ギシ、と軋む音がしたが、乗ってみると、意外に安定感がある。石ではないだろう。木製でもなさそうだ。
下りた先に明かりはなく、さっきいた空間の弱い電球の光が、三角形の天井の穴から差し込んでいるだけだ。広い部屋になっていると言っていたが、どれだけの大きさなのか、中になにがあるのかはわからない。
暗闇に溶けこんで、先に下りた二人の姿も見えないが、二人からは自分の姿が見えているのだろうと思った。天井から洩れる薄い光が、一度は取り戻した視界を失い、周囲の暗さに為す術なく立ち尽くす自分を頭上から照らしているはすだ。
「大丈夫だよ、そのまま前に五歩くらい進んで。段差の場所は教えてあげるから」
正面の暗闇からシスかニトの声が聞こえた。口調からして、シスの方だろう。
だが、ルーァはすぐにその言葉に従うことができなかった。なぜか、足がその場に張り付いたように動かないのだ。闇の中を歩くことに、今更ながら怖気づいたとでもいうのだろうか、と、ルーァは自分自身に首を傾げた。
「どうしたの? 俺の声がする方に歩いてくればいいんだよ」
怖いの? と、揶揄するように聞こえて、ルーァは一瞬、その通りだと答えそうになった。
わからない。少し前までいた瓦礫のトンネルも、ここと同じくらい暗かった。恐怖がなかったといえば嘘になるが、それでも、凍りついて動けなくなるほどではなかった。
ルーァは、後戻りはできないのだと無理矢理自分を奮いたたせ、鉛のように重い足を、一歩、踏みだした。
ギシ、とわずかにたわんで軋む足場に、ギクリとして立ち止まりそうになったが、そんな気持ちを押し殺して、今度は反対の足を前にだした。また同じように足場が軋んだが、もう驚きはしなかった。
「ね、ラギに会って、なにを知りたいの?」
歩きだしたルーァに、唐突に尋ねた声は、やけに機嫌が良さそうだ。
「彼が予見したという卵人の居場所が知りたいんだ」
今ここで、そんな質問をされるとは思っていなかったルーァは、思わず正直に答えていた。会話をしている方が、周囲の暗さも、締めつけられるような恐怖感も忘れていられる気がした。
ルーァは答えながら、ゆっくりと前に進んだ。
「知って、どうするの?」
「会いに行く」
「会って、それから?」
「私は、約束を……」
と、そこまで言って次に踏みだした足が、なにもない空間に吸い込まれそうになり、ルーァは慌てて足を引っこめ、体勢を整えた。
「ああ、ごめんね。そこが段差になってるから」
妙に平坦な謝罪が、すぐ先で聞こえた。危ないじゃないかと、ルーァ以外の者なら、文句の一つでも言っていたかもしれない。だが、ルーァは黙って首を振り、今度は慎重に、爪先で足場の終わりを探った。
ほんの数センチ先で、今いる足場はなくなっている。左右に少し足を滑らせてみたが、足の届く範囲は、全て同じようだ。穴の上で聞いた音からすると、シスとニトは、ここから飛び降りたのだろう。
「そこから飛び降りて。大丈夫、思ってるより高くないよ」
シスらしき声が励ます。
ルーァは、逡巡し、飛んではいけないと、頭の奥に響く警告の声に、一瞬、耳を傾けた。
この声は、暗闇に飛び降りることからくる、本能的な恐れが聞かせているのだろうか。それとも、無意識の内に、警戒すべきなにかを感じているのだろうか。
「すぐだよ。この部屋を出れば、明るいし、ラギもいるよ」
シスが更に促す。ニトは、店を出てから一度も話さないままだ。
足元は、光など微塵もない、濃密な暗闇。
天井から、かすかとはいえ光が洩れているのに、まるで、光を吸い込む黒い空ろがそこに広がっているようだ。飛び降りても、そこに床などなく、どこまでも落ちていく深い穴が穿たれているのではないだろうか。
そんな不安が、ルーァの足を縛りつけ、動かなくしている。
だが、ルーァは足に絡みついた鎖を、多良太とサキの面影を思い浮かべることで断ち切った。
(こんなところで、躊躇っている場合じゃない)
二人は、今もこの世界のどこかで、自分が見つけてくれるのを待っているのかもしれないのだから。
そしてルーァは、フワリ、と飛び降りた。
そこに、踏みしめるべきものは、なにも、なかった。
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声もなく、黒い穴の中に落ちていくルーァを、二人の天使が見つめていた。
ルーァの着ていたコートに風が絡んでたてる音は、鳥の羽ばたきに似ていた。羽ばたきの音が遠ざかり、なにかにぶつかり、崩れ、落ちていく音がする。ガラガラと重いものが落ちていくその音で、ルーァが下に叩きつけられた音は聞こえなかった。
「残念。最後の音が好きなのに」
部屋の中央に並んだ、スチール製の机でできた足場が、弱い光にぼんやりと浮かんで見えている。机は、二段重ねになっていた。一段目の机が二台並んだ真ん中に、二段目の机を載せるというように、交差しながら積み重ねられ、左右は下の机が出っ張った状態になっている。出っ張ったところからなら、昇り降りも危なくなくできそうだった。ただ、足場の前後は、机二段分の高さがあり、飛び降りるのはできても、よじ登るのは不便そうだ。
その、切りたった側の真下に、二メートルほどの四角い穴が穿たれ、その穴の縁に屈みこんで耳を澄ましていたシスは、膝から埃を払いながら立ち上がった。
「悲鳴もあげないんだもの。つまんない」
不服そうに唇を尖らせるシスの隣で、ニトが眉を顰めた。
「本当によかったのか?」
「なにが」
シスはニトを振り返り、不機嫌そうに睨みつけた。その話はしたくないのにと、その目が言っている。ニトは、鏡に映る影のような相貌を見返し、少し不安そうに言った。
「あいつが、ラギの言ってた奴だろ。ラギは、来たらすぐに会わせろって言ってたじゃないか」
「だから、なに?」
「だからなにって、ラギの言いつけを破ったことになるだろ」
シスは、腰に手を当て、呆れた、とため息をついた。眉をあげ、首を横に振り、少しわざとらしいくらいの仕草を交えて、ニトに語りかける。
「ニト、わかってる? あいつがもし、ほんとにラギの言う奴だったら、あいつをラギに会わせたら、俺達はみんな滅ぼされるんだよ。それがわかってて、どうしてわざわざ自分の首を絞める相手を、親切に案内しなきゃなんないの」
「だけどさ」
「だけど?」
「ラギにバレたらどうするんだよ」
「バレやしないよ。誰かさんが怖気づいて裏切らなきゃね」
「俺は、裏切らないよ!」
ニトは、心底心外だと目を見開いた。自分の相棒にそんな風に見られていたとしたら、かなりショックだ。
シスは、本気で驚いているニトに、とろけるような甘い微笑みを浮かべた。
「わかってるよ。ニトが裏切るなんて、思ってない。ねぇ、だったらどうして、そんなに心配することがあるの? 俺達は、俺達を殺そうとする相手を排除しただけだよ。……こういうの、古い言葉でなんていうんだっけ?」
「正当防衛」
「そうそう、それだよ。そうでしょ?」
「だけど、シス」
「なに? まだなにかあるの!?」
途端に苛立ち、シスは険しい表情を浮かべた。これ以上、下らない会話を続けるなら、相手が誰でも関係ない。同じように突き落としてやると言わんばかりの、斬りつけるような口調。
ニトは一瞬怯んだものの、すぐに気を取り直し、囁くように言った。
「ラギは、先予見だ。俺達のしたことも、どこかで予見してたかもしれないだろ」
シスは言葉を失った。そこまでは考えていなかった。だが、
「今更それを言ってどうなるっていうの? 知ってて止めなかったんなら、ラギだって同罪じゃない? 知らなかったんなら、これからだって知らないよ。先予見は未来しか見れないんだから」
この話はこれでお終いと、シスは片手でヒラヒラと追い払う仕草をして、ニトの言葉を封じ込める。
そして、深い地下世界へと続く黒い穴を迂回すると、机をよじ登り、天上にできた三角の穴から、さっさと外へ出て行ってしまった。
残されたニトは、暫くの間、ルーァが落ちていった穴を見つめ、耳を澄ませていた。
だが、聞こえてくるのは、瓦礫の通路を戻っていくシスのたてる物音だけ。
「先予見は未来しか見れない、か」
ポツリと呟き、ニトもまた、その穴に背を向けた。
あとには、静寂。
静寂と暗闇だけが残された。
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