壊れやすい天使 壊れやすい天使  
3章「卵人と呼ばれた者達」
 
 
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3-4

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 フィムの意識は、時折、浮上したり、沈んだりしていた。
 体は、黒いドロリとした水の中だが、顔だけがかろうじて、水面にプカリと浮かぶような感じだ。
 浮かびあがった時には、ぼんやりと自分のいる場所を意識するが、そこはまるで見覚えのない場所だった。覚えがあるのは、窓際の椅子に座り、その彼方を見つめている横顔だけだった。それは見る度、男になったり女になったりする。
(変なやつ……)  
 その呟きが、声になったのかならなかったのかもわからないままに、フィムはまた、黒い水の中へと沈んでいった。  
 黒い水に、底はないような気がした。


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 天使が群れるのは、孤独に耐えられないからだろうか。
 自分達の存在の危うさを、一人になるとチリチリと皮膚で感じるからだろうか。
 退屈が嫌だからと多くの天使は口にするが、退屈が怖いから、なのかもしれない。
 喋っていないと、触れていないと、自分以外の存在を感じて、そこに埋もれていないと、恐怖に耐えられないのかもしれない。
 世界は空虚で残酷だから、その空ろに、なんでもいいから手当たりしだい詰め込んでいないと、恐怖に狂ってしまうのかもしれない。
 だが、空ろに空ろを詰め込んでも、結局、なにも満たすことはできない。空ろはすぐに、虚しく消え失せるものだからだ。それが怖くて、消えるそばからまた似たような空ろを詰め込んで、本当はなにもないのだということから、逃げているだけなのだろう。
 白いフードで白く霞んだ瞳を隠し、最奥のテーブルで、長い年月に摩耗した黒いソファに身を沈めたラギは、店内を埋め尽くす色とりどりの天使達を力なく眺めやった。  
 そして、多くの天使の集う場所に、なにをするでもなく、ただ自分の存在を溶け込ませようとしている自分自身もまた、空ろを恐れているのだろうと思った。
「昨日は一晩中見かけなかったけど、どこにいたの?」  
 ふと、傍らからかかった声に顔をあげたラギは、紅色のワンピースを着た小さな天使を見た。
 まだ子供といってもいいような姿をしているが、媚びるような眼差しには、妙な色香がある。その後ろには、鶸色のパンツに浅葱色のシャツを着た、よく似た姿の天使がもう一人。俯いて、隠れるようにして立っていた。前にいるのがシス。後ろにいるのがニトだ。この店で、数ヶ月ほど前に知り合った天使達だった。  
 ラギは白くけぶったような瞳を、シスの群青色の瞳に向けた。
 シスは、先予見特有の光のないその目に見つめられると、内に秘めた想いも、消し去りたい過去の記憶も、未来に犯す罪も、全てを見透かされるような気がした。
 だが、実際には、彼ら先予見が視るのは、可能性の未来の断片に過ぎない。心に隠しておきたいことを探るのは、寧ろ、普通の天使の方が得意だ。
(怖がることなんて、なんにもない)  
 シスは自らに言い聞かせ、真正面からラギの視線を受け止めた。ニトの方は、シスの背中に隠れる位置から動かない。ニトには、ラギの視線を平然と受け止める自信がないのかもしれない。
 ラギは、少し疲れているようだった。フード付きのマントを脱ぐこともなく、白一色が体を染めていた。両手は腹部の辺りでかるく組まれ、足は少し開いた状態でテーブルの下に投げだされている。寛いでいるというよりも、やはり疲れているといった印象だ。顔色も表情も精彩を欠いて、座っているのがやっとのようだ。
「家にいた」
「それにしちゃ、随分疲れてるみたいだけど? 誰か来てたの?」
 誰かを招いて夜通し騒いだり、疲れるような真似をしたりなど、ラギがそうするとは想像もつかないが、シスは訝るように重ねて尋ねた。
「いや。予見の実現を幻視していた」
「……幻視って……」
 急に、口の中がカラカラに乾いた。喉が張りついて、吐きそうだ。  
 視ていたのだろうか。
 昨日の夜、自分達がしたことを。  
 滅びの種子を見出す黒い天使が、いつかこの店に現れると、ラギは予見していた。それともそれは、予見ではなかっただろうか。だが、金色の天使によく似た目の、少し変わった黒い天使がここを訪れたら、それは自分の客人だと、ラギは言っていた。その天使が、ラギの予見した、滅びの種子を見出すのだと、そう聞いていたから、だから。
(あいつを、あの穴から落としてやった)  
 深い深いあの穴は、都市の地下にある巨大な空洞に繋がっている。
 初めてあの穴を見つけた時に、幾つも石塊を落としてみたが、そのかすかな反響から推測するだけでも、相当深いようだった。光一つ見えず、ただ、中から微かな風が吹きつけるのを感じることがあるだけだ。
 その穴に、騙して連れてきた天使や卵人を、一体どれだけ落としてやっただろう。初めて落としたのは、しつこく言い寄ってきていた天使の一人だった。
 落ちて遠ざかる悲鳴と、最後に聞こえた重い音に、シスは感じた。それは、今まで経験したことのない、鋭利な剣が体を貫くような快感だった。
 それ以来、機会があれば、片割れのニトと、あるいは自分一人ででも、誰かを誘い込んでその音を愉しんだ。
 とはいえ、昨夜のそれは、愉しみのためだけではなかった。
 滅びの種子を見出す天使。それを消してしまえば、自分達の滅びは実現しないはず。そう思ってしたことだ。誰にも内緒で、未来の滅亡を消し去ってしまおうと。  
 それを、視られていたのだろうか。
 未来を視る先予見が、現実に起こっていることを幻視するなど、耳にするのは初めてだ。突然で、鵜呑みにするのも難しい。だがもし、それが本当なら、ラギはどうするだろう。
 シスは、体の内側から湧きおこる震えを、懸命に堪えた。
 ラギは怒りはしないだろう。少なくとも、表面的には。だが、多くの先予見達が視た滅亡の未来を、意図的に変えようとしたことを、快くは思わない気がする。それでもラギは、なにもしないかもしれない。なにも言わないかもしれない。
(でも……)  
 ラギに拒絶されるのが、シスは怖かった。どうしてそんなに怖いのか、シス自身にもわからないが、それがすごく恐ろしかった。  
 心の中で恐怖に震えながらも、シスはそれを顔や態度にださないよう必死だった。平静を装い、ラギの言葉を待つ間が、やけに長く感じた。シスの背中に隠れるように立つニトは、真っ青に青ざめている。小刻みに震える手を体に押し付けるようにして、かろうじて立っていた。  
 ラギは、二人のそんな様子に、気付いてもいないようだった。普段なら、見逃すことはなかっただろう。だが、シスの強張った表情にも、ニトの明らかな恐怖の顔にも気付けないほど、ラギは疲れきっていた。
「滅びの種子が、芽吹いた」  
 ようやく吐きだした言葉を、シスは一瞬、理解できなかった。ニトが、シスの背後で、ビクッと身を竦めた。  
 長い間の後で、シスは瞬きもせずに、人形のようにゆっくりとかぶりを振った。
「嘘でしょ?」
 足元に、黒い穴が開いたようだった。冷えた血が体中を駆け巡り、シスは、自分が突き落としてきた者達の恐怖を、今、初めて理解したような気がした。
「それは、先予見じゃないのか? また、未来を視ただけなんだろ?」
 ただ震えて黙りこくっていたニトが、ふいに口を開いた。そうあって欲しい。それがどんなに恐ろしい未来でも、少しでも先であって欲しい。まだ来ぬ未来であって欲しい。そう願っているかのような口ぶりだった。
「そうだよ。きっとそうだよ。ほんとは、まだ先のことだよ。そうでしょ、ねっ」  
 シスは、ニトの言葉に縋るような想いで、ラギに言った。シスもまた、強くそう願い、信じこもうとしているようだ。  
 だが、ラギは二人を見ようともせず、静かに否定した。






   
         
 
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