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2章「訪れた天使」
 
 
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2-15


「最近あんた、随分キレイになったよ。顔色もいいし、楽しそうだ。暫くぶりに現れた時は、今にも死にそうなくらい痩せこけてたけど、あの頃に比べたら、まるで別人だね」  
 あの頃。
 タラタの卵を孵すために、殆ど飲まず食わずで卵を温め続けた。タラタが生まれ、このままじゃタラタを無事に育てていくことはできないと、久しぶりに食料を求めにエルシアの店に来た時のことを言っているのだろう。
「そうかな。うん、そうね」
 ジーナは記憶を辿りながら、曖昧に微笑んだ。
「一緒に暮らしてるのかい」
「そうね」
「そうかい。そりゃいい。本当に合うかどうかは、一緒に暮らしてみなきゃわからないからね」
 エルシアの誤解をそのままにしておくか、少し迷った後、ジーナは笑いながら否定した。
「そんな相手じゃないのよ」  
 ステンレスの籠から、カーキ色の手提げ袋に荷物を移しかえているジーナを、エルシアはもう一度まじまじと見つめた。手持ちの袋に、エルシアが荷物を詰めてくれることもあるが、今日はお喋りの方が忙しいらしい。ジーナは、重くて潰れにくそうなものから順番に、袋の中に詰め込んだ。
「そうなのかい? けど、なんだっていいさ。あいつらにとり憑かれたみたいなってるより、ずっとね。あの店には行ってないんだろ」  
 思わず、手が止まった。薄紫の包装紙でくるまれた、四角い石鹸を持つ手が震えそうになるのを堪え、ジーナは必死で平静さを取り繕った。
「行ってないわ」  
 卵人にも入ることの許された、天使達の集まるあの店。
 深い海の底のようなあの店の帰り道に、タラタの卵を見つけたのだ。引き裂かれた天使の死体の傍に、落ちているのを。  
 あの日から、その店はおろか、近くにさえ行っていない。下手に近づいて、天使の卵を拾い、勝手に持ち帰ったことがバレるのは恐ろしかったし、わざわざ会いにいかなくとも、天使なら、すぐ傍にいる。今まで遠目に眺めることしかできなかった、どの天使よりも光り輝く、自分だけの天使が。
 ただ一度、間近で言葉を交わした天使もいたが、その時に自分を包んだあらゆる感情すら、今は幻のようだ。リアリティなどまるでない、ただの遠い夢のようだった。その天使がなにを言ったのかさえ、よく覚えてはいないし、どんな顔をしていたのかも、朧げな記憶しかない。
 エルシアは、満足そうに頷いた。
「そりゃいい。それがいいよ、あんた。あいつらには近づかないに越したこたないからね。不幸になるだけさ」
「そうね」
「そうさ。あたしは、何人も見てきたよ。何人も何十人もね。黒かろうが黄色かろうが、奴らは奴らさ。腐った性根は、見た目がどれだけ変わろうが、変わりゃしないのさ」
 エルシアもやっぱり、二十年前は、天使達は金色ではなかったと言う。ジーナは、エルシアのことは好きだが、それだけは信じることができなかった。金色の天使のいない世界なんて、想像もできない。
(タラタのいない世界なんて……)
 考えたくもなかった。
 そしてジーナは、エルシアに笑って別れを告げると、大きな手提げ袋を両手で抱えて家路を急いだ。
 用は済んだ。一刻も早く、タラタの元に帰りたかった。帰って、タラタが自分を呼ぶ声が聞きたかった。
「ねぇ、ママジーナ?」
 と、そう呼ばれる度、ジーナの中はあたたかい光で満たされる。やわらかい風が吹き、世界は心地好いぬくもりに包まれる。
「あのね、大好き」
 唐突にそんな言葉を投げかけてくる度に、愛おしさで息が詰まる。
「ママも大好きよ」
 思わず跪き、華奢な体を何度この手で抱き締めたことだろう。ジーナの薄い胸に頬をすり寄せて、両手でしっかりと着ている服を握りしめられ、更に愛おしさでいっぱいになる。
 その度に、ジーナは、この子のためならなんでもできると強く思う。
 それは確信。数少ない絶対だった。
 それでも。 こんな日々が、永遠に続くと思っていたわけではなかった。
 いつか必ず、終りは来る。それはわかっていたつもりだった。
 流れる時間の違いが、自分からタラタを奪い去ってしまうだろうということは、最初から知っていた。自分が老衰で死ぬか、その前にタラタがこの部屋を出て行くか、それはわからなかったが、それでも、そんな終りはずっと先のはずだった。
 だから。
 こんな形の終りを、ジーナはかすかな予感でさえ感じることができなかった。


  ジーナの住む石造りのアパートは、積み重ねられた年月に、黒く汚れて擦り減っていた。
 角は、なにか硬いものがぶつかったかのように崩れ、北側にある鈍色の非常階段は、三階付近から、歪んで折れた状態でぶらさがっている。入口にある扉は、錆びた蝶番だけを残して、一片の木片すらない。
 その入口をくぐってすぐ正面に、明かりのない階段がある。階段は、途中で直角に曲がり、広い踊り場があるタイプのものだ。元は白かったのかもしれない暗灰色の壁には、悲鳴のような無数の落書きが刻まれている。助けてと、今も叫ぶ声が聞こえそうだった。
 その落書きの声を無視して、空っぽの黒い革鞄をたすき掛けにし、今にも溢れだしそうにパンパンに詰め込まれたカーキ色の大きな袋を両手で抱え、ジーナは階段を急ぎ足で昇った。
 三階にある自分の部屋の前に辿りついたジーナは、買い込んできた食料雑貨の入った袋を、一旦足元に置いてから、薄手の茶色いコートのポケットから鍵を取りだした。鍵には、黒い羽が刻まれた石のキーホルダーがついていた。
 二つある鍵穴に、上から鍵を差し込み、手首をかるく捻って開ける。カチャリと鍵の外れる音が響いた途端、中からガタン、と物音が聞こえた。自分が帰ってきたと思い、タラタが椅子かなにかを動かしたのかもしれない。
 上の鍵穴から鍵を抜き、下の鍵穴に差し込む。トタトタと駆けてくる足音がドア越しに聞こえ、ジーナは思わず微笑んでいた。
 下の鍵も開け、足の間に挟みこんで支えていたカーキ色の袋の持ち手を片手で掴むと、ジーナはもう一方の手で、黒いドアノブを掴んだ。ガチャ、と少し重たい音がして、ドアが開く。
 そして、ドアを三十センチほど開けた時だ。
 中から「お帰りなさい」とタラタの声がするのと、同時だった。
「返せ」
 と、荷物を掴んで屈んだ背中にかかった声に、ジーナは凍りついた。
 振り返る前から、わかっていたような気がした。
 その声だけで、わかっていた気がする。
 首筋の毛が、チリチリと逆立つ。心臓から冷たい血が流れだす。手の平にじっとりと汗が滲みでる。膝が、震えた。
 ジーナは、錆びついた機械人形のように、ぎこちなく首を回して、後ろを振り向いた。ギチギチと軋む音すら聞こえるようだった。
 青い、真っ青な色が見えた。あまりにも鮮やかな青は、そこだけ暗い廊下に切り張りされたかのようだ。屈んでいるからだけではないだろう。ひどく背が高く、それだけで気圧されるような威圧感がある。
 青一色のローブのような服を着た体の上には、凍りつくような美貌があった。蜜色の髪は、伸びかけのショート。その心を映したかのように、暗いストームブルーの瞳が、激しい憎悪を宿してジーナを突き刺していた。
 本来なら、こんな場所に、絶対にいるはずがない。
 それは、天使だった。






   
         
 
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