壊れやすい天使 壊れやすい天使  
3章「卵人と呼ばれた者達」
 
 
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3-6

 ガラスケースに閉じ込められた、金色の少年。そのガラスを砕いて、彼を殺したのは自分だ。黒いアスファルトの上の小さな塊。捩れて潰れて、間に合わなかった命。
 風の音。声にならない悲鳴が、喉の奥でひりつくような痛みに変わる。  
 小さな体に咲いた、真紅の薔薇。肩の上で聞こえる、痛みと恐怖の声。胸に抱いたぬくもり。交わした約束。世界を貫いた光。  
 光。
(眩しい……)  
 ルーァは光から逃れるように、片手を顔の前にかざそうとしが、かざそうとした腕は、ピクリとも動かなかった。というより、感覚自体が感じられない。
 どこもそうなのだろうか。体とその感覚全て、失ってしまったのだろうか。
 だが、暗闇の繭が剥がれ落ちていき、光を感じた。かすかな風の唸りのような音も聞こえる。頭が重いが、重いという感覚があるなら、完全になにもかも失ったわけではないのだろう。
 ルーァはゆっくりと目を開けた。
 白い壁が目に入った。それはまるで、無数の卵に囲まれて暮らした、あの場所のようだった。
 しかし、壁に偽りの空を映す窓はなく、一つの卵の絵が、黄色い額縁に飾られていた。卵は、上中下の三層に分けられ、上から、黒、灰、白に塗られている。それだけで、ここがあの集積場ではないことがわかる。室内で、明るい照明に照らされ、昼か夜かもわからないところは同じなようだが。
 それなら、ここはどこなのか。
 そもそも、自分はどうしてこんなところにいるのか。
 ルーァが、そのどちらかなりと答えを見つけようとした時、聞き慣れない物音が、ルーァの思考を遮った。
 ブゥン、と唸るような音となにかがゆっくりと擦れるようなその音は、背中から聞こえた。自分が右側を下にして、横向きに寝ているのだと、ようやく気がついたルーァは、首を左に捻って、物音を振り返ろうとした。
「気がついたか」
 しわがれた男の声が聞こえた。思わず動きを止めたルーァの足元から、白髪の老人がのっそりと姿を現した。
 その白髪も、刻まれた皺も、天使では有り得ない。年老いた卵人の男だ。カーキ色のくたびれた作業着を着ている。背中が少し丸くなってはいたが、それでもかなりの長身だった。見事な白髪を、低い位置で無造作なポニーテールに結び、髪と同じ色の髭をたくわえている。深く刻まれた皺のせいで、その表情はよくわからない。怒っているのか、笑っているのか、ただ、その声音に敵意は含まれてはいないようだった。  
 老人は、ルーァの顔から少し離れた位置に立ち止まり、眩しそうに目を眇めた。
「天使の仕組みはよくわからんからな。ひとまず止血ぐらいしかできなかったが、まぁ、死なずに済んだなら、良かったと言ってもいいのか」  
 独り言のようにボソボソと呟き、老人は片手で頭を掻いている。ルーァは、まだ完全には目覚めていない意識で、老人と壁にかかった卵の絵を見比べた。  
 黒と灰と白の卵。よく見ていると、表面が盛り上がっているようにも見える。絵ではなく、立体的な彫刻かなにかなのだろうか。
 ルーァが卵の絵に気を取られていることがわかったのだろう。老人は、ゆっくりとした動作で卵の絵を見やると、再びルーァに向き直って言った。
「それが気になるか。そいつは、ここの地図だ」  
 ルーァは老人に視線を戻し、戸惑ったように、かすかに眉根を寄せた。
「ここ。この場所の?」  
 この場所がどこかわからないが、そんな形をした建物なのだろうか。確信はないが、そう推測したルーァに、老人は意外なことを口にした。
「いやいや、地下、地上、空中を含めた都市全体のだ」
 老人の言った意味を理解するのに、暫く時間がかかった。
 ルーァはその間、声もなく、老人の顔を見つめた。深く刻まれた皺に埋もれた老人の表情はわかりにくいが、ルーァに見つめられ続けることに、居心地の悪さを感じているように見えた。だが、それを押し殺して、ルーァの視線を真正面から受け止めている。今、視線を逸らしたら、ルーァの信用を得られないと思っているのかもしれない。
 ルーァは、老人の顔からまた卵の絵に目を移し、未だ困惑君気味の口調で呟いた。
「都市の地図。では、地上も天上も、元は同じ一つの都市だったのか」  
 卵は三層に分かれてはいるが、それでも同じ楕円の中だ。俄かには信じ難いが、そういうことなのだろう。
「昔の話だ。天使の卵とかいう名前の都市だそうだ」
 老人は、どうということもないように告げた。ルーァの視線から解放されて、その肩からフッと力が抜けたようだ。心なしか、安堵の表情を浮かべている。
「どこでそれを?」  
 そんな話を、ルーァは今まで噂ですら聞いたことはなかった。集積場に暮らす虚ろな体に入り込む前、飽くほどに天上の都市に暮らした頃にも、そんなことは聞いたためしがない。この老人の単なる妄想かもしれないが、そんな妄想を抱かせる原因が、どこにあったのかが気になる。
 ルーァの懐疑的な口調にも、老人は気を悪くした風はなかった。むしろ、たやすく信じたなら、それを怪しんだだろう。老人は、振り向きもせずに親指で壁の絵を指し示した。
「そこの地図に書いてある。いや、書いてというのは正確じゃないな。近付くと浮かびでてくるんだ」
「近付いてみてもいいか?」  
 近付くと浮かびでる、などと言われても、それがどんな仕組みなのか、ルーァには見当もつかない。だが、すぐそこにあるのなら、試してみたいと思った。
 できることなら、この年老いた卵人が、おかしな妄想に取り憑かれているのではなく、真実を語っているのだとわかればいい。
 ルーァは、初めて会ったこの老人が、信じるに値する存在だと思いたかった。心の奥底では、既に信じているような気がする。たとえそれが、どうやら自分の命を、この老人に救われたらしいという理由からだけだとしても、まともに言葉を交わした、二人目の卵人が、多くの天使のような悪意に満ちた存在だとは思いたくなかった。
「ああ。動けるようならな。まだあまり無理はせん方がいいと思うが」
「ありがとう」
 老人の許可に対してか、気遣いに対してか、いずれにしろ天使から聞けるとは思っていなかった感謝の言葉に、老人は目をしばたたかせた。
 ルーァはそれに気付きもせず、動かすことのできなかった右腕に力を込めた。痺れたように重い。長い時間、同じ態勢で寝ていたのだろうか。左腕を、肩口までかけられていた薄い毛布の中から外にだし、まずは毛布を腰の辺りまで引き剥がした。 途端、背中に刺すような痛みが走る。
 思わず小さな呻き声が漏れ、ルーァは首を捩って自分の背中を覗きこんだ。かすかに、暗い色が目に入った。
「折れていたようだから、縛って固定しておいた。仕舞っておいた方がよかったのかもしれんが、やり方がわからなかったのでな。それは少々、面倒な代物だな。仰向けにもできんし、時々は体の向きを変えさせてもらったが、下になっとった方は痺れとるんじゃないか?」  
 老人の言葉に、ようやくそれが自らの羽だと気づいた。右腕が動かないのも、やはり痺れて感覚がなくなっているからだとわかった。
「どうやらそのようだ。今もなにかで縛ってあるのか?」  
 ルーァは、押し潰されて固くなった枕の上に頭を戻し、老人に尋ねた。
「ああ、包帯のようなものでな」
「それなら、それをほどいてもらえるか?」
「まだ完治していないと思うがな。さっき、痛かったんだろうが?」
「確かに。だが、あなたもさっき言っていたが……」  
 言いかけ、ルーァはふと口を閉ざして、老人のハシバミ色の瞳を覗き込んだ。老人は、居心地悪そうに身動ぎして、少し口早にルーァに先を促した。
「言ったのが、どうした」
「あなたの名前を、まだ聞いていなかったな。私は、ルーァ」  
 老人は、明らかに動揺し、ポッカリと口を開けた。卵人に対し、こんな風に名乗り、更に名前を尋ねる天使など聞いたこともない。
「お前さん、本当に天使なのかね」  
 背中の羽を見れば、天使以外に考えられないし、姿形とその醸しだす雰囲気は天使そのものだ。そうわかっていても、思わず聞かずにはいられなかった。
 いや、こうして実際に話していると、老人が見知っている天使とは、どこか違っているようにも感じる。どこがどう違うのかわからないまま、老人はゆっくりと自らにかぶりを振り、改めて白い簡易ベッドに横たわるルーァを見下ろした。






   
         
 
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