壊れやすい天使 壊れやすい天使  
3章「卵人と呼ばれた者達」
 
 
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3-5

「いや、あれは先予見ではない。お前達に説明するのは難しいが、先予見は、断片的なきらめきのようなものだ。だが、昨日のあれは……」
 ラギは俯き、白いフードに顔の半ば以上を隠すようにして、一瞬、ブルリと身震いした。組んでいた手が、無意識に自身を抱き締める。
「あれは違う。あれは、誰かの夢に、無理矢理放り込まれたようなものだ。それが夢ならまだいい。だが、あれは現実だった。その確信を、他人に伝えるのは難しいが」
「夢なんてそんなものでしょ。見てる間は、すごくリアルな気がするけど、目が覚めてみたら、現実と思ってたのがバカバカしくなることなんて、よくあるじゃない」
「私は今、目覚めている。それでも、あれが現実だったと確信している」
「でも……」
 ラギが顔を上げ、白いフードの下から、霧の深い湖面のような瞳でシスを見つめる。その瞳に、シスはそれ以上言葉を続けることができなかった。
 それからラギは、今もその光景を幻視しているかのように、仮面じみた強張った顔で語り始めた。独り言のような、誰かに操られ、喋らされているような、そんな口調に、シスとニトはただ立ち尽くしていた。
「滅びの種子は、天使を殺した。なにかの武器を使ったわけではない。その手すら触れていなかった。ただ、そのココロだけで殺したのだ。熱い、恐ろしく熱い想い。炎を吹き上げるオレンジ色の渦のようなココロが、天使を殺した。あんな強い想いを、全ての卵人が抱けるのなら、彼らを敵に回して、我々も長くはないだろう」
 そこまで言って、ラギはふっつりと口を閉ざした。  
 シスとニトが、ラギの語った内容を理解するのに、少しかかった。やがて、ニトが絞りだすように囁き、シスが震える声で言い募った。
「嫌だ……」
「信じられないよ、そんなの。だって、あいつらはずっと、俺達や黒い奴らの言いなりだったじゃない。あいつらに刃向かう力なんて、あるわけないよ。卑屈で、醜くて、愚かな生き物が卵人でしょ」
「お前は、私の予見を信じていないというわけか?」  
 信じていないというよりも、信じたくないのだと言いたいのを呑みこみ、シスは激しくかぶりを振った。亜麻色の髪とタテガミが、光を散らして踊った。
「だって、あいつらなんかに滅ぼされるのは嫌だよ。別の理由ならまだいいけど、あいつらなんかに……!」
「だから、我々によく似た目をした、古い天使を落としたのか」
「!」
 シスとニトが同時に息を呑んだ。大きく見開かれた目は、眼球がポロリとこぼれ落ちそうだ。青ざめた白い肌は、紙細工のようだった。
「なんで」
「視てたの」  
 ようやくそれだけを口にした二人に、ラギは静かに頷いた。
「そうだな。お前達に会う前に」
「予見してたの?」
「なら、なんで今まで」  
 黙っていたのか。それを止めなかったのか。  
 シスとニトの脳裏に、あの日、黒い天使を落とした後に二人で交わした会話が蘇った。
 あの時、シスは、「先予見は未来しか視れない」のだから、自分達のしたことを知る術はないと言った。だが、つい先程、先予見が現在を幻視することもできるのだと聞いた。だから、それを視られていたのかと思ったのだが、ラギが視ていたのは別のことだとすぐにわかった。それに安堵する間もなく、驚愕の事実を告げられたが。
 それからシスは、「知っていて止めなかったなら、ラギも同罪」だとも言った。今、ラギはそれを予見していたと言った。自分達と会う前から知っていたのだと言った。それなら、ラギも、あの天使を落とすのに手を貸した、ということになるのだろうか。  
 シスとニトは、ラギの真意を測りかね、そっくりな顔にそっくりな困惑の表情を浮かべた。  
 ラギは、そんな二人に、わずかに憐れむようなまなざしを向け、言った。
「お前達があの黒い天使を落としても、彼が滅びの種子を見出すのに変わりはない。私のところへいずれやって来るのも」  
 また少し、ラギの言葉の意味が浸みこむのに、時間がかかった。  
 シスとニトは、同時に瞬きを一度、重なり合うようにラギに尋ねた。
「死んでないの?」
「いつ、戻ってくるんだよ」
「死んではいない。いつここに来るのか、そこまではわからない。時が満ちれば、だろうな」  
 二人の異なる問いにそれぞれ答え、ラギはふうっと息を吐いた。今まで黙っていたことを告白して、ようやく胸のつかえが取れた、とでもいうように。
「そんな……」  
 ニトは絶句し、シスは険しい顔でかぶりを振った。
「嫌だよ。そんなの嫌だ! どうして!? どうして俺達が滅ぼされなきゃいけないの? どうしてそんなことを、決められなきゃいけないの? 誰が決めたの? どうしてそれを変えちゃいけないの?」  
 ラギのテーブルに細い両手をつき、身を乗りだしてシスは質した。  
 ラギは、フードの奥の瞳を、珍しく冴えた光を湛えたものに変えて、泣きだしそうな顔で怒っているシスを見つめた。怒っているのは、怖くて堪らないからなのだろう、と思いながら。
「誰が決めたの、か……」  
 独り言のように呟き、ラギは無力感に重く塞がる胸を、片手でそっと押さえた。  
 それを決めた相手を名付けるのなら、それは「運命」と呼ばれるものかもしれない。無慈悲で、圧倒的な力で我々を弄ぶ運命。そんなものを相手に、一体なにができるだろう。どう足掻いてみても、それは大海の小さな飛沫のようなものだ。変えることなど、できるわけがない。  
 運命あるいは未来。
 先予見として、多くの未来の断片を垣間見てきた。他の先予見達と同じものもあれば、異なるものもあった。我々が視るのは、一つしかない未来の姿ではなく、無数に分かれ、絡みあう可能性の未来なのだということは、全ての先予見が認めることだろう。
 だが、運命の大河は、途中でどれだけ枝分かれしようと、流れ行く先は同じだ。その本流そのものを消し去ることはできない。
 そして、運命の大河の行く先に、天使の滅亡がある。
 これだけは、変えようがない。阻止しようと運命に刃向かってみても、自らがその流れに飲み込まれて破滅するだけだ。
 それを、シスが真に納得するように話す自信はなかった。これを正しく実感するには、シスも先予見として生まれついていなければ無理だろうと思う。  
 だが、努力ぐらいはしてみようか、と、ラギは思った。  
 シスとニト。この二人もまた、天使の滅亡が定められた未来によって、選ばれた者達なのだろうから。  
 そしてラギは、シスとニトに、椅子に座るように促した。
「お前達がこれで納得するとは限らないが、私にわかることだけでも話そう」  
 せめて、運命の流れに、二人が溺れてしまわないように。


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 暗闇の中に、痛みだけがあった。
 どこがというのではない。痛みという名の繭の中に、閉じ込められているような感じだ。
 意識もその繭の中に閉じ込められて、整然とした思考ができなかった。
 白くけぶったイメージの断片のようなものが、幾つも暗闇に閃いては消えていった。そのどれもが、誰かの夢のようで、そこからなにかの感情が呼び覚まされることはなかった。
 コンクリート片から突き出た鉄骨。閉じ込められた青い水。舞い落ちる黒い羽根。一面の卵の海。風に靡く金色のタテガミ。砕けそうに澄んだ翆緑の瞳。花のように広がる黒いワンピース。薄暗い路地裏に転がる卵。オレンジ色のプラスチックカード。青い空に開いた漆黒の穴のような都市。環状に崩れた卵の破片。  
 そんなものを漠然と思い浮かべている内に、一つのイメージが繰り返し浮かび上がってくるのに気がついた。イメージというより、遠い感覚に近い。
 チリチリと細い繊維が千切れて、風に飛んでいく。
 それが、全身を覆う繭が、薄く剥がれていっているのだと気付いた頃には、曖昧だったイメージの切れ端が、鮮明な記憶へと変わっていった。
 一度は塞がった傷口が、再び鮮血を迸らせるような記憶だった。






   
         
 
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