壊れやすい天使 壊れやすい天使  
3章「卵人と呼ばれた者達」
 
 
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3-1


 ジーナの背後にいたのは、悲しみの青に染まった衣を纏う、嘆きの天使だった。
 青が悲しみの色だと知っているのは、以前、天使のための青一色の服を仕上げたことがあるからだ。この色を身に纏っている時、その天使は「嘆きの天使」と呼ばれると教えてもらった。
 だが、見たのは初めてだ。服だけでも、鮮やかなその青はかなり印象的だったが、こうしてその色を身に纏った天使を目の当たりにすると、印象的どころか、二度と忘れることのできないようなインパクトがある。  
 とはいえ、その天使が衝撃的なのは、着ているもののせいだけではない。悲しみが暗い怒りに変わったかのような瞳の色と、剥きだしの憎悪を宿した表情の効果が大きい。怒りと悲しみが、無数の針のようにつき刺さってくる気がした。  
 精神感応は、天使にだけ与えられた能力だったが、これほどの想いを見せつけられれば、ジーナにもわかる。この天使が激しく怒り、悲しんでいることは、ハッキリとわかった。
 それでも、ジーナはまだ少し、信じられなかった。  
 天使はいつも、冷酷に嘲笑い、傲慢で美しい。嫌悪も露わに卵人達を蔑んだとしても、怒りや悲しみに心を乱すことはない。
 あたしはそう思ってた。誰だってそう思ってたはずだわ。
「返せ。ここにいることはわかっている」  
 だけど。  
 あたしの前にいるこの天使は。  
 燃えるような悲しみと、凍るような怒りに染まって、『返せ』とあたしに言っている。  
 『返せ』と。  
 なにを? 天使を? まさか、あたしのあの子を?   
 ジーナはその天使に応える術もなく、凍りついたように身動ぎできずにいた。永劫にも思える数十秒の沈黙を破ったのは、硝子細工の子供の声だった。  
「どうしたの?」  
 玄関のドアの隙間から、少年の姿をした天使が顔を覗かせている。その表情は、生まれて初めて聞く、ジーナと自分以外の誰かの声に、好奇心を抑えきれない様子だった。不安と期待の入り交じった目で、ジーナと青い天使を交互に見つめている。
「タラタ……」  
 痛みを含んだジーナの声とは対称的に、青い天使は瞳を輝かせた。
「その子か! おいで、迎えにきた」  
 差し延べられる手に、タラタは不思議そうに目をしばたたかせた。
「あなたは、だれ? ママ、だれ? ぼくとおんなじ姿してるよ。ママジーナとは違うね」  
 途端、天使は激しい嫌悪感に身をふるわせ、掠れた声を張り上げた。
「マ…ママ……だと! 貴様、汚らわしい卵人の分際で、天使の母を名乗るのか!?」


『煉音(レン)』  


 泣いているように微笑む、少女のような面影の天使。
 銀に近いプラチナの髪と 、時折白く霞む、空色の瞳。  
 あの時もそうだった。泣きだすように微笑んで、彼は言った。
「その子を産んだのは、私の偲逅(シア)! お前の爛れた腹から産まれただなど、よくも、よくも……!」  
 レンという名の嘆きの天使は、怒りのあまり、ブルブルと震えはじめた。言葉さえも、震える唇からは思うように吐きだすことができない。ただ、怒りに満ちて、腰を屈めた姿勢のままで凍りついているジーナを、睨みつけた。
『ねぇ、レン』  
 シアは言った。
 その腕の中で。他の多くの天使達にとってはただの暇潰しの、だが彼らにとってはそれだけじゃなかったいつもの行為の後で、淡い熱を残した頬を肩にもたせかけ、たわいもない噂話でもするように、シアは言った。
『ぼくらはすぐにも、消えてしまうんだってね』  
 なんのことだかわからず、シアの顔を覗きこむと、シアは目を伏せ、囁くように続けた。
『告死天使達の声を聞かなかった?』
『奴等はいつだってそればかりさ。今更、深刻になるもんでもないだろ』
『でもね、レン。ぼくらは……ぼくはもうすぐ消えるよ』
『シア、それは先予見なのか!?』  
 少し乱暴に上体を起こし、シアの頬を両手で包みこんで自分に向けた。
 シアは目を上げ、いつものように微笑んだ。その目は、未来を視る時の霞んだ目ではなく、レンが心から愛おしんだ、澄んだ空色をしていた。
 シアは、あまり優秀な先予見ではなかった。滅多に未来を垣間見ることもなく、普段は殆ど普通の天使と変わらなかった。身につけている服も、先予見の白ではなく、淡い水色を基調にしたものが多かった。それでも、彼もまた、先予見と呼ばれる天使に変わりはなく、ごく稀に読む未来は、他の先予見となんら遜色のないものだった。
『たぶんね』  
 言葉を失い、瞬きも忘れた相手を宥めるように、彼は明るく言った。
『楽しかったよ。レン、きみがいたから、ぼくは楽しかったよ』  
 そしてシアは言った。でも、最後に一つだけお願いがあるんだけど、と。
『レン、もうすぐ消えてしまう運命なら、ぼくは卵を孵してみたいな』  
 囁いて、はにかむように悲しく微笑んだ顔を、今も鮮明に覚えている。卵を孕んだことがわかった日の、輝くような笑顔と一緒に、忘れた日などなかった。  
「よくも言えたな! 私のシアの分身を、言葉だけでも穢すことは許さん!」  
 ジーナは、爪が食い込むほどきつく、手提げ袋の持ち手を握りしめていた。  
 頭の中で鳴り響く、痛いほどの潮騒。打ち寄せる波の飛沫に、まるで砂のように岩が崩れていく。これは、絶望というものなのだろうか。
「ママジーナ」  
 気がつくと、タラタが傍にいた。玄関のドアが閉まる音は聞こえなかった。レンの叫びに、かき消されたのかもしれない。  
 タラタは、怯えた表情で、持ち手を握ったまま動かないジーナの二の腕を、両手で縋るように掴んでいた。
 その感触に、ジーナはようやく我に返った。固まった指先を引き剥がすようにしてほどくと、ジーナは跪き、タラタの両手をそっと握った。  
 タラタがジーナを見つめている。そこにある不安な陰を、今すぐ拭い去ってやる術を、ジーナは持っていなかった。
「大丈夫よ」  
 ただ、掠れた声で囁いてみても、タラタの不安は消えないだろう。  
 こんな形の破局を、ジーナはほんの少しだけ予感していたような気がした。  
 卵を産んだ天使がいるなら、その相手となった天使がいるはず。迎えが、なんて、確かなことを感じていたわけじゃなかったが、こんなことが起こるかもしれないと、ほんの少し、頭の片隅ぐらいにはあったような気がした。
「ママ?」
「やめろ。そいつがお前の母体でなどあるものか。そいつは卵人。血塗れになって産まれてくる穢れた生き物。お前は天使だぞ。卵から孵る天使だ。お前は私と私のシアがただ一度、たった一度だけ形にしたかった私達の分身。そんな醜い肉の塊を母だなどと呼ぶな!」
「ママジーナ、なにを言っているの。この人は、なにを言ってるの? わかんないよ、ねぇ」
(あたしが)  
 薄暗い路地裏で、あの卵を見付けたのは、幻だったのだろうか。引き裂かれた天使の死体を見たのは、悪い夢だったのだろうか。  
 灼けつくような肺の痛みと、血のぬめり。崩れていく自分自身と、鼻の奥にわだかまる死臭と、卵の美しさ。  
 夢をみていたのだろうか。みんな。ぜんぶ。
(現実にしては、あまりにもリアリティのない時間だと思うけど)
 有り得ないよね。あまりにも美しく幸福な刻。  
 だけど。  
 この腕を掴む熱と強さは。  
 夢じゃないと、幻なんかじゃなかったと、なによりはっきり告げている。






   
         
 
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