壊れやすい天使 壊れやすい天使  
2章「訪れた天使」
 
 
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2-10


「メイア、本気で言ってるの? あなただって、地天使が羽を出すのと同じくらい痛いんだよ」
 驚いて口を挟んだティルを振り向き、フィムは、斬りつけるように言った。なにかと懸念を口にしては邪魔をするティルが、煩わしかった。
「余計なこと言うなら、あんたが飛んでよ。あんたが飛べるなら、だけど」  
 狩人の塔の燃え落ちた日、路上に倒れたティルの翼は折れていた。おそらく、今この時、その背中に羽がないのなら、あの片翼は切り落とすかどうかしたのだろう。ということは、元は天上に住んでいたティルも、今は再び空を飛ぶことは不可能なはず。  
 フィムの言葉に、ティルはたじろぎ、青ざめた顔で口を噤んだ。フィムは、悪意に満ちた笑みを浮かべ、再びメイアに向き直った。
「さっきの、ほんとだね? 僕が羽をだしたら、それがもし、空を飛ぶのに使えなかったら、あんたが僕を上まで連れてってくれるんだね?」  
 約束を違えたら、腰の弓で射殺してやるといわんばかりの、殺意のゆらめく視線に、メイアはゾクリとふるえ、下腹部に痺れるような熱が広がるのを感じた。陽に焼けた肌をかすかに紅潮させ、メイアは頷いた。
「もう一つ、キミが条件を呑んでくれるんなら、いいよ」
「条件? どんな条件?」
「それは後でもいいでしょ。キミが羽を出してみて、それで飛べるんなら、それでいいんだから」
 メイアはぞんざいに言い捨て、それ以上の質問に答える気はなさそうだった。背もたれに体を預けて腕を組み、メイアは、「どうするの?」と、視線だけでフィムに問いかける。  
 条件というのがなんなのか、確かに気にはなったが、天上の都市に行くためなら、どんな条件でも呑んでみせる。それなら、今聞こうと後で聞こうと、同じことかもしれない。  
 フィムは頷き、もう一度、背中に力を込めた。
「うっ」  
 先ほど同じ鋭い痛みに、思わず声が漏れる。
 ティルは、もうなにも言わないことにしたようだ。フィムに言われたように立ち去りはしなかったが、眉間に皺を寄せ、顔を背けた。  
 メイアは嬉しそうに目を細め、
「羽をだすなら、その服、脱いだ方がいいんじゃない? 破れちゃうから」  
 歌うように上機嫌な声で促した。  
 出鼻を挫かれ、フィムは思わずムッとしたようにメイアを見やったが、メイアの助言は無視することにしたようだ。
 破けたら、捨てればいい。ロウダの部屋から持ち帰った服は、今のフィムなら着られそうなものが多かった。その服を手に入れる前なら、数少ない黒い服を惜しんだかもしれないが、今なら、一枚や二枚、駄目になったところで気にするほどのこともない。それに、メイアの言葉に素直に従うのは、少し嫌だった。  
 メイアは、フィムが自分の助言を聞き流し、そのまま背中に力を込めるのを見て、かすかに落胆した表情を浮かべた。
 できることなら、フィムの白い肌を食い破る黒い翼を、邪魔な服なしに観察したかった。だが、それが叶わないのなら、背中ではなく、苦痛に歪むフィムの顔を間近に見られる位置にいることを、喜ぶことにした。  
 尖った切っ先が二本、背中に付きたてられている。こんな痛みは、大嫌いだった。
 痛いのも苦しいのも大嫌いだと、キリカはフィムに止めを刺してもらうことを望んだ。それで全部消してしまうことを望んだ。逃げだしてしまえるのなら、消し去ってお終いにできるのなら、フィムだってそうしたかった。だが、
(逃げるなんて、できないよ。やっぱりやめたなんて、言えるわけないじゃない)  
 フィムにとって、生きる意味は、もはや一つしか残っていない。ここで、痛さに全てを諦めたら、あとはもう、自分の存在自体を諦めるしかない。
 一時はそれもいいと思っていたが、今は駄目だ。未練。心残り。今は、無理だ。  
 だからフィムは、息をとめ、目を瞑り、痛みの中心に全ての力を込めた。  
 メリッ  
 軋み、裂ける音が室内に響き、その音の不快さに、ティルは両手で耳を塞いだ。メイアは、エナメルのボンテージを軋らせて、上気した頬でフィムを見上げた。フィムは、こめかみから頬を伝い、顎の先から滴る汗をかすかに意識しながら、ただ、悲鳴をあげずにいるのが精一杯だった。
 もう、やめてしまいたい。こんな痛みなんて、耐えられない。
 背中に生まれた痛みの塊に、ひんやりとした空気が触れるのを感じた。
 だが、ここでやめたら、この痛みにずっとつき纏われることになるのだろう。ここまできたなら、最後までやるしかない。背中の痛みを、全部絞りだすしかない。  
 フィムは跪き、両手を床につけて四つん這いの姿勢になると、更に力を込めた。  
 メリ、メリッ  
 堪えていたはずの悲鳴が、細く洩れだすのを止めることができなかった。重く、濡れた音が聞こえた。  
 世界は、真っ赤だった。  
 燃え盛る炎にジリジリと頭を焼かれ、光一つない暗闇が、天から降りてくる。  
 耳許で、誰かが激しくドアを叩いているような気がした。  
 そして暗闇。
 音もなく、なにもない暗闇が、フィムを包みこんだ。


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  先予見の天使セラに、サキと多良太に関わる予見をした天使の居場所を聞いたルーァは、その足ですぐに、青いビルを目指した。
 青いビルを見つけるのはたやすかった。それは、長い年月に褪せ、くすんだ色へと変わっていたが、石壁一面に塗り込められた青い塗料は、灰色のビルの群れの中、幻のような違和感と共にそこにあった。
 そしてその隣に、三階から上が削りとられた白灰色のビルがあった。
 一階の壁には、ガラスのない窓が船窓のように並んでいる。丸窓のついた両開きのドアが中心にあり、黒く塗りつぶされた鉄製の看板が、ドアの上部にボルトで留められていた。青いビルの反対側は、巨大な手で上から押し潰されたように、鉄骨やコンクリートの残骸が積み重なる、瓦礫の山だ。それなら、セラの言う、隣の店というのは、丸窓のドアの先にあるのだろう。
 ルーァは、ひび割れた道路を渡って、白灰色のビルに向かった。
 そして、立ち止まることも、ためらうこともなく、右手で右の扉を押し開け、中へ入った。
 入ってきたルーァに気付いた天使達から、さざ波のような好奇のざわめきが起こる。この場所に、金色の天使以外が姿を見せることなどないのだろう。
 ルーァは、ざわめきも視線も無視して、店内をグルリと見渡した。
 ここも、店とは名ばかりの、なにを売るでもなく、天使達の集うだけの場所のようだった。先ほどの店と同じように、ここにいる金色の天使達は、それぞれに色鮮やかな衣を身に纏い、暗い色はどこにもなかった。降り注ぐ色彩に、眩暈すら覚えそうだ。
 ルーァは、色彩の海の中に浮かぶ、白い姿を探した。先予見と呼ばれる天使は、白一色を身につけていると、少し前に聞いていたからだ。それは、自分の暗い色ほどは目立たないかもしれないが、それでも、千紫万紅の天使達の中なら、きっとすぐにわかるはず。  
 と、その時、ドアのすぐ傍に立ったまま店の中を見回すルーァの前に、二つの小さな影が立ち塞がった。
 金色の天使達は、最年長の者でもたかだか二十年しか生きていないが、その二人の天使達は、中でも際だって若く、生まれて一年にも満たないように思えた。その姿が、天上の黒い都市の外れにあった、あの卵の集積場で、自分と多良太とサキ……その時はリフェールと呼んでいたが……三人で過ごした、幸福だったわずかな期間の多良太の姿に重なり、懐かしさに、ルーァの胸が、チクリと痛んだ。
 そして二人は、とてもよく似ていた。背格好も、面立ちも、気味が悪いほどよく似ている。亜麻色の髪も、群青色の瞳も、そっくりだった。違うのは、一人は背中の大きく開いた牡丹色のワンピースを着ていて、もう一人は、ピーコックブルーのショートパンツにサフランイエローのシャツを着ていることぐらいだ。もしかしたら、性別も違うのかもしれないが、その差が明らかにわかるほど成長していなかった。
「お前、卵人なのか?」
 唐突に、ぞんざいな口調でショートパンツの天使が尋ね、それにかぶせるように、ワンピースの天使が甘ったるい声で問う。
「あなた、天使なの?」
 ルーァは、二人の小さな天使を見下ろし、戸惑いながらも静かに答えた。
「天使だ」
「その眼はなんだ?」
「私達みたいな眼の色だね」
 重なり合うように喋る二人を交互に見やり、ルーァは頷いた。
「そうだな。生まれつきなんだ」
「出来損ないか」
 悪意に満ちた口調でショートパンツの天使が言い、甘えるようにもう一人の天使が言う。
「すごくキレイだね」
 言葉を交わすにつれ、戸惑いは困惑に変わり、ルーァは、声を失った。頭が混乱して、なにをどう言えばいいのかわからない。
 同じ顔で、別々のことを重なり合って喋る。小さな二人の天使を、ルーァは黙って見つめ返した。






   
         
 
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