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2章「訪れた天使」
 
 
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2-9


 だが、言葉を交わしたことはないし、相手は自分のことを知らないだろう。こちらが一方的に見知っていたというだけのことだ。  
 やわらかく、優しげな顔立ちとその体つきは未完成で、卵人でいえば、フィム自身より一つか二つ、年下に見える。十五、六というところか。子犬のような大きな目が、特徴的だった。  
 初めて見たのは、水晶の柱のような黒いオベリスクとそれを囲む花壇のある広場だった。花壇には石塊が散乱し、その隙間を縫って雑草が生い茂っていた。  
 その広場でこの小柄な天使は、対照的に、背の高い一人の天使と話していた。その光景を見たのが、三度。  
 そして最後に見たのは、燃え盛る狩人の塔の前。片翼を折られた姿で、路上に倒れていた。一度は殺すことも考えた、この天使の名前を、フィムは知らなかった。
「とめないでよ、ティル。せっかく面白くなってきたのに」  
 メイアが迷惑そうに言うのに、天上ではティファイリエル、今はティル・施翠(シスイ)と呼ばれる天使は、咎めるように顔を顰めた。
「面白くなんかないよ。悪趣味だよ、こんなの」
「悪趣味で悪かったね。だけど、このボクちゃんが望んだんだよ。空を飛んで、雲の上まで行きたいんだってさ」  
 フィムは、メイアを振り返り、そしてまたティルに向き直った。メイアはニヤニヤと薄い笑いを張りつけ、ティルは眉間に皺を寄せて、そんなメイアを睨みつけている。自分を挟んで交わされる会話に、フィムだけが置き去りにされているようだった。
「そんなの無理だよ。見たところ、生粋の地天使みたいだもの」
「地天使だって、背中に羽はあるんだよ。知らないの?」
「知ってるけど、メイアこそ知らないの? 地天使の羽は、空を飛べないんだよ」
「誰がそんなこと決めたわけ?」  
 腹立ちの滲む声での問いかけに、ティルは宥めるように口調をやわらげた。
「決めたわけじゃないけど、それを見たって言ってたよ。地天使の羽は……制御できない、ただの異物だって」
「誰よ、それ。そいつの言ってることが本当だって、証拠はないんでしょ」
「証拠はないよ。でも、僕はそれが本当だと思う。あの時の顔っていうか、目つきは、嘘をついてるようには見えなかったから」
「だから、誰なの、それ」  
 ティルは言い淀み、メイアの顔色を窺うように、ポツリとその名を吐きだした。
「ルーダ」  
 途端、メイアと、そしてフィムの顔に、衝撃が走った。凍りついた二人に、ティルは不思議そうにフィムを見やった。
「あなたも、知ってるの?」  
 メイアがショックを受ける理由は知っていた。だが、見知らぬこの地天使までも、同じようにショックを受けるのはなぜだろうと、ティルは首を傾げた。単に、名前を知っているとか、少しくらいの知り合いというレベルじゃない驚き方だ。  
 ティルは、改めてフィムを見つめ、黒づくめの姿と、腰に下げた黒檀の弓に、初めて思い当った。
「ああ、あなたも狩人だったの」  
 フィムは、まばたきもせずにティルを見つめた。  
 知っているのか。知っている。狩人だったのか。狩人だった。自分も、ルーダも。だが、地上に生まれた天使の羽について、ルーダがなにか言っていたことなどあっただろうか。  
 ふと、白い背中に刻まれた、細長い二つの傷痕が脳裏に浮かんだ。あれは、誰の? まるで、その傷跡をわざと見せつけるように晒していたのは、誰だったろう。
(……シェラだ)  
 ズキン、と胸に重い痛みが突き刺さり、フィムは、耐えきれずに目を閉じた。
(シェラだ。またあの女。いつもあの女。ルーダが口にするのは、いつもあの女のことばかりだ。ルーダのことが話題になると、いつもあの女の名前が纏わりついてる)  
 二人は抱き合って死んでいた。二人は一つになって、空へと昇った。シェラが背中に傷を負って戻ってきた時、シェラに応急処置を施して抱えてきたのはルーダだった。
(あの傷は、自分の羽をだそうとして失敗した痕だったんだ)  
 シェラはその傷の理由について、頑なに口を閉ざしていたし、ルーダもなにも語ろうとしなかった。それが、一度もだしたことのない羽をだしたからだったなんて、おそらく、二人の他に誰も知らなかったのだろう。  
 二人。  
 ルーダとシェラを合わせて考えて、またその考えに胸を刺され、フィムは目を閉じたまま、痛みを堪えるように顔を顰めた。  
 と、その表情を誤解したのか、ティルが少し慌てたように言った。
「だから、駄目だよ。羽なんて、だそうとしない方がいいよ」  
 フィムは目を開けて、困ったように眉をひそめるティルを見やった。 羽をだそうとしたわけじゃない。そう言いかけて、ふと思い直した。  
 シェラは失敗した。なにが原因なのかわからないが、シェラの背中からは、空を飛ぶ翼は現れなかった。  
 それなら、もし自分が、シェラと同じ地上生まれの自分が、自分の背中の羽で空を飛んだら、それはシェラに勝った、ということだろうか。自分の背中に翼があるのを見たら、シェラはどれだけ悔しがるだろう。
(きっと、すごく悔しがるよね。プライドばっかり高いあの女のことだもの。すごくすごく、悔しがるはず)  
 その悔しがる顔を見たら、すごく気持ちがいいに違いない。羽をだす痛みと引き換えにしても、惜しくないほど気持ちいいだろう。
「ねぇ、やめなよ? 地天使の羽は、使い物にならないって言ってたよ」  
 ルーダが。  
 そう言っていたのがルーダなら、うまくいけば、ルーダさえも驚かせることができるだろう。少しは見直してくれるかもしれない。  
 例え、いくらルーダの言葉が真実だとしても、それはあくまでのシェラ一人のことだ。他の全ての地上生まれの天使が、羽をだすことも、飛ぶこともできないという証拠にはならない。  
 黙ったままのフィムが、胸の内でどんな決意を固めたのか、メイアにはわかったのだろうか。フィムの背中に加わった力を、微妙な筋肉の動きで察知したのだろうか。メイアの目に、貪欲な光がともった。
 そしてメイアは、咥内に湧きでた唾を、ゴクリと飲み下し、期待に満ちて、わずかに身を乗りだした。
「使い物にならないかどうか、試してみなきゃわかんないじゃない」  
 フィムが、作ったような平静な声で、挑戦的にティルを見返した。ティルの顔が、更に困惑を深める。
「気軽に試すには、リスクがありすぎると思うけどな」
「それで、あんたになにか迷惑かける? 関係ないでしょ、放っておいてよ」
「関係はないかもしれないけど、あんまりいい気分じゃないよ。痛がってるのを見るの、好きじゃないんだ」
「そんなの、見なきゃいいだけじゃない」
「そうだよ。キミは、さっさと出ていきなよ。アタシが見届けてあげるからさ。アタシは痛がってるのを見るの、嫌いじゃないから」  
 そう言って、メイアはクスクスと笑った。フィムは、メイアを振り返り、不愉快そうに眉をひそめる。
「あんたも出てってよ。見世物になる気はないよ」
「おや。確か、アタシがいたこの部屋に、キミが後から入ってきたんだと思ったけど?」
「ああ、そう。だったら、どこか別の場所で試すよ」  
 からかうようなメイアの口調が、腹立たしかった。フィムは、そう言い捨て、踵を返して部屋を出て行こうとした。と、メイアが座ったまま、言葉だけでそれを制した。
「まぁ、待ちなよ。キミ、仮にその羽が使い物になりそうになかったら、どうする気? 確か、さっきアタシに、飛んで連れてってくれって言ってたよね。ってことは、誰かに連れてってもらう以外、他に方法はないんでしょ」
「だから、なに? あんたが飛んでくれるの?」  
 どうせ断られるのだろうと思ったが、意に反して、メイアは薄く笑って言った。
「そうだねぇ。アタシだって、もう随分使ってないからね。今更、雲の上に帰る気もなかったし。だけど、キミが自分の羽を出すだけの覚悟を見せてくれるんなら、連れてってやってもいいよ」






   
         
 
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