夢から醒めて、これが現実だったらと惜しまなくてもいいなら。
あの天使の死体の傍からこの子の卵を持ち去って、この子が孵ったあの瞬間さえも、夢じゃなかったと信じていいのなら。それからの日々さえ。
「ママジーナ……ほんとなの? ほんとにママジーナは、ママじゃないの?」
「タラタ!」
ジーナは、ハッと目を見開いた。
声にださなかった声を聞いたの?
(タラタ、あたしの声を聞いたの?)
心の声を聞くという、天使の感応能力は、今までタラタに表れていなかった。
時折は、その兆候もありはしたが、それもごく微かなものでしかなく、ジーナの秘密は、ジーナだけのものだった。自分が本当はタラタの母ではなく、路地裏に落ちていた卵を、盗むように拾ってきただけだという、その秘密は、ジーナだけのものだった。
もちろん、いつかは話さなければいけないとわかっていた。いつまでも隠し通せるものとは思っていなかった。だが、話すのなら、自分の意志で、自分の口で、きちんとタラタに伝えたかった。
こんな形で、罵倒の中で暴露されたのでは、タラタが傷つくかもしれない。それがジーナには辛かった。
だが、こんなふうに前触れもなく、ふいにタラタが心の声を聞くことを覚えるのなら、やっぱり、心構えなどできなかったかもしれない。
タラタの言葉に、レンがここぞとばかりに言った。
「当たり前だ! こんな醜いものがお前を産んだ、だと? 吐き気がする」
「ママジーナ、ママじゃないんだね」
タラタがジーナを見つめる。悲しそうなタラタの表情に、ジーナの胸は痛んだ。痛みに耐えかねて、思わず顔を伏せていた。
(もう、駄目ね……)
所詮は夢と諦めなくてもいいとしても、タラタの母親じゃないという現実の前には、全てが無意味なのだろうと思った。本当は拾ってきたのだということを、今まで隠していた以上、タラタが騙されたと感じるのは当然のことだし、それで腹を立て、自分に愛想を尽かすのは仕方がないのだろう。
「さぁ、早くこんな所から出るんだ」
レンの嘘のように整った手が、再びタラタに差し延べられた。
その手と、声もなく俯いたジーナを見比べ、タラタは、
「行っていいの? ママジーナは、それでもママだって言わないんだね」
無邪気な哀しみに首を傾げた。
「!?」
ジーナは、タラタの言葉に、思わず顔をあげた。
「ママはぼくを諦めちゃうの? ママジーナがぼくの手を離すなら、ぼくもこの手を離さなくちゃいけないのかな」
「早くするんだ。ためらうことなどないだろう」
ためらう? ためらっているの? あたしから離れることを? ためらってくれるの? だって、あたしは。だって、あたしは。
天使じゃないのに。
「ぼくにはよくわかんないよ。天使だとか卵人だとか。それはそんなに大事なこと?」
「いい加減にしろ。いつまでそんなモノにくっついてるんだ。お前は私のシアが遺してくれたもう一人のシア。そんな卵人などに関わるな」
苛々と促すレンに、タラタは訝しげに首を傾げた。
「もう一人の? ぼくは、タラタだよ?」
「そんなのは、そこの腐った肉の塊が勝手に名付けた偽りの名前だ! 天使の名前ですらない!」
激しく吐き捨て、レンはふいに表情を和らげた。
「だが、そうだ。シアじゃない。それはわかっている。シアと二人で決めたんだ。卵から孵ったら、お前をこう名付けようと」
わずかな間を置き、レンは愛しむように告げた。
「莉琉(リル)」
それが全ての答えになると、レンは思っていたのかもしれない。その名を告げれば、天使である自分を思いだし、卵人のことなど忘れてレンの元に駆け寄ってくると、わけもなく思っていたのかもしれない。
「でも、ぼくはやっぱり、タラタだよ」
タラタが目をしばたたかせ、やがてゆっくりとかぶりを振ると、レンは一瞬、傷ついたようにたじろぎ、すぐに、そんな想いを振り払うような強い口調で言った。
「もういい! お前がなんと呼ばれたいかなんて、今はいい。そんなことより、これ以上、一秒だってこの薄汚い空気を吸うな、醜い下層民にその手を触れるな!」
レンは、差しだした手をタラタが取るのを待たず、ジーナの腕を掴んだタラタの手を取り、力任せに引き剥がした。
「ママ!」
腕に絡みついていたぬくもりが失われ、ジーナはふいに、真っ黒な深淵に放り込まれたような感覚を覚えた。
タラタが身を捩って抵抗するも、レンはたやすくその小さな体を引き寄せる。タラタの顔が苦痛に歪み、それを見た途端、ジーナは全てを忘れて叫んだ。
「タラタに乱暴しないでっ」
「お前に指図される謂れはない」
レンは不快げに眉をひそめ、吐き捨てた。
ジーナは跪き、哀願するように両手を組んだ。卵人とは思えない真っ直ぐな瞳で、天使であるレンを見上げる。見たことのない鮮やかな緑の瞳に、レンは知らず、わずかに後ずさっていた。
「お願い。タラタを連れて行かないで。タラタをあたしから奪わないで」
「奪っていったのはお前だろう! 私から、私達から盗んでいったのはお前だ!」
ジーナの瞳に、無意識に気圧されていたレンだったが、「奪う」の言葉に、思わず声を荒げた。タラタの腕を掴む手に力が篭り、タラタが小さく呻く。
その声に、ジーナは必死に言い募った。
「お願い、乱暴にしないで。卵は落ちていたのよ。あのまま放っておいたら、きっと壊れてしまったわ。盗んだわけじゃないわ」
「ならば、正当な持ち主が現れた今この時点で、さっさと返せばいいだろうが。保護してくれたと、礼でも言って欲しいのかっ」
蔑みと憎しみをこめて睨みつけられ、ジーナは弱々しくかぶりを振った。
「違う。違うわ。そんなことじゃないの。そうじゃないの。だけど、もう駄目なの。あたしにとって、タラタはもう……」
なおも痛みに顔を歪めたままのタラタを見兼ね、ジーナは手を伸ばし、立ちあがりかけた。
「寄るな!」
レンは、反射的な嫌悪に、右足でジーナの額を蹴りつけた。
「ママジーナ!」
額に、弾けるような熱がある。
同時に、ジーナは押し寄せる波のような眩暈に、意識を失いかけた。
だが、蹴られた額よりも熱いものが、ジーナの意識を押しとどめた。熱は、胸の中にあった。
(熱い)
胸が熱い。
燃えてしまう。私の中にあるこの炎はなに?
「返して。返して」
熱さに喘ぎながら、ジーナは更にタラタへと手を伸ばした。タラタもまた、レンの両腕に絡めとられながらも、懸命にジーナへと手を伸ばしている。
「ママジーナ!」
その指先に少しでも、ほんの一瞬でも、触れることができたなら。
「やめろ! 寄るな、汚らわしい」
レンは再び、ジーナを乱暴に蹴りつけた。生理的な嫌悪感をもたらす虫に対するような、狂気を含んだ激しさで、レンは何度もジーナを蹴りつけた。
(熱い)
天使が、あたしの手の届かないところに連れて行こうとする。
あたしのあの子を連れ去っていく。
「やめて。ママ、ママ!」
「来るんだ、さぁ!」
蠢く蛆から逃れるように、レンがタラタを羽交い締めにして、無理矢理後ずさり始めた。
「やめてっ」
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