壊れやすい天使 壊れやすい天使  
1章「落ちていた卵」
 
 
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1-15


 そして笑顔のまま、多良太は言った。
「それじゃあ、ルーァ。これを壊して」
 ルーァは、ガラス越しに多良太の手に自分の手を重ねた。
「わかった。少し、苦しいかもしれないが……」
「大丈夫。ありがとう、ルーァ。きっとまた会おうね」
「約束だな」
「うん、約束だよ。今度はきっと、三人で、ね」
「三人だ。一緒に、誰かを奪われたりすることのない場所に行こう」
「うん。ずっと一緒にいようね」
 多良太が微笑み、ルーァはそれに微笑みながら頷いた。


 ルーァは、砕かれたガラスケースの中から、青白い液体に濡れた多良太を抱えあげた。
 肩甲骨に差し込まれていた透明のチューブは、既に引き抜かれ、そこにぽっかりと薄桃色の穴があいていた。引き抜いた瞬間迸った血も、今は殆ど止まっている。
 少し粘り気のある液体と、流れだした血に手足を滑らせないよう、ルーァは慎重に多良太を抱え、部屋の中央にある細長い黒いベッド脇まで歩いていった。そこには、乾いた骨になって、サキの体が横たわっている。ルーァはそっと、その傍らの床に、多良太を横たえた。膝をついて、多良太の髪を整え、開いたままだった目を閉じる。
 それから、立ち上がって部屋の片隅に行くと、そこに置いてあった、自分がここで眠るために他の部屋から持ってきていた、灰色のシーツを一枚手に取り、再び多良太の元に戻ると、その体の上にかけた。
 今はまだ眠っているかのような多良太と、完全に骨だけになっているサキを交互に見比べ、二人の額にそっと触れる。
「きっと、見つけだしてみせる」
 囁くように誓い、ルーァは長い間多良太と過ごした、その部屋を後にした。
 人気のない廊下を、ルーァは振り返ることなく歩き、約二十年ぶりに、外に出た。
 外には、金色の天使達が、大聖堂を取り囲むように集まっていた。金色の果てしない草原のような景観に、ルーァは一瞬、目を細め、立ち止まった。空は快晴。多良太の瞳のように青い。
 大聖堂から出てきたルーァを見つけ、金色の天使達の集団の中から、一人の天使がスッと進みでた。大輪の花のような印象のその天使は、多良太とサキが去ったあの日に、ルーァが解凍した卵から孵った天使の一人だった。
「最初の天使は、逝ったんですね」
 ルーァは黙って頷いた。
「この後は、ここには誰も入れません。最初の天使の眠りを妨げることはありませんから、安心してください」
「……ありがとう」
 数多くの天使と会ってきたが、こうして言葉を交わすことは、皆無といっていいほどだった。彼らがルーァの存在を無視していたわけではなく、彼らと話すことを望まなかったルーァの意志を汲んでくれていたのかもしれない。
 ルーァは、幾つもの意味を重ねて、静かに礼を述べた。金色の天使は、微笑んで首を振ると、フッと寂しそうな目で、ルーァを見つめた。
「あなたも、行ってしまうんですね」
「約束をしたからな」
「……わかりました。その約束が果たせることを、我々も祈っています」
 どんな約束をしたのか。言葉にはしなくても、感じとったのかもしれない。一瞬目を見開き、すぐに真摯な口調で告げた天使に、ルーァはもう一度、礼を言った。
「ありがとう」
「もし、約束が果たされたら、また会いにきてくれますか?」
「それを二人が望むなら」
「待っています。どうか、お気をつけて」
「お前達も。ここに、お前達を傷つけるものはないと思うが」
 と言いかけて、ルーァはふと、以前聞いた、二人の黒い天使のことを思い出した。
「例のビルにいる天使達は、その後どうしている?」
「変わりはないようです。入っていった時以来、女天使の方はお見かけしていませんが、もう一人の方は、時々窓から姿を拝見しますよ。いつ見ても、とても機嫌が良さそうで、我々になにか害を及ぼそうなどとは、考えていないようです」
「そうか。それならいい」
 地上から昇ってきたという黒い天使達が、一体なにを目的にしているのかわからないが、金色の天使達を関わることなく、ただここで暮らそうというのなら、心配には及ばないだろう。
「ご心配してくださって、ありがとうございます」
 ルーァの気持ちを、心から嬉しいと喜んでいるような笑顔に、ルーァは思わず目を逸らした。こんな邪念のない笑顔を向けられると、未だに気まずい気分になる。多良太やサキと過ごした日々で、少しは慣れたかとも思ったのだが。
「いや」
 ルーァは心なしかぶっきらぼうに呟き、
「それじゃあ、な」
 と、言った。
「はい。お気をつけて。またいつかお会いできることを願っています」
 金色の天使は微笑み、後ずさって、群集の中に戻った。
 ルーァは軽く頷き、背中に意識を集中した。
 羽をだすのはひどく久しぶりだ。ここは地上ではないから、ださずにいたからといって、痛みを伴ったり、使い物にならなくなったりはしないが、それでも、妙に緊張する。黒い天使で埋めつくされていた頃なら、出来損ないと言われた自分の羽を、この空の下で曝けだすことはできなかっただろう。勿論、集積場に隔離されていた自分には、そんな機会すらなかったが。この空を飛んだのは、多良太とサキを追って、集積場を逃げだした日だけだ。ボロボロのサキの遺体を、見つけた日だ。
 黒い舗装路に、小さな黒い塊を見つけた記憶が蘇り、ルーァの心臓に針を刺した。その痛みを振り払うように、ルーァは背中に一気に力を加えた。
 暗灰色の翼が、黒いローブのスリットから角のように突きだし、みるみる伸びて細長い翼に形を変える。閉じていた羽を、バサリ、と開き、ルーァは大気を掴んで舞いあがった。
「お気をつけて」
「さようなら」
「ありがとうございました」
 ルーァが高みを目指して羽ばたくのを見た天使達から、次々に声がかかる。金色の海の中で白い手がヒラヒラと揺れ、飛沫のようにきらめいた。
 ルーァは、大聖堂の上を一度だけ大きく旋回すると、都市の外れを目指した。
 影のような暗黒の都市から伸びる、一筋の黒い道。あの道を歩いて、サキは自分と多良太のもとを訪ねてくれた。あの道を歩いて、サキと多良太は出て行った。
 ぽつん、と佇む黒い集積場。炎に巻かれて完全に焼け落ちたかと思ったが、なんとかその形を留めている。だが、触ればそこから、カサカサと枯葉のように崩れていきそうだ。
 ルーァは、そこで過ごした日々に思いを馳せ、胸を締めつけるものに、わずかに、目を閉じた。
(必ず見つけだしてみせる。約束だ)
 胸の内で誓い、再び目を開くと、斜めに風を斬り、白い雲海に頭から突っ込んでいった。
 視界が、白く染まる。肌に湿気を帯びた風が纏わりつく。少し息苦しい。
 白が暗くなる。影が濃くなる。灰色を抜けでると、記憶にあるよりも、更に暗く淀んだ地上の都市が見えた。





   
         
 
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