵の描かれた黄色い額縁の正面に立った。
 ルーァが目の前に立つと、卵の絵が、一瞬、ぼんやりと光を放ったような気がした。
 と、三層の卵の右側と、左上に大きな文字が浮かびあがり、先ほどのアルビンの言葉を裏付けた。
 左上に一際大きく、緑の文字で「卵型隔離都市 天使の卵」とあり、右側には、それよりも少し小さな文字で、「天上都市」「地上都市」「地下都市」とある。
「これは、すごいな」  
 思わず、小さな呟きを洩らし、ルーァは左手をそっと卵の絵に近づけた。  
 途端、ブブ、と虫の羽音のような音が聞こえ、卵の絵が震えた。ルーァは、咄嗟に後ずさった。
「壊れとるんだ。以前は、手を近付けると、それぞれの都市の詳細が拡大されたらしいが。最近は、そんなふうにちょっと絵が動くが、それだけだ」  
 ルーァは、先ほどと同じ場所に立ったままのアルビンを振り返り、また卵の絵に視線を戻すと、溜息をつくように呟いた。
「そうか……」  
 残念だが、諦めるしかないのだろう。ルーァはもう一度、浮かびあがった四つの名前を確認してから、ゆっくりとアルビンの方へ歩み寄った。  
 ルーァが近づくと、アルビンはわずかに体を硬くしたが、それでも、その場を動くことはなかった。
「座ってもいいか?」  
 やけに体が重い。ルーァが先ほどまで寝ていたベッドを指差して問うと、アルビンは当然だと頷いた。
「その方がいい」
「ありがとう」  
 かすかな微笑みを向けて、ルーァは左手で体を支えながら、ベッドに腰をおろした。アルビンは、ルーァの微笑みに、一瞬、驚愕をうかべ、すぐにそれを取り繕うように首を振った。
「礼を言われるようなことじゃない。また倒れられても困るからな。年寄りには、いくらあんたみたいな細っこい体でも、持ち上げて運ぶのはきついからな」  
 また倒れる、とアルビンに言われたことで、ルーァは自分がどうしてここにいるのか。なぜ、羽や体に傷を負ったのか、アルビンなら知っているかもしれないと思った。
「私はどうして倒れていたんだ? 倒れていたのか? 怪我をしたようだが、どこで怪我をしたのか、知っているのか? そもそも、ここは一体どこなんだ?」
 立て続けの問いに、アルビンは、皺だらけの手をあげて、ルーァを制した。






   
         
 
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