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ロウダを殺し、空を泳ぐ飛行船が、今はもう失われたことを知ったフィムは、その背中の翼で、自分を天上へと連れて行ってくれる相手を探すことに、最後の望みをかけた。
空を飛んだことのある下天使を見つけても、再び空を飛ぶことを承知してくれる可能性は低いし、承諾したとしても、それで本当に、無事に天上の都市へ運んでくれるかは、もはや賭けだ。
あの雲の間際まで連れて行き、そこで掴んだ手を離されるかもしれない。そもそも、自分を抱えて飛び立つことができるのか、それさえもわからない。
考えれば考えるほど、不安ばかりが膨らんでいくから、フィムは考えることをやめた。
ただ思い悩むばかりでは、時間の無駄だ。まずは、今も飛べる下天使を見つけること。全てはそこからだ。
そう決めて、絶望に飲み込まれそうだった気持ちを奮い立たせ、フィムは探した。
だが、先日までのように、個別に部屋を訪ねることはやめていた。いずれまた、それしか方法がなくなれば別だが、ロウダの時のような面倒は、できれば避けたい。それに、一人部屋に閉じ籠もっている者より、外で他人と関わる気力がまだある者の方が、交渉もスムーズにいくような気がする。
フィムは、黒い天使達が隠れ住む八階建てのビルの、一階にあるロビーになった広い玄関ホールと、開放された、三つの大きめの個室。それらを巡り歩いて、そこで他の天使達と話している者の中から、目的の相手を見つけることにした。
そうして、五日目には、およそ三十人の天使と話をすることができた。だが、その中に、下天使はわずか五人。いずれも、羽をだした日の記憶も遠く、再びだす気はないと言った。
フィムは、無理強いしたところで、無事に天上の都市に送り届けてくれる可能性は低いと思い、一先ずは、ひいた。
それでも、その天使達の名前と顔は、覚えておくことにした。今は駄目でも、何度か会い、会話し、相手が同じ趣味なら、自分の体を与えてでも懐柔すれば、いつかは承知してくれるかもしれない。
五日目の午後。
一階に現れる天使の大半は、一度は顔を見たことのある相手になっていたが、その時フィムが見た天使は、五日目にして、初めて見る顔だった。
開け放たれた個室の一つに、その天使はいた。
メタリックブルーのエナメルのボンテージに身を包み、首に銀色の鎖を巻きつけた、天使。背中が編み上げになったホルターネックが、一瞬、男天使かと思うほどの薄い胸を包み、深いセンタースリットの入ったタイトスカートを履いている。腰骨にひっかかっているのは、細い鎖。銀のリングのついた、黒い手枷をはめ、足には、編上げのブーツを履いている。背は高く、かなりの細身だ。髪は、トップにレイヤーの入ったショートボブ。意志の強そうな眉と上がり気味の目、高い鼻梁。薄い唇は、なにかを耐えているかのように、引き結ばれていた。卵人でいえば、二十歳前後くらいに見える。肌の色は、地上生まれには有り得ない、琥珀色。
その肌の色を見たフィムは、相手を撥ねつけるような雰囲気を纏ったその女天使、メイア・偲銀(シギン)に、思い切って声をかけた。ほんの一瞬、腰の弓に左手が触れ、それを握りしめたい気持ちを、必死に押し殺した。
「あんたは、下天使だよね」
「それがキミになにか関係ある? そもそも、それが今更なんだっていうの」
突き放すような見た目と口調に反して、その声音は、甘くやわらかい。フィムは、珍しく誰もいない個室の中央で、入口を向いたまま立っているメイアに、一歩、近づいた。
「関係があるから聞いたんだよ。あんたは、まだ飛べるの?」
フィムの問いに、メイアは訝しげな表情を浮かべた。
「それが、なに?」
「飛べるの?」
重ねて尋ねたフィムに、メイアの目が、からかうような色に光った。
「飛べたら、どうするの」
「僕を連れて、天上まで飛んでいってよ」
遠回しに言うよりも、ストレートに言った方がいいような気がした。いつもはもう少し、相手の出方を窺ってから、婉曲に尋ねることの方が多い。なぜ今日に限って、こんな言い方をしてしまったのか、フィムにもよくわからなかった。
メイアは、突然フィムに背を向け、部屋の奥にある、鉄錆色のソファに歩み寄ると、ドサリと勢いよく腰をおろし、黒いブーツを履いた足を組んだ。太股のつけ根スレスレのタイトスカートがめくれあがって、ギチギチと音をたてた。
そしてメイアは、試すような目で、フィムを見上げた。
「キミも天使なら、自分の羽で飛べばいいじゃない」
「……そんなの、どうやって出せばいいのかわからないよ」
確かに、自分にも羽はある。だが、一度もそれを試みたことはなかった。地上に生まれた天使にとって、羽など、あると言われているだけで、本当にあるのかどうかさえわからない、ただの概念みたいなものだ。出し方も、飛び方も、まるでわからない。
「やってもみないで諦めるんだ? だったら、上に行くことも諦めたら?」
「お前はそうだろうな。けど、男のままならこの先も俺はお前を仲間以外の目では見ないぜ。俺のこと好きだっつっても、女にはなれない程度でしかないんなら、俺のことは諦めて、他に相手を探せよ」
あの日のルーダの言葉が胸で弾け、フィムは、突然の痛みにたじろいだ。
そんなフィムを、メイアは黙って見つめていた。表情は平静だが、艶やかな夜のように、黒い瞳だけがギラギラと輝いていた。
「ぼくは……」
声にだすつもりはなかったのか、フィムは、掠れた自分自身の声に、ギクリとしたように目を見開き、辺りを素早く見回した。メイアは相変わらず、目だけを光らせて、声音は静かに先を促した。
「キミは、なに?」
フィムは一瞬、泣きだしそうな顔をした。
できっこないと、退けることはできる。あの日、ルーダの言葉を退けたように。だが、これは、自分にもできると考えたことすらなかったが、できるものなら、そうしたいことだった。
自分の翼で空を飛べるなら、そうだ、今すぐに、暗い空を飛んで、あの厚くたれこめた雲を突き抜け、ルーダとシェラがいるという、天上の都市に行ける。そこに行って、結果を見届けるまでは、シェラがルーダに捨てられる瞬間を見るまでは、決して諦めるわけにはいかない。
フィムは、強い決意を込めた眼差しで、メイアのギラギラした目を見返した。
「ぼくは諦めない。絶対に」
「そう?」
「ぼくは絶対、上に行くんだ」
暗くて強い瞳で、フィムは、翼のあるはずの背中に意識を集中し、力を込めた。
「あっ!」
途端、ズキン、と痛みが背中を貫き、思わず怯んだ。
胸を刺す、言葉や記憶の痛みとは違う、実質的なリアルを伴う痛みに、横っ面を張られたように、フィムは目を見開いた。
夢から醒めたような想いで、肩越しに自分の背中を振り向いた。こんな痛みが、羽をだそうと少し力を加えただけで生まれることが、不思議でならなかった。
「どうしたの? 痛いから、ボクちゃんはやめちゃうの?」
小馬鹿にしたような声が、茫然と動きを止めたフィムの耳に届いた。
反射的に振り返って睨みつけた。メイアは、口元を笑みの形に歪めていたが、それはまるで、笑っているようには見えなかった。
「そんなこと言ってない!」
声を張り上げ、もう一度背中に力を込めようとしたフィムは、その背中にかかった声に、勢いよく振り返った。
「やめなよ、そんな馬鹿なこと」
振り返った先にいた天使を、フィムは知っていた。
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