壊れやすい天使 壊れやすい天使  
2章「訪れた天使」
 
 
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2-3


「お前にとって、ルーダはそんなに特別か?」
 やけに真剣な顔で、ロウダが尋ねる。フィムは、咄嗟に首を横に振ったが、胸の奥に鋭い痛みが走るのを感じていた。
「そんなんじゃないよ。だけど……僕はあの女が嫌いだ。あの女が捨てられて無様に泣くところを見れたなら、僕に思い残すことはないよ」
「だったら、シェラがお前にとって特別ってことじゃないのか?」
「違う!」
 思わず声を張りあげ、フィムは怒りも露にロウダを睨みつけた。ロウダは、かるい、冷めた笑い声をあげる。
「そんなに怒るな。嫌いだって感情にも、特別なものがあるんじゃないかと思っただけだ」
「僕は……あの女が大嫌いだ。殺せるなら、僕が殺してた」
「なら、なんで殺さなかったんだ? お前は狩人だったんだろ。卵人も天使も、どちらを殺すにも躊躇いなんて必要ないだろ」
「躊躇いじゃない。僕があの女を殺してたら、あの女は……ルーダの、特別になるから。ルーダが手をだす前に、僕があの女を殺したら、ルーダにとって、本当に……」
 言葉の終わりが力なく消えていき、フィムは唇を噛み締めて目を伏せた。
「ルーダは、本当にお前の特別なんだな」
 ボソリと呟いた声に、思わず顔をあげると、ロウダが、やけに真剣な、それでいて暗い目で自分を見つめていた。
「俺にとっては、お前だ」
 ハッとして身を引きかけたフィムの両の手を、ロウダが上からがっしりと掴んだ。そのあまりに強い力に、フィムはたじろいだように顔を強張らせた。ロウダの手の中で、フィムの細い指が捻れて、痛みさえ覚える。
「痛いよ」
「痛いのは、生きている証だ」
「そんな証なんて必要ないよ。それが必要なのは、あなたじゃなかったの」
 冷めた物言いに怯みもせず、ロウダは口許を歪めて笑い、フィムの手を更に強く握り締めた。
「自分の痛みより、相手の痛みが、俺に実感させてくれるんだよ。誰も彼もが諦めてるようなこの時代に、まだ生きることを諦めていないお前なら、俺に感じさせてくれるだろ? 生き抜こうとする力を、俺にも分けてくれよ」
「飛行船はどこにあるの。それを教えてくれる約束でしょ」
 フィムは、必死にロウダの目を見返しながら、腰に下げた黒檀の弓を手に取る機会を探っていた。なんとかして、両手の自由を取り戻さなければ。そしてその機会が来た時に、迷うことなく相手を射抜くために、早く必要な情報を引きださなければ。
 握り締められたままの手が、じっとりと汗ばみ、痺れるような痛みを訴えている。この両手を潰されでもしたら、自分の身をどうやって守ればいいのだろう。
「教えたら、俺に感じさせてくれるのか?」
「そんな約束じゃなかったでしょ。僕がどうして死にたくないのか、その理由を教えたら、飛行船が今どこにあるのか教えるって話だったじゃない」
 ここで相手を怒らせたり、警戒させたりしてはまずいかもしれない。フィムは、痛みと焦りを堪えて、なるべく穏やかにそう切り返した。
「言葉だけじゃ、その理由が本当かどうかわからないだろ。お前の体で教えてくれよ」
 フィムの両手を握り締めたまま、その手をグイッと引き寄せる。華奢なフィムの体は、ローテーブルの上をズルリと滑って、ロウダの胸の中に飛び込んだ。それでもまだ、フィムの両手を離さないのは、ロウダも、フィムの手から生みだされる炎の矢を恐れているのかもしれない。
 ロウダの胸に顔を埋める体勢で、フィムはどうやってこの状況から逃れようかと思っていた。せめて呼吸が楽なようにと、首を捻って顔の向きを変えた時、ロウダの身につけている黒いシャツが目に留まった。それは、狩人の色。その色を見た途端、自分を引き寄せて迫る目の前の相手が、ルーダだったような錯覚に陥る。伝わる熱と鼓動が、催眠術のように、フィムの思考を麻痺させていく。
 フィムの強張った体から、フッと力が抜ける。胸の中で体重を預けてくるフィムの顔を、ロウダは少し戸惑いながら覗きこんだ。
 フィムは、目を閉じていた。すべてを観念したというよりも、なにか別の夢を見ているような表情に、ロウダは苛立った。こんな顔が見たいわけじゃない。もっと苦痛に歪んだ声を、顔を、降り注ぐ雨のようにこの身に受けたかった。
「抵抗しないのか?」
 わざと蔑むような口調で耳元に囁く。
 ピクリ、とフィムの瞼がふるえ、閉じていた目が開かれた。長い睫毛に、きらめく雫を見たと思ったのは、気のせいだっただろうか。
「……力では敵わないよ。抵抗してもしなくても、やることは同じでしょ?」
 やっぱり、彼はルーダじゃない。一瞬だけの夢に、フィムはそっとため息をついた。
「同じか。どうかな」
 そう言うと、ロウダはフィムの手を離し、いきなり、フィムの左頬を殴りつけた。
 ゴッ、鈍い音が頬骨を震わせ、フィムの小柄な体は吹っ飛んだ。上半身が黒いソファの上で跳ね返り、ダメージを多少は軽減してくれたが、殴られた衝撃で、頭がクラクラする。
 その眩暈が治まる前に、ロウダはフィムに飛びかかってきた。馬乗りになって、何度となくその頬を平手で叩く。バシ、バシ、と音がする度に、脳味噌が頭蓋の中で振動し、攪拌され、思考を奪っていく。右手でフィムを殴りつけながら、ロウダは左手でフィムの黒いシャツを毟りとった。艶のある小さなボタンが弾け飛び、ひび割れたフローリングの床で、パラパラと雨粒のような音をたてる。
 フィムの服を毟りとったロウダの手は、次に、フィムの腰に下げられた、黒檀の弓にかかった。力任せに引っ張ると、黒革のボウホルダーは、ブチブチとスポンジのように千切れ、狩人の弓はロウダの手に入った。
 それを、目ではなく体で感じたフィムは、恐怖に凍りついた。
(駄目……っ)
 弓を奪われては、相手より優位に立てる可能性は皆無に近くなる。先ほど自分の口でも言ったように、純粋な力では、到底敵うはずもない。
「やめて」
 必死で、掠れた悲鳴を絞りだすと、信じられないことに、ロウダはピタリと動きを止め、フィムの細い足の上に跨ったまま、酷薄そうに唇を歪めた。その口元に浮かんだ笑みよりも、ロウダの光ない井戸の底のような黒い眼が、フィムを震えあがらせた。
「やっと抵抗する気になったか? しないなら、殺しちまうかもしれないぞ。お前は死にたくないんだろ?」
 ロウダは本気なんだろうと思った。
 世界に絶望して、なにもかも諦めて、相手の苦痛を感じる瞬間だけ、ほんのわずか生を実感する。それならきっと、一歩進んで、相手を殺めることも、考えられないことじゃない。もしかしたら、既に何人かを、その手にかけてさえいるのかもしれない。最後に会った時に比べ、なにかが違うと思わせる違和感は、彼が一線を、狂気へと踏み越えている証拠なのかもしれない。
 フィムは、腫れあがった頬が、熱を帯びてジンジンと痺れる感覚を、意識の隅に追いやり、反撃の隙を探った。
「無抵抗の相手を殺すのが趣味なの?」
 考え込みながら口を開き、フィムは、自分がいつの間にか、口の中を切っていたことに気付いた。口の中に広がる、鉄錆の味。
 ロウダの目が、フィムの口元に吸い寄せられる。
 自分の血の色を見て興奮しているのだと、フィムは気がついた。
「それは、少し、違うな」
 喉に絡んだような声で、ロウダが応える。相変わらず、フィムの唇を凝視したままだ。
 フィムは、赤い舌でチロリと唇を舐め、わざと半開きの口で、ロウダを見上げた。
 二人を包む空気が、ふいに濃度を増す。
「キス、してよ」
 ねっとりした空気の中で、フィムが囁く。
 ロウダは、催眠術にかかったように、ゆっくりとフィムに覆いかぶさり、冷えた唇でフィムの唇を塞いだ。招くように開かれた唇を舌先で探り、そこについた血を味わう。
「っ!」
 次の瞬間、ロウダは背中を仰け反らせて、飛びずさった。腰の真ん中辺りに焼けつくような痛みがある。両手で痛みの中心を押さえ、ロウダはしゃがみこんでフィムを睨みつけた。






   
         
 
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