壊れやすい天使 壊れやすい天使  
2章「訪れた天使」
 
 
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2-12


 入ってすぐに、両手両膝をつかなければ進めないような空洞を、右に二度、左に一度曲がることになり、ぼんやりしたニトの後姿さえ見えなくなった。ただ、音と気配だけを頼りに、ルーァは四つん這いの姿勢で暗闇を進んだ。
 手をついた地面は、ところどころに凹凸はあったが、意外に滑らかだった。このトンネルが使い込まれている証拠かもしれない。
 思っていたよりも進みやすかったが、こう狭くては、どうしても頭や肩が瓦礫の壁に擦れたり、ぶつかったりしてしまう。一度、かなり強く肩をぶつけ、ルーァは痛みと崩落の恐れに、息を詰めた。
 幸い、パラパラと細かい破片の落ちる音がしただけで、それ以上崩れることはなかったが、真っ黒なトンネルの奥から、シスの声が聞こえた。
「気をつけて。少しぐらいなら触っても平気だけど、強く押したり、寄りかかったりしないでね。崩れてきたら、俺達みんな生き埋めだよ」  
 シスの声は、反響して、ルーァの神経をチリチリと逆立てた。どこからも聞こえてくるような、こんな声は好きじゃない。
「わかった」
 囁くように応え、ルーァは更に頭を低く、できる限り体を縮こまらせた。
 トンネル内の空気はひんやりとして冷たく、埃っぽかった。だが、空気は冷えているのに、目に見えない瓦礫の圧迫感で、蒸し暑いような息苦しささえ感じる。体の芯は、凍りつくように冷たかった。拳大の氷の塊が腹の中にあって、流れる血液を冷やしているような気がした。氷の塊の名前は、恐怖、かもしれない。
 狭くて低いトンネルは、曲がりくねり、途中で幾つもの岐路があった。その度に、上下左右を示す声が聞こえ、ルーァは声に導かれるまま、瓦礫の迷路の奥深くへ入り込んでいった。
 既に、どこをどうきたのかわからなくなっていた。ここでふいに放りだされたら、一人で無事に抜けだす自信はない。
 もし、それが目的だったら?  
 誰か他人のもののように、自分の声が頭の中で囁く。
 この迷路に誘い込み、瓦礫の下敷きにするのが狙いだったら?
 ルーァは、体の中の氷の塊が、生き物のように蠢いて、肥大化するのを感じた。
 多少の危険も徒労も覚悟の上だが、ここで命を落とすわけにはいかない。こんなところで、約束も果たせず、無駄死になど。
 そこまで考えて、いや、と思い直した。
 そもそも、こんな回りくどいやり方で自分一人殺すような理由がない。これだけの複雑な迷路を作ったのが、この小さな天使二人だけとは思えない。暗くてその新旧まではわからないが、相当大掛かりな代物だ。そんな場所にわざわざ連れ込まなくても、他にいくらでも方法はあるだろう。 それなら、やはりこの迷路の先に、尋ね人がいるのだろうか。
「もうすぐだよ」  
 シスの声が聞こえた。  
 その言葉に物思いから引きずりだされたルーァは、目の前に、ぼんやりと人影が浮かびあがっているのに気づいた。
 ルーァと違い、暗くて狭いトンネルの中でも、慣れた様子で楽々と前に進んでいるようだ。体が小さい分、この狭さも苦にならないのかもしれない。
 小振りな臀部をかろうじて覆っている牡丹色のワンピースも、暗がりの中では、澱んだ沼の底のような色をしている。肉付きの薄い両足が機械のように動いて、確実に前へと体を運んでいた。  
 さきほどまでは、なにも見えなかった。この光一つない暗闇にさえ、目は慣れるのだろうか。
(違う。光だ)  
 弱い、ほんのかすかな光だったが、暗闇の中を歩いてきた目には大きなものだった。トンネルの先に、白っぽい光の点る場所があるのだ。  
 光は、近づくにつれ強さを増し、辺りの輪郭をくっきりと浮かびあがらせた。  
 ぽっかりと開けた空間に、剥きだしの電球が一つ、コンクリートから突きでた鉄骨に黒いコードでぶら下がっている。電球の光は暗く、時折、瞬きするように点滅していたが、それでも暗闇に慣れた目には眩しく、ルーァは目を眇めて電球から顔を背けた。
 電球に繋がれた黒いコードは、床にできた黒い穴の中に吸い込まれていた。尖った破片のような形の穴だ。一番広いところは、六十センチくらいありそうだ。穴は、あらかじめあいていたわけではないのだろう。破片の形の三つの先端から、大小の亀裂が走り、そこに加えられた無理な力を物語っていた。
 その空間は、今まで通ってきたトンネル内よりは広く、シスとニト、そしてルーァが入ってもまだ少し余裕があったが、相変わらず天井は低い。立ち上がって腰を伸ばすことはできそうになかった。  
 シスは、穴の奥まで這い進むと、内股に膝を折って、ペッタリと座った。あんな座り方をするところを見ると、男性体ではないのかもしれない。ニトが、シスの隣まで行き、足首を両手で握って胡坐をかいた。  
 ルーァは、穴の手前で膝を立て、一方の足を寝かせた状態で座った。酷使した膝と手首がズキズキと痛む。無意識の内に左右の手首を交互に擦りながら、ルーァはまだ少し細めた眼でシスを見やった。
 ここが終点なのだろうか。瓦礫の迷路の奥にある、隠れ家のような空間。だが、ここには誰もいない。ルーァの探す相手も、それ以外の誰も。
 ルーァの目に浮かぶ、問いかけるような色を見たのだろうか。シスはちょっと頷き、それから、床にできた穴を指差した。
「少し狭いけど、あなたならなんとか入れるかな」
「まさか、この隙間から入るのか?」
「他に入口はないんだ。下は広い部屋になってるけど、真下に足場があるから」  
 どうということもないように言って、シスは、穴の縁に手をかけた。
「俺が先に行くね。あとはどっちが先でもいいよ」  
 そう言うと、シスは返事も待たず、爪先を揃えて黒い穴の中に差し込むと、両手で縁を掴んだまま、スルリと体を滑り込ませた。
 あっという間に、少し微笑んだ顔が穴の中に吸い込まれ、最後に残っていた指先も、穴の中に飲み込まれていった。
 タン、と軽やかな音と、それに続くギシギシと軋む足音。もう一度、今度は少し鈍いドン、という音がして、穴の中からシスの声が聞こえた。
「いいよ、続いて」  
 ルーァはまだ、この状況を完全に受け入れることができていないようだ。困惑がその表情に表れている。  
 ニトは、そんなルーァをチラリと一瞥すると、黙ってシスと同じように、穴の中に爪先から吸い込まれていった。一瞬、群青色の目の中に、憐れむような光を見たような気がしたのは、気のせいだったのだろうか。
 それを確かめる術もなく、先ほどと同じような音が聞こえ、シスが穴の中からルーァを促した。
「あなたの番だよ」
 ルーァは、魅入られたように見つめていた、二人が消えた穴から顔をあげ、ゆっくりと辺りを見回した。
 ここは一体、なんなのだろう。
 明らかに人為的に作られた空間。ここに通じる瓦礫の迷路もそうだが、いつ、誰が、なんのためにこんな場所を作り上げたのだろう。
 そして二人が消えた床の穴。あれだけは、意図してあけたというより、偶然あいてしまったように見える。そして、あいてしまった穴を隠すために、この空間を含めて、瓦礫の山全体を作り上げたようだ。
(なぜ、そうまでして隠す必要があったんだ?)
 あの穴の中に、なにがあるというのだろう。
「ねぇ、来ないの?」
 おそらく、シスだろう。かすかに焦燥を滲ませた声が届く。
(なにがあるのかなど、行ってみればわかることだ)
 ルーァは手をついて、穴の縁まで這い進むと、通路の中で擦れて白く汚れた黒いブーツの足を穴の中に差し入れた。膝まで入っても、足に触れるものはなにもなかった。足場というのは、もう少し低い位置にあるのだろう。
 長い灰色のコートが引っ掛からないように、手繰り寄せて体に巻きつける。それから、シスやニトと同様に、穴の縁を両手で掴んで、穴の中に体を捩込んだ。二人よりも体格のいいルーァは、滑り込むというより、まさしく捩込むといった感じだ。だが、肩が通り抜ける時にわずかに擦れたものの、途中でつかえることはなかった。
 ルーァが、爪先に固いなにかを感じたのは、指がまだ穴の縁にかかっている時だった。それが足場だろうと思ったルーァは、手を離し、足先に触れているものに全ての体重を乗せた。






   
         
 
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