昼でも尚薄暗い地上の都市の上空で、ルーァは目を凝らした。どこに降りるかは、最初から決めていた。あの、廃墟の広場。サキと出会った、乾いて朽ちかけた噴水の傍だ。
あれは、都市の中心からは少し離れていた。瓦礫に埋もれた区域や、近づくのも危険なほど崩れかけた区域ほど外縁部ではなかったが、それの少し手前、もはや誰も住まない廃墟の連なる場所だった。そこに行っても、サキや他の誰かに会えるとは思っていない。ただ、最初に降り立つのなら、サキが自分を見上げた、あの広場がいいと思った。サキの鮮やかな緑の瞳に、心臓を貫かれたあの場所。右肩には多良太の卵があった。サキの胸に炎の矢を射込まれた場所でもあったが、多良太とサキと自分が出会ったあの場所を、もう一度この目で見たかった。
ルーァが暗灰色の雲から抜けでた真下は、目的の場所より少し中心地に近すぎた。北だったか、南だったか、それとも東か、西か。方角はハッキリと覚えていない。ただ、多良太に促されるまま、ホテルの窓から空に飛びたち……
(そうだ。あの高いビルに行った。頂上に鈍く光る銀色の鐘のある、あのビルだ。そこから、多良太がサキの声を聞いた)
夢の中に聞いた鐘の音。朝闇の都市に響き渡ったあの鐘の音を思いだし、ルーァは、ひときわ高く空を貫いていた黒い剣のようなビルを探しはじめた。
三十分ほど探して、そのビルを見つけた。異様に黒くて、刃毀れでもしたかのように壁が崩れているが、間違いない。上空から少し近づくと、その黒さが、一度炎に焦がされたせいだとわかった。探している間に、黒い染みのように、ところどころにこんな焼け跡があった。そのせいで、記憶にある地上の都市より、暗く見えたのかもしれない。
ルーァは、あの日のように、尖ったビルの先端に降り立った。鈍色の鐘は、黒く煤けて汚れていたが、それでもまだそこにあった。
羽を半ば閉じる格好で、周囲を見渡す。焼け跡と、月日の流れで多少形を変えたビルのせいで、記憶にある景色とは異なっていたが、それでも、殆どはあの日のままだ。これならわかる。前方に、多良太が教えてくれた打ち捨てられた区域が見える。
ルーァは、再び風をはらんで、空に舞いあがった。
〈ぼくらを、呼んでるんだ。叫んでるんだ。ルーァ、行かなくちゃ。ぼくの中で鳴り響いてる。ルーァ、この声を止めて〉
〈ダメだよ、ルーァ。逃げてもダメだよ、行かなくちゃ。だって、離れたってこんな大きな声、きっとどこにだってついてくるよ。だから行って、この声を止めるんだ〉
あの日、頭の中に響いた多良太の声が蘇る。
運命というものがあるのなら、あの日多良太が聞いたのは、その呼び声だったのかもしれない。逃げても無駄なその運命が、サキの命を奪い、多良太と自分を殺し、そして再びまたサキと多良太を殺したのだとしても、あの日サキに出会えたことを、悔やんではいなかった。ただ、自分に、二人を守り抜くだけの力があったならと思うだけだ。もっと早く、天上で出会った時に、すぐに思い出すことができていたら、二度目の喪失は避けられたかもしれない。
(だが、今更だな)
今更どんなに悔やんだところで、起こってしまった事実は変えられない。それなら、今度こそ、決して後悔をしないよう、魂を賭けてやり抜けばいい。これが最後のチャンスかもしれない。まだこれからだ。サキと多良太と見つけ、ただ静かに過ごせる場所を見つけにいこう。
今にも崩れおちそうなビルに囲まれた、円形の広場が見えた。広場の中心には、枯れ果てた噴水が、あの日のままにあった。噴水から波紋のように広がる、褪せた煉瓦の敷石は、以前に見た時よりも崩れ、ヒビ割れ、はがれて、ひどい虫食いのようだ。
ルーァは、頭上の空の色と同じ暗灰色の羽で、風を纏いながら降り立った。
敷石の上に体重を預けた途端、煉瓦はグズグズと崩れ、細かな破片になった。ルーァはそれに、気づいてもいなかった。その胸にあるのは、あの日の記憶。この場所に白い服を着たサキが座り込んでいた。あの時は黒かった翼で巻き起こった風に、サキの栗色の髪が揺れていた。鮮やかな翠緑の瞳が、ここにはない光を受けているかのようにきらめいていた。
ルーァは、霜柱のように崩れる敷石を踏んで、噴水の縁石に腰をおろした。そこまで歩いてきた足跡が、くっきりと残っている。
あの日から二十年以上。記憶は昨日のことのように鮮明だった。ここで出会った、卵人と呼ばれる姿と、天上で会ったリフェールという名前の羽のない天使の姿のどちらも、ありありと思い浮かべることができる。今はどんな姿をしているのだろう。地上の天使になったのだろうか。それとも、再び卵人の姿をしているのだろうか。どれほど姿が変わっていても、きっと見つけだしてみせる。
ルーァは、広場を取り囲む汚れたビルを見上げ、その狭間の暗闇を見やり、暫くの間そうやって座っていた。地上の、天上の、サキと多良太の記憶が、砂のように頭の中を流れていた。
彼が再び立ち上がったのは、昼でも暗いその都市に、更に暗い夜が訪れようとする間際だった。
******************************************************
フィムが、狩人の塔でアイカと出会い、ルーダのシェラの生存を聞いた日から、三日。その間ずっと、フィムは、黒い天使達の集う八階建てのビルの部屋から部屋を訪ね回り、狩りの日に空を泳いだ、青い飛行船の在り処と自分を天上まで運んでくれる下天使を探し続けていた。
絶望に心を閉ざした天使達から、意味のある言葉を聞きだすのは至難の業だった。今までだったら、煩わしさにすぐに投げだしていたかもしれない。だが、フィムにはもう、これしか残されていなかった。なんとしてでも、天上の都市に行って、ルーダとシェラを見つけださなければ。地上生まれの自分には、背中にあるはずの羽で天上に昇る自信はない。飛び方も、出し方すらもわからないのだ。そんな自分が空を飛ぶには、あの飛行船を使うか、あるいは今も飛べる下天使を見つけて、連れていってもらうしかない。下天使達がどのくらいの期間でその羽を失ってしまうのかわからないが、天上から降り注いだ天使達は全滅したし、その後天上に昇ったという天使の話も聞かなかった。
(今日はどこから始めようかな)
フィムは昼過ぎに起きだし、腰のボウホルダーに黒く光る狩人の弓を吊るすと、重い鉄製の扉を開けた。一度は身につけるのをやめた狩人の弓は、再び腰に下げると、もうそれなしでは落ち着けなかった。この黒檀の弓だけは、あの頃のままだ。狩人の塔と呼ばれる黒い剣のようなビルに住み、ルーダを追いかけていたあの頃。もう一度、ルーダに会おうと決めた、その決意が、狩人の弓には詰め込まれているような気がした。それに、天使達に話を聞くのに、この弓が役に立つことも多い。今もまだ、狩人への恐怖が残っている天使もいるし、いざとなれば、実際にその弓に炎の矢をつがえて、脅すこともできる。自暴自棄になった者が、以前の恐怖を恨みや怒りに変えて襲ってくることがあっても、この弓さえあれば、自分の身を守るのに充分だ。
昨日までに話を聞くことができたのは、わずか数人。意味のある情報を与えてくれた者は皆無だった。今日こそ、どちらか一方についてでもいいから、なにか役立つ話を聞きたい。
フィムは、自室のある六階から二つ階段を下りた。四階の通路は、天井の照明がたった一つしかついておらず、暗い。痙攣するように瞬く唯一の照明に、影がかえって濃さを増している気がする。その暗闇にも躊躇うことなく、フィムは階段から一番近い部屋のチャイムを押して、耳を澄ませた。
この部屋のチャイムは、どうやら壊れてはいなかったようだ。ノイズ交じりのチャイムの音が、ドアの向こうでかすかに聞こえた。ここに誰か住んでいるのかどうかも知らない。誰もいない部屋で、ただ虚しくチャイムが響いただけかもしれない。だが、物音一つしなくても、そこに誰かいれば、それとなく気配でわかる。今、チャイムを鳴らした部屋には、押し殺した気配があった。フィムは、中からこちらの様子を探るような気配を感じでいたが、そ知らぬ顔で、平然と二度目のチャイムを鳴らした。
ゴト、とかすかな物音が聞こえた。ゆっくりと、足音を忍ばせて近づく気配を肌に感じる。鉄製のドアに穿たれた、小さな覗き窓からこちらを窺っているのさえ、手に取るようにわかったが、フィムはただ真っ直ぐにドアに顔を向けたまま、相手の反応を待った。
と、こちらの姿を確認したと思った直後、ガチャっと鍵を開ける音が二つ続けて響き、どこか慌てたように、ドアが押し開かれた。
「フィム!?」
中から聞こえた、自分の名前を呼ぶ声に、フィムは一瞬、眉をひそめた。だが、ドアを開けて、中から現われた相手を見上げた時には、眉間の皺を消し、かすかな微笑みさえうかべていた。
「久しぶりだね、ロウダ」
|