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2章「訪れた天使」
 
 
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2-5


 在りし日の記憶を抱き、枯れ果てた噴水の縁石に腰かけていたルーァは、薄暗い地上の都市に、更に暗い夜の迫るのを感じ、ふと、空を見上げた。  
 世界を覆う、暗灰色の雲の天蓋。この暗い世界で、あの日、光を見つけた。  
 もう一度、見つけることができるだろうか。  
 いや、できるだろうか、では意味がない。見つけるのだ。必ず。そうしなければ、今、自分がここに生きている意味などない。  
 ルーァは立ち上がり、朽ちかけた廃墟のビルとビルの隙間にある、細い路地に向かって歩きだした。その道は、都市の中心へ向かってのびているようだ。  
 と、路地裏の暗がりが、生き物のように蠢いたかに見え、ルーァは思わず足を止めた。  
 気のせいだろうかと自問する間もなく、暗闇がユラリと手を伸ばし、黒い塊になって、路地裏から湧きだした。黒い塊は、襤褸を纏った人型をしていた。くしゃくしゃの長い髪が顔の半分を覆い隠し、表情も顔立ちもよくわからない。
「下りてきたのは、あんたかい?」  
 その声は、女のもののようだ。だが、薄汚れたその姿は、天使なのか、卵人なのかもわからなかった。ルーァは、わずかに首を傾げ、それでも丁寧に答えを返した。
「雲の上からと言うなら、そうだ」
「なら、上がどうなってるか、知ってるんだね」  
 女の声音に滲んだのは、希望か。焦慮か。  
 女は、ルーァへと歩みを進め、間近に迫って、ルーァを見上げる。近づいてみれば、汚れてはいるが、確かに天使の面立ちと雰囲気を持っているようだ。ふっくらとした唇と、猫のように吊りあがった大きな目が印象的だった。  
 だが、もしも彼女が天使なら、金色の天使ではなく、黒い天使を狂気に追いやる自分の呪われた瞳に射抜かれないのは何故だろう。二十年もの歳月が、邪眼の力を再び封じ込めたのだろうか。  
 周りには、もはや金色の天使しかいなかった。確かめる術などなかったが、呪われた力は、あの日だけのものだったのかもしれない。もしそうなら、地上の黒い天使達をも狂気に追いやるのを懸念して、地上に下りてサキを探すのを躊躇う必要はなかったのかもしれない。  
 天上にサキはいなかった。もっと早く地上に下りていたら、今頃はとっくに、サキと会えていただろうか。多良太は、自分の死後なら、心置きなくサキを探しに地上に行けるよねと言った。自分も、その言葉通りに地上に下りた。邪眼を気に病んだ躊躇いがその程度のものだったなら、確かに、もっと早くてもよかったのかもしれない。たとえ、天使になりたいと言っていたサキなら、地上ではなく天上に生まれるのではないかと思っていたとしても。
「詳しくはないが、多少なら」  
 大聖堂の一室から出ることは殆どなく、多良太の傍にいただけの年月。訪れる金色の天使達が多良太と交わす言葉の切れ端でしか、天上の都市の様子を知ろうとはしなかった。ごく稀に、自分の目で、もう一度確かめておきたいと感じた相手がいた時だけ、彷徨い歩いたが、冷たいガラスケースに閉じ込められた多良太のことを思うと、いくら多良太が大丈夫だと繰り返しても、長く傍を離れることはできなかった。  
 そう、多良太を残して地上に下りることができなかったのは、自分のその心弱さのせいだったのかもしれない。優しさなんかじゃない、ただの意志の弱さだ。
「なら」  
 その女天使は、ゴクリと息を呑み、逸る気持ちを抑えつけるように、自分の胸の辺りで、片手をぎゅっと握りしめた。  
 最初は、早々にこの場を立ち去ろうと考えていたが、女天使の切羽詰まった真剣な様子に、ルーァは少し居住まいを正し、彼女の言葉の続きに耳を傾けた。
「あんたは、雲の上で会ったことがあるかい? あんたやあたしのような、古い天使に」  
 ない。と、一蹴するのが憚れるような気迫だった。だが、ここで嘘をつくこともできない。ルーァはすまなそうに眉をひそめ、首を横に振った。
「残念だが」
「馬鹿言うんじゃないよっ」  
 途端、女天使は激昂し、自分の心臓を抑えていた手で、ルーァの胸倉を掴んだ。
「あたしは確かに見たんだ! あいつらが空に昇っていくのを、この目で見たんだよっ」  
 ルーァは、女天使が胸元を締め上げるのをそのままに、静かに言った。
「黒い天使が二人、二十年前に天上の都市を訪れたことは知っている。だが、彼らに直接会ったことはない」  
 ルーァが言い終えると、女天使の手から、フッと力が抜けたのがわかった。それでもまだ、掴んだ手は離さなかった。
「……じゃあ、いるんだね、やっぱり」
「そのようだ」
「そいつらがどうしてるのか、あんたは全然知らないのかい」
「彼らは、他の天使と関わることを拒絶した、と聞いた」
「他の天使?」
「金のたてがみを持つ、天使達だ。地上には、いないのか?」
「いるさ!」  
 女天使は吐き捨て、振り払うように手を離した。その手を広げ、廃墟の都市を体全体で指し示す。
「吐いて捨てるほど、あいつらで埋め尽くされちまってるよ! もう、あたしら古い天使達の居場所なんて、どこにもないさ。あんたも、地上に居場所を求めてきたんなら、気の毒なこったね」
 憎々しげに言う女天使を、ルーァは不思議そうに見返した。どうして、あの金色の天使達がこの世界に満ちるのを嫌うのだろうか。憎悪のこもった口調が、理解できなかった。彼らは諍いを嫌い、穏やかに生きている。思いやりに溢れた彼らがいくらその数を増そうと、古い天使達を放逐することなど考えられない。
「彼らが多く存在することが、そんなに悪いことなのか?」
 思わず尋ねたルーァに、女天使は、信じられないと目を見開いた。
「あんた、頭がおかしいのかい? あいつらは、あたしらをこの世界の暗闇に追いやって、嘲笑ってるんだよ!? あたしらの炎は、あいつらの忌々しいたてがみの一本も燃やすことはできやしないし、あたしらが自分達だけで小さくなってる間に、あいつらは次から次へと増え続けて、大きな顔して、この世界は自分達の物だとでもいうような態度で歩き回ってるんだ。それがいいことだなんて、あんた、本気で言ってんのかい!?」
 女天使の言う金色の天使達は、自分の知っている彼らとは違うのだろうか。古い、滅亡を定められた種族だということで、少し僻みや嫉みが含まれているのかもしれない。そう思ったが、ルーァは敢えて指摘しようとはしなかった。
「すまない。ただ……それはもう、自分達の手ではどうすることもできない話だろう?」  
 穏やかに謝罪するルーァに、女天使は表情を緩め、口元を歪めて、自嘲気味に笑った。
「その通りさね、確かに。わかっているさ」  
 とっくに、諦めたと思っていた。だが、心の奥底には、未だ燻り続けているものがあったのだろう。女天使は、少し前の怒りを恥じるように、わずかに肩を竦めた。  
 ルーァには、彼女の怒りも諦めもどこか遠いものだったが、地上に残された古い天使達には、これが共通の想いなのかもしれないと思った。そして、もし、そんな想いに少しでも希望を与えることができるのなら、と、天上で聞いた話を、彼女に伝えることにした。
「私が自分で見たわけではないが、他の天使から聞いた話でよければ、その二人のことを教えようか?」
「あいつらの口から聞かされたことなんて、信用ならないね。けど、参考にはなるだろうよ」  
 吐き捨てるような口ぶりでも、興味をひかれていることは確かなようだ。ルーァは、頷き、口を開いた。
「彼らが天上の都市に現れたのは、二十年前。一人はひどい怪我をして、意識がなかったそうだ」  
 それから、彼らは無人だった黒いミラーガラス張りの高層ビルに居を構え、自分達のことは放っておいてほしいと言った。金色の天使達は、彼らの言葉、といっても、あくまでも意識のある元気な方の言葉だったが、それを承諾し、その日からずっと、今も彼らの許を訪れることはなく、彼らもまた、外に出てこようとはしていない。あの日、意識のなかった一人の天使が、今も無事に生きているのかはわからないが、もう一人の天使は、時々開け放った窓から姿を見せることがあり、その姿は、とても楽しそうだということを、語った。  
 ルーァが、それがさっき、自分が下りてくる直前に聞いた話だと伝えて口を閉ざすと、女天使は、深い、やけに長い溜息を洩らした。
「もし、それが本当なら……あの二人が今も生きてて、二人きりで暮らしているんなら、やっぱりあの二人の間には、なにか特別なものがあったのかね」  
 呟いた声は小さく、それはおそらく、独り言だったのだろう。ルーァは、女天使の呟きには答えず、広場にも、路地裏と同じような暗闇が浸みだしてきたことを感じていた。






   
         
 
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