やめて。
嫌。やめて。やめて。連れて行かないで。あたしからタラタを奪わないで。
あたしの魂。あたしの魂が、血を吹きだしながら引き裂かれるわ。
引き裂かれた後に残るのは、炎。
炎の名は? あたしはその炎の名前を知らない。いいえ、知ってる。あたしはその炎に名付けるべき名前を知っている。その名は。
(……ろ……やる……殺してやる)
その名は、殺意。
(お前なんか、殺してやる!)
ジーナの内なる叫びが弾け、空気が音をたてて砕け散った。
「!?」
燃え上がる炎は、一条の光となって、ジーナから彼女の魂を奪おうとする者を刺し貫いた。
一瞬、長いたてがみが宙に舞い、レンは唐突に膝を折った。
それは、あまりにもあっけない死だった。
折り重なるように、前のめりになったレンとタラタが床に崩折れる。
『きみはぼくらを殺すんだろ』
ふいに、今まで忘れていたあの天使の言葉を思い出した。
あの日に聞いた言葉を、ジーナは初めて理解した。あの時は、その言葉の意味を理解する前に、天使の美しさに忘れてしまった言葉。
(あの天使が言ったのは、このこと? あの天使は先予見とかいう天使だったの? それならこれは)
それならこれは、最初から決められていたことなんだろうか。誰に? 運命とかいうものに。
(あたしが、天使を殺すことを)
ジーナは自分が造りだした言葉に、訝しげに眉をひそめた。
殺す。
あまりの違和感に、選ぶ言葉を間違えたのかとさえ思った。
殺す? 殺した? 死んでるの? ほんとに?
死んでるわ。死んだわ。あたしからタラタを奪おうとした天使は死んだ。あたしが殺した。
あたしが殺した?
あたしはただ想っただけだ。殺してやると、死んでしまえばいいと想っただけだ。想っただけで死んでしまうの? 想いが天使を殺すの?
なんて、なんて……あっけないの。なんて脆いの。人の心を読んで嘲笑う天使は、人の心に殺される。
そうだよね、今まで誰がこんなこと想ったりする? 考えられないことだわ。あたしだって、あたしのタラタを奪われることさえなければ、そんなこと、彼らの前で一瞬だって想ったりできなかったはず。
でも。実際にあたしの前に転がっているのは、命の光を失った天使の屍。
気絶してるだけかも? いいえ、違う。確かに死んでいる。あたしにはわかるわ。あたしにはわかる。そこに天使がいるだけでいつも感じていた、抑圧された劣等感、罪悪感、羞恥心。その全てを今はもう感じない。
罪悪感? 天使を殺した罪の意識?
感じない。だって、だってこの天使は、あたしからあたしの魂を奪おうとした。あたしの全てを、有無もいわさず奪っていこうとした。あたしの命。あたしのタラタ。
あたしの……
次の瞬間、ジーナは弾かれたように息を飲んだ。
崩れるように倒れたレンの腕の中で、タラタもまた、動きを止めていた。
「タラタ?」
応えがない。
(まさか)
まさか、そんな、まさか。
そんなこと有り得ない。そんなこと許されない。あたしの想いは、あたしのタラタを奪うこの天使にだけ向けられたもので。それを阻むためのあたしの想いが、タラタまでも殺したなんてこと。あるわけない。あるわけない。あったら許さない。
「タラタ、タラタ!」
光を失った天使を、ジーナはまるで天使ではないかのように無造作に転がし、その下敷きになっていたタラタを、そっと抱き起こした。
白い肌。長い睫。やわらかな頬。薄紅の唇。
「タラタ」
お願い。
「……ママ」
形のいい唇がかすかに開き、不思議と抑揚のない声が吐きだされた。
「タラタ!」
安堵のあまり気が遠くなるのを堪え、ジーナはタラタのなめらかな頬を愛しげに撫で、その証を確かめようとした。
大丈夫。あたたかい。でも、なぜかそのぬくもりが今にも消えそうな気がした。まるで、少しずつ失われていくのがわかっているみたいに。
気のせいだ。タラタを失うかもしれなかったショックで、おかしな想像をしてしまうのだろう。ジーナは自分に言い聞かせた。
だって、現にタラタは目を開けて、戸惑ったようにあたしを見つめている。
ジーナは微笑んだ。少しぎこちなく。
「もう大丈夫よ、どこか怪我はない? 痛いところはない?」
「うん、ママジーナ。ぼくは平気だよ」
ホッと息をつくジーナの中に、奇妙な異物感があった。
なにかが胸の奥につかえている。うまく言葉にできないが、なにかがひっかかっていた。
天使を殺したということだろうか。罪の意識など感じてはいないのに。それがなにかを呼び覚ましそうだった。キーワードみたいなものかもしれない。天使。殺意。そんなもの。
天使を殺す。
天使を殺す? 過去じゃなくて未来にも? どうして? そんな理由があるだろうか。
胸の奥にわだかまる、黒いしこりのようななにか。
それはまるで、悪い予感に似ている。嫌な予感。不安。そう、不安だった。
あたしは不安でたまらない。恐れてる。天使を殺すのが怖いんじゃない。天使を殺さなきゃいけない羽目に陥るのが怖い。
天使を殺すのは、天使を殺さなければ、タラタを失うから。タラタを、あんな形で奪われそうになるのは、もう二度と嫌なのに。
天使がタラタを奪いに来る。
その考えは、皮膚を突き破り、身体の奥深く入りこんだ鋭い棘のように、鈍く痺れるような痛みになった。
だけどそんなことがある? 他の天使までもがあたしからタラタを奪いに来るなんて、どうしてそんなことがあるだろう。今ここに倒れている天使になら、そんな理由もあったかもしれない。だけど、他の天使までが、どうしてそんな真似をするっていうの?
大丈夫、きっと大丈夫。誰も邪魔をしないわ。もう大丈夫。
でも。
だけど、どうしてこの天使は、あたしとタラタの暮らすこの場所を知ったのだろう。
エルシアになら、今日初めて、誰かと住んでいることを認めはしたが、まさかそれが天使だなんて、彼女には思いもよらないことだろう。天使の来る店に行かなくなったことを、よかったと言うエルシアだ。天使と関わり合いがあるとは思えない。それに、万が一、彼女が誰かにジーナの同居人のことを話すとしても、早すぎる。それが原因で、ジーナとタラタの居場所を突き止めて、姿を現わすのに、まるで間がないのは不自然だ。
(あたしの靴は血まみれだった)
天使の流した薄紅の血は、ジーナの足に絡みつき、まとわりつき、道標のように。
それを辿るのは容易だったはずだ。だが、それならどうして、すぐにでもジーナからタラタの卵を奪い返さなかったのだろう。路地に残された罪の痕跡が薄れ、それを読みとることもできなくなってから、ジーナがあの日のことを忘れかけてから、どうしてそうなってから、天使はここを見つけたのだろう。
そしてこの場所は、レンという名前の壊れた天使以外、誰も知らないのだろうか。
たとえば、その天使がたった一人でこの場所を見つけたのではなく、誰か、別の天使の手を借りたのだとしたら。その天使がこの場所を訪れ、そして帰らなかったことを、その誰かは知っているはず。ここに、卵人に奪われた天使がいることを、その天使は知っているのかもしれない。
ジーナは、自分のその考えに身震いした。
もしそうだとしたら、その誰かはどうするのだろう。その誰かもまた、タラタをジーナのもとから連れ去りにくるかもしれない。
(だって、卵人が天使と暮らしてる、なんて。天使なら誰だって赦せないはず)
そこに卵人達がいるだけで、激しい嫌悪と侮蔑を投げつける天使が、その同胞を卵人の手に委ねて平然としていられるはずがないと思った。
それなら。
(それならあたしは、天使を殺す)
きっと、天使を殺すわ。
何千、何万の天使が相手でも、あたしは彼等を一人残らず殺してしまえる。
あたしのタラタ以外に、意味なんてないから、あたしはあの子以外の全ての天使を壊せる。
殺せるわ。殺さなきゃ。そうよ、殺さなきゃいけないんだ。
天使を殺すのは確かにあたし。あたしが天使を殺すの。天使が消えゆく滅びの種族だというなら、あたしがそれに手を貸すわ。あたしがこの手で、この想いで、とどめを刺すから。
……だけど本当に?
本当にそれでいいの? なにかそこに、過ちはない?
ないに決まってる!
あたしは全ての天使を羨み、恐れ、恨み、憎んできたの。だからあたしは、全ての天使を壊すわ。
殺せるわ。
「ママ」
タラタの囁くような呼びかけに、ジーナは狂気を含んだ思考の渦から、ハッと我に返った。
血の気の失せた青白い顔で、タラタがジーナを見ている。なんだかひどく顔色が悪い。
ジーナは、自らの不安と、タラタの不安までも振り払うように、ゆっくりと微笑った。
「大丈夫、大丈夫よ、タラタ」
そう、大丈夫。
あなたをあたしから奪おうとするもの全て。その全てを、あたしは壊して、燃やし尽くしてみせるから。
「大丈夫」
独り言のように呟き、ジーナはタラタのやわらかな髪を撫で、決意を込めて天使の死骸を見下ろした。
大丈夫。
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