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罪の形が天使の卵なら、幸福の形は、天使の姿をしていた。
肩まである灰褐色の髪を靡かせて、ジーナは暗いアスファルトの道を歩いていた。腫れあがった傷口のように、路面は亀裂に沿って盛りあがり、ひび割れていた。だが、何年も通い慣れた道だ。どこかどう崩れているのか、目を瞑っていてもわかる。ジーナは緑の瞳を、足元ではなく、道の先、更にその彼方へと注いで、足早に歩いていた。
幸福は、今、彼女の中に、確かに息づいていた。
歩きながら、アパートを出る時の光景を思いだす。
重い鉄製のドアの前で、ジーナは最後にもう一度、強く念を押した。
「絶対に、一人で外に出ちゃダメよ?」
「うん」
全ての光を集めたかのような金色の髪。紫がかった明るい青をした目が、ジーナを真っ直ぐに見上げている。
ルピナスブルーの服を着て、廊下の壁に白い手で触れながら頷く、小さな天使。
あの日、卵から孵った金色の天使は、瞬く間に成長し、今では、卵人でいえば十歳くらいの子供になっていた。
名前は、タラタと名付けた。考える間もなく、その名がこぼれでていた。
タラタが生まれてから、ジーナは変わった。病的なまでに痩せていた体は、健康的な相応の肉がついたし、灰褐色の髪にも艶がでて、肌もなめらかだ。目を瞠るほどの美人ではないが、きれいだと感じさせるなにかが、内面から滲みでているようだった。
卵を孵す間は、食事をとることも忘れていたし、自分の体などどうでもいいと思っていた。
いや、それ以前も、自分の健康状態などに頓着することはなかった。彼女にとって、この暗い世界は、健康で長生きしたいと願うようなものではなかったからだ。
天使を見に出かける時以外、自分の姿を気にかけることもなかった。その時も、天使と引き比べて、自分はなんてみっともないんだろうと思うくらいだ。
だが、タラタが生まれてから、タラタのためにも元気でいたいと願うようになった。
自分がタラタの卵を孵した以上、自分はその命に責任がある。少なくとも、タラタが一人で生きていけると確信できるまでは、自分が守っていかなければ。
そのために、タラタは勿論、自分自身も健康に留意して、規則的に食事をし、睡眠をとり、清潔にすることにも気を遣った。荒れ果てていた部屋の中も、今はすっかり片づいて、掃除が行き届いている。枯れた鉢植えも、全て青々と緑の葉を茂らせる新しいものに変わっていた。
とはいえ、タラタは、あまり食欲が旺盛な方ではなかった。天使は食べなくても生きていけるのだと、以前聞いたことがあったが、一人で食べるより二人がいい。タラタと自分の種族の違いを殊更に際立てたくはないし、タラタも、一緒に食事をすること自体は楽しいようだ。ジーナは勿論、タラタと自分のために食事の支度をし、あれこれ話しながら食べる時間が、この上なく幸せだと感じていた。
だが、そうなると、二人のための食料を買いに行くために、ジーナは時々一人で外出しなければならなくなった。他にも、生活用品をあれこれ買いに行かなければならない。
そうしたことに必要なお金を、ジーナは数年前から裁縫の腕で得ていた。幾つかの店と契約し、材料と希望するデザインの書かれた紙を元に、指先一つで完成品にするのだ。縫うのに便利な機械も、あるところにはあるらしいが、その数は極端に少なく、しかも高価だ。ジーナにはとても手がだせる代物ではなかった。
できあがった服を持っていけば、それと交換に、決められた報酬を受け取ることができる。時々は、ジーナ自身がデザインすることもあり、そんな時は、デザイン料も含めて、少し多めに報酬をもらった。
縫うのは、卵人のものもあれば、明らかに天使のものとわかるものもあった。天使の服は、布地もデザインも、卵人のものとはまるで違う。卵人のものよりも高い報酬を受け取れるが、少しでも気に入らないところがあれば、何度でもやり直しをさせられるし、やり直しにかかる費用は自分で負担しなければいけないので、難しい仕事だ。ジーナは、その難しい仕事を、殆どやり直しをすることなく仕上げることから、比較的高い評価をもらっていた。
今日もジーナは、昨夜仕上げたばかりの天使用の服を、大きな革張りの鞄にきれいに畳んで仕舞い、それを肩からたすき掛けにかけ、心許なくなってきた食料と生活用品を買いだしに行くことにしたのだ。
タラタを一人で残しておくのは、いつも心配だった。
訪ねてくるほど親しい者はいないはずだったが、万が一、誰かにタラタの姿を見られたらと思うと、気が気ではない。
多良太は、天使だ。こんな卵人専用のアパートメントに、いるはずがなかった。見つかれば、大きな騒ぎになるだろう。騒ぎになれば、それを聞きつけた天使に、タラタが連れていかれてしまうかもしれない。たとえ、その天使がタラタとなんの関わりもなかったとしても、卵人と天使が暮らすことを、天使が認めるとは思えなかった。
だからジーナは、くどいくらいに念を押した。
絶対に外に出てはいけないし、誰が来ても、ドアを開けてはいけないと。
タラタはいつも素直に頷き、今まで勝手に外に出てこともなければ、誰かが訪ねてきたこともない。
それでもやっぱり、心配だった。
ジーナは足早に道を歩き、今にも駆けだしたい気持ちを抑えた。急ぎ足で歩く姿でさえ、道行く人の注目を集めるのに、走りだしたら、もっと不審に思われるだろう。それで、変に好奇心を抱かれて、引き止められたり、質問されたり、付け回されるのはごめんだ。
契約している店に品物を届け、その場で報酬を受け取ったジーナは、二人分の食料を買いに、よく行く食料雑貨店へ向かっていた。
「エルシアの小さな光」という店名が、暗灰色の壁に、白いペンキで大きく記されている。右上がりの特徴的なその字は、店主のエルシアが自ら書いたのだと聞いた。
名前の通り、小さな店だ。ビルの一階を三区画に分け、その中の一番小さな区画が使われている。あとの二区画は、無人の廃墟だ。
それでも、陳列棚にはいつもきちんと商品が並べられていたし、種類も豊富だった。店の奥にある、細かいヒビで白く曇ったガラス扉がついた陳列棚だけは、いつも空っぽだったが、出しっぱなしの箱だとか、賞味期限がはるか昔に切れたような品物は一つもない。
店主のエルシアの方は、店名とは対照的に、がっしりした大柄な女だった。肩幅や二の腕は、そこらの男よりも逞しい。顔立ちもいかつい熊のようで、黙ってカウンターに座られていると、少々、近寄り難い。灰色の目で、ジロリと睨まれでもしたら、そそくさと逃げだしたくなるだろう。
だが、ゆるやかに波打つ暗褐色の髪は豊かで、艶やかだったし、そのたっぷりとしたはち切れんばかりの豊満な胸も、魅力的と思う者もいるだろう。
ジーナは、初めてこの店に立ち寄った時、なぜか一目で彼女のことを気に入った。なんとなく、安心するのだ。普段は寡黙だったが、こちらが話しかけると、意外なほど饒舌になる。そのお喋りを聞くのが、ジーナは好きだった。
何度も通う内、放っておいても、エルシアの方からあれこれと話してくるようになった。ああ見えて、人見知りが激しいのだろうと思うと、かわいい、とさえ思った。自分より、二十、三十は年上のようなのだが。
エルシアの店に通うようになって、かれこれ五年くらいになるだろうか。エルシアもすっかりジーナに気を許し、今日も入って行くなり、嬉しそうに笑って出迎えてくれた。エルシアが笑うと、急に少女のようにあどけなくなる感じがして、ジーナは彼女の笑顔が好きだった。
ジーナが商品を選んでいる間、エルシアは最新の噂話を次から次へと聞かせた。ジーナはそれに、時折相槌を打ち、簡単な意見を差し挟んだり、笑ったり嘆いたりした。鈍色の錆びたステンレスの駕籠に商品を山盛りにしてカウンターに置く頃には、噂話も駕籠から溢れんばかりだった。
商品の合計を計算している間も、エルシアは喋り通しだった。ジーナがさっき手に入れたばかりのお金を払うと、エルシアは少し口を噤み、じっくりとジーナを観察した後、言った。
「いい相手でもできたのかい?」
「えっ?」
唐突な言葉に、ジーナは目を瞠った。なにを言われたのか、咄嗟には理解できなかった。
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