「形勢逆転、っていうんだよね」
足を投げだすように座ったまま、フィムが炎を矢につがえる。そして、ロウダが体勢を整える間もなく、炎の矢を放った。
埃っぽい部屋の空気を焦がし、切り裂くような音をたてて、炎の矢がロウダの右肩に突き刺さる。
「うわあぁぁっ」
ロウダは大袈裟なくらいの悲鳴を上げ、慌てて肩の炎を叩き消した。黒いシャツが燃え滓となって、そこだけぽっかりと穴が開く。中心にあいた傷口から、薄紅の血が滲みだし、やがて迸るのを、ロウダは左手で押さえつけた。
だが、すぐにその指の間からヌルヌルした血が流れだす。ロウダの血は、手の甲を伝い、手首から肘へと薄紅の筋を作り、肘の先からポタポタとたれ落ちた。ロウダは、痛みと驚愕に目を見開き、声もなく荒い呼吸を繰り返している。痛みを与えるのには慣れていても、自分が苦痛を受けることには、慣れていないのかもしれない。滑稽なほどに豹変したロウダを、フィムは鼻先で嘲った。
「死んでもいいんじゃなかったの? そのくらいの怪我、どうってことないでしょ?」
吐き捨てるように言ったフィムの右手には、またあらたな炎の種。ロウダはその小さな光点に、眼球がとびだしそうなくらい目を見張り、唇をわななかせた。
「や、やめろ。やめてくれ」
ルーダなら、きっと、このくらいのことじゃ動じないはずだ。あんな情けない顔で命乞いなんて、ルーダは絶対にしない。
無意識にルーダと引き比べて、フィムはまた、胸に痛みを覚えた。
「やめてあげてもいいけど、条件があるよ」
胸の痛みを吐きだし、忘れるように、フィムは少し大きな声をだした。自分の声で耳を塞ぎ、考えたくないことを、言葉で消し去ってしまいたい。
「じょ、条件?」
痛みのためか、恐怖のためか、ロウダは上ずった声で聞き返した。
「わかってるでしょ? 飛行船はどこにあるのさ」
「それは……」
ロウダは少し唇を湿らせ、不安そうに眉をひそめた。
「教えたら、その炎を消してくれるか?」
「最初の約束はなんだった? 僕が理由を教えたら、教える。そう言ったんじゃなかった?」
イライラした口調のフィムの炎が、瞬間的に大きく燃え上がる。ロウダは、慌ててガクガクと首を縦に振った。
「わかった。そうだ。もちろん。あ、ああ、だが、あれは……」
この期に及んで言い淀むロウダに、フィムは灼熱する炎を、漆黒の弓につがえた。
「や、やめてくれっ。あれは、あれはもう、ないんだ!」
「……今、なんて言ったの?」
「あの飛行船は、二十年前に、保管してあった倉庫と一緒に燃えたんだよ。だから、今はもう、ないんだ」
恐怖に見開いた目でフィムのつがえた炎の矢を見つめながら、ロウダはふるえる声で言った。肩口から流れる血は、今もロウダの腕を伝い続けている。
フィムは、蔑むようにロウダを見下ろし、これ見よがしの大きなため息をついた。
「そんな使えない情報だけで、僕を殺すとまで言ったの。呆れた」
そして、言葉の終わりと共に、素早く弓を引き絞り、放った。
ヒュッ
風を切り、炎の矢が、恐怖と驚愕に固まったままのロウダの額の真ん中に吸い込まれる。炎は額で火花を散らし、ロウダは仰向けに倒れこんだ。
ドッと響く重い音。糸の切れた人形のように崩折れる四肢。肉の焦げる臭い。炎が、花びらが散るように消え去ると、ロウダの額から薄紅の血が、プクリと膨れあがった。プルプルとゼリーのようにふるえ、トロトロと溶けるようにこぼれ落ちる。
フィムは、伸ばした足を折り曲げながら立ち上がり、腰のボウホルダーを手探った。弓の持ち手を止める革ベルトが千切れ、もう使い物になりそうになかった。今更ながら、それを千切ったロウダへの怒りが沸いたが、相手は最早、肉の塊。フィムは小さくため息をつくと、腰に回したボウホルダーを右手で外し、擦り切れたローソファの上に投げ捨てた。
新しい服とボウホルダーを、部屋に戻って取ってくるしかないだろう。ボタンを弾き飛ばされ、フィムの白い陶器のような肌が、半ば以上露わになったままだ。このまま外をウロつけば、余計な面倒を引き起こすだけだろう。
フィムは、今も体に開いた穴から血を流すロウダに一瞥をくれることもなく、開け放たれたドアをくぐって、廊下にでた。左手に狩人の弓を持って歩きながら、ふと、ロウダが捕獲者の赤ではなく、黒いシャツを身につけていたことを思いだす。
(もしかしたら、他にも持ってるかな)
自分の服は、二十年前から新しく手に入れたものはない。いくら成長が遅いとはいえ、さすがに最近は、少しキツく感じはじめていた。ロウダのサイズでは、自分にはまだ大きすぎるだろうが、デザインによっては、使えるものもあるかもしれない。
そう思いついたフィムは、左右に並ぶ閉ざされたドアを開けて、ロウダのクローゼットを探してみることにした。
立ち止まり、右のドアについた錆びた鈍色のノブを握り、ドアを押し開ける。途端、鼻先を馴染みのある香りがくすぐり、フィムはわずかに眉根を寄せた。
部屋の中に明かりはなく、ドアから差し込む薄明かりで、暗闇の中に切り込まれた光の中に、自分の影が長く伸びて見えた。ドア口から半歩入り、壁を探ってスイッチを探す。左手の壁に、スイッチを見つけ、フィムは指先でカチリと押した。
点かないかもしれないと思ったが、少し間を置いて、思い出したように灯りが瞬き、天井から白く鈍い光が室内を照らしだした。
(うわ、最悪)
フィムは、光に浮かび上がったその光景に顔を顰めた。
壁紙が剥がれ、コンクリートが剥きだしになったその部屋の床には、無数の白骨が転がっていた。白く、乾いた骨だ。肉や皮、髪の毛すらない、まっさらな骨ばかりだった。大きさからして、動物の骨とは思えない。天使か、卵人か、こうなってしまってはわからない。どこかで嗅いだ臭いと思ったのは、あれは、死の匂いだったのだと悟る。
(あいつが、殺したのかな)
先ほど自分が手にかけたばかりの、ロウダの狂気を含んだ瞳の色を思いだす。そして、おそらくそうなのだろうと思った。肉の切れ端さえ見当たらないのは、
(食べたのかもね)
そんな趣味も、二十年前にはなかったと思ったが、そこまで詳しく知っている間柄ではない。もしかしたら、あの頃からあったのかもしれない。基本的に、天使は食事を必要としない。水分も摂らなければ摂らないで生きていける。それなのに、あえて死体の、あるいは生きている体の肉を食らうカニバリズム嗜好の連中が、フィムにはまったく理解できなかった。
だが、今更ロウダを理解する気など毛頭ないし、ロウダに殺されたであろうこの被害者の骸に抱く感慨も持ち合わせていない。
フィムは、この部屋には用がないと、さっさとドアを閉めると、振り返り、もう一つのドアを開けた。
やはり暗かったその部屋の中で、目的のものを見つけたフィムは、何枚かの黒い服を探しだすと、左手に弓を持ったまま、両手で服の塊を抱え、ロウダの部屋を後にした。
階段を上りながら、フィムは泣きだしたいような気持ちと闘っていた。
飛行船は燃えた、とロウダは云った。
それなら、翼のない自分があの雲の上まで行くのに、飛行船に乗っていくという案は、完全に放棄しなければいけないということだ。もう一つの、今も空を飛べる天使を見つけだすという方法は、未だなんの手かがりもない。たとえ見つけだしたとしても、素直に運んでくれる可能性は、限りなくゼロに近い。
泣きだしたいような気持ちは、絶望を間近に感じているということなのかもしれない。
(でも、まだ無理と決まったわけじゃない)
腰に吊るしてはいなくても、あの頃と同じ黒い狩人の弓はまだこの手にある。あの頃に帰りたいと、そう思う時もあった。だが、戻ることなどできないことはわかっている。だから、進むしかないのなら、目指すのはやはり、あの暗灰色の雲の彼方だ。
フィムは、暗い階段を、足先で探るように上りながら、灰色の都市を覆う、厚い雲の天蓋を思った。
生まれた時からいつもそこにあった、重苦しい暗灰色の雲。その先にある空は、青いのだと、いつかルーダが言っていた。空は青く、雲は白いのだと。
その景色を見るのが、楽しみなような、怖いような、複雑な気分だった。
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