ルーダは、凍りついたままのシェラを、いともたやすく抱え上げ、そのまま、そっとベッドに下ろした。シェラの体の下から両手を引き抜き、その両手をシェラの顔の横について、シェラの上に跨るようにして、自らもベッドにあがる。
二人分の重みでベッドが軋む音に、シェラはようやく呪縛を解かれ、言葉を斬りつけた。
「なんの真似よ」
シェラの上に影を落とし、ルーダが微笑んだ。
「なにするつもりか、わかるだろ?」
「動けない相手を、無理矢理思い通りにしようって? あんたにはプライドってもんがないの?」
「お前のプライドはどうだ?」
嘲るようなシェラの問いかけに答えず、反対に問い返されたシェラは、チクリと胸の辺りに痛みを覚えた。その痛みの理由に思いを巡らせる間もなく、シェラは反射的に応えていた。
「あたしのプライドがどうだっていうのよ。あたしは、あんたに聞いたのよ」
「人一倍プライドの高いお前が、この俺に何度も命を助けられたんじゃ、プライドにも傷がつくよな。負い目を感じるなっていっても、無理な話だよな」
「あんたが勝手にしたことよ。あたしの知ったことじゃないわ。負い目なんて、感じてるもんですか」
「なあ、シェラ、俺がどれだけ長い間お前を見てきたと思ってるんだ? お前が本当に気にしてないかどうかなんて、見ればわかるって」
「あんたに、あたしのなにがわかるっていうの!? うぬぼれないで! たかだか数十年、その程度であたしをわかったつもりにならないでっ」
屈辱と怒りで、シェラの声がふるえる。心臓の鼓動が耳元でうるさい。わかりきったように微笑むルーダの顔を、これ以上見ていられない。
堪えかねたように振りあげたシェラの右手を、ルーダはいともたやすく手首で掴んで、陽の光を知らないシェラの白い手の甲に口づけた。
ザワリ、と背筋を這い上がった悪寒の勢いに任せ、シェラは全ての力をその手に注ぎこんで、ルーダの頬に爪をたてた。赤く尖った爪先に、ルーダの皮膚がガリッと音をたて、たちまち膨れ上がって、血を滲ませる。
痛みは感じなかったのだろうか。ルーダはまるで顔色を変えず、シェラの手首から手を離して指先を掴み直すと、反対の手も同じように掴まえて、シェラにのしかかった。
それを認めるのは、髪の一本一本が、怒りでチリチリと燃えあがりそうなことだったが、今の自分に、ルーダの行為を止める力がない、と悟った時、シェラは、絶対に、声をたてるものか、と思った。
悲鳴など、どんな小さなものでもあげる気はないし、目を瞑って、暗闇に逃げ込むこともするものか、と思った。怒りと侮蔑の眼差しで、全てを見据えてやろうと思った。この記憶を心に刻み、いつかきっと、この日の代償を払わせてみせる。
恐ろしく暗い炎のゆらめく、黒い瞳が目の前にある。それを見返すシェラの瞳にも、消えることのない炎があった。
「シェラ、シェーラ、シェラシン」
呪文のように囁くルーダの声は、昂ぶる感情に掠れ、シェラは、その声に耳を塞ぎたくなった。抑えようもなく、心がふるえる。
シェラの名前を囁くルーダの唇が、きつく結ばれたシェラの赤い唇に重なる。
その刹那、シェラの体中を痛いような痺れが走り抜け、思わずわずかに唇がゆるんだ。その隙間に滑り込んでくる、湿ってあたたかいモノを、無意識に迎え入れそうになる。
「っつ!」
ルーダが、パッと顔を離した。その口許は、薄紅の血で汚れている。シェラは、自分のものではない血で唇を濡らしながら、黙ってルーダを睨み据えた。殴られるかもしれない、と思ったが、それぐらい、どうということもない。噛みつかれて、怒りに駆られて殴るなら好きにすればいい。いずれ必ず、その分もきっちり報復してやるだけだ。
だが、ルーダは、自分の血を、舌をだして舐めとると、ひどく嬉しそうに笑った。シェラにはそれが、どれほどきつく殴られるよりも、痛かった。何故かはわからない。とても、とても、痛かった。
全て終わった時、ルーダは体中、傷と火傷だらけだったが、それを意に介してもいないようだった。それどころか、やけにスッキリとした満ち足りた表情にさえ見えた。シェラは、体に傷一つ負うことはなかった。シェラがどれだけ抵抗しようとも、ルーダは身震いするほど優しくシェラを扱ったからだ。手足を押さえつけられこそしたが、それでもひどく優しく、愛でるように、繊細ともいえるほどの愛撫は、シェラの目に見えない部分を、徹底的に傷つけるものだった。シェラは、声一つたてず、ただ胸の内で、ルーダの死を念じる呪詛を吐き続けてそれに耐えた。
それでも、とろけるような笑みを浮かべてルーダが部屋を出て行くと、ベッドの端からずり落ちかけた枕を掴み、力任せに閉ざされた扉に叩きつけた。
「殺してやるわ」
何度目かの誓いを吐きだし、シェラはようやく、自分に目を瞑ることを許した。血の滲んだ瞼の裏側の暗闇に、少し前の情景が閃く。耳元には、今もすぐそこにいるかのようなリアルさで、ルーダの声が蘇る。
「俺がお前を助けたのも、全部このためだったって思えば、お前の負い目もなくなるだろ?」
嘲るような口調で言われたらよかった。それなのに、ルーダの声音は、シェラを労わるように優しく、ルーダが優しさを見せる度、シェラの心臓が血を噴きだした。
囁くように、呻くように、叫ぶように、繰り返される自分の名前に、シェラの心臓はズタズタだ。殺意だけじゃ足りない。復讐の誓いだけでは、自らの血溜まりに沈んでいく心臓を救いだすことはできそうになかった。だが、他になにがあるのか。殺意と復讐の誓い以外、赦し難いルーダの言動に抗するものを、シェラは知らなかった。
そしてその日から、ルーダは今まで堪えていた分全てを取り戻すかのように、毎日シェラを抱いた。日によっては、一日に数回、ルーダの欲望はとめどなく溢れだし、鎮まることがないようだった。どれほど回数を重ねても、ルーダのシェラへの扱いがぞんざいになることはなく、それどころか、繊細さと濃密さを深めていくようだった。
シェラは、燃えさかる炎を閉じ込めた氷のようにルーダを撥ねつけ続けた。そうすることで、ルーダの気持ちを少しでも挫いてやりたかったが、ルーダはただ、ぞっとするほど優しいだけだった。
シェラにとっては気の遠くなるような時が、一週間、一ヶ月、一年、そして十年、二十年と過ぎ、ルーダは飽くことなくシェラを愛で続けた。その間、シェラが卵を孕む兆候はなかった。
もし、卵を抱くことになったなら、ルーダの執着も途端に萎んでいただろうか。自分の中に、なまあたたかい白い塊ができるのは、想像するだに吐き気がするが、ルーダの執拗な愛撫と体以外の全てを傷つけるような優しさと、自分の名前を呼ぶあの声から解放されるのなら、卵を孕んだ方がマシだと思った。だが、あれだけ毎日、無理矢理ルーダを受け入れさせられても、未だに卵ができないということは、もしかしたら、自分には卵を孕む能力は備わっていないのかもしれない。それなら、ルーダがシェラに飽きるその日まで、ただ待っていることしかできないのだろうか。
そして二十年、未だにその気配はなく、この先、どれだけ耐え続ければいいのかわからない。
自分の力で、ルーダの元から立ち去ることを、諦めたわけではなかった。ルーダを殺すことを、復讐の誓いを忘れたわけではなかった。
だが、片足だったシェラは、今や両方の足を失っていた。
怪我をしたわけではない。
ルーダに、奪われたのだ。
ルーダに隠れ、片足での歩行練習を続けていたシェラが、部屋の中ぐらいなら、片足でも自由に動き回れるようになった頃、いつもよりも濃厚にシェラを抱いたルーダは、あの日、狩人の塔が燃え落ちたあの日、閉じ込められたエレベーターの中で見せた、真紅の炎の剣で、シェラの無事だった足を斬り落とした。
「悪いな、シェラ。お前を手放したくないんだ」
自分勝手な理由を囁いて、憐れむように微笑んで、それでも、斬りおとす瞬間にルーダに浮かんだ快楽の表情を、シェラは見逃さなかった。サディスティックな行為で快感を得ていた自分には、その時ルーダが感じたものをたやすく想像できたが、だからといって、自分自身への暴力が受け入れられるわけではなかった。
最初は、弾けるような熱さを。次に、突き抜けるような痛みを感じたシェラは、反射的に掠れた悲鳴をあげていた。
毎日の行為の中でも放たれることのなかったシェラの悲鳴に反応したのだろう。ルーダは一気に欲情を昂ぶらせ、いつもよりも激しく、薄紅の血に濡れた、シェラを抱いた。
ルーダがシェラを抱かずにいたのは、その日から傷口が塞がるまでのわずかな期間だけだった。
シェラの傷が癒えると、失われた両足の間に体を差し入れ、ルーダはそれまでと同じように、シェラを抱いた。
二十年。
卵人に比べて、数倍の寿命を持つ天使達にすれば、瞬きするような期間なのかもしれない。だが、シェラにとって、それはあまりに長い。長すぎる時間だった。
(足がないなら、この両手だけだって、あたしはでて行くわ。だけどその前に、あいつの手足をもいで、芋虫みたいに転がしてやる。あたしを見てたあの目を潰して、あたしに触れたあの舌を引き抜いて、あたしの声を聞いたあの耳を引きちぎってやるわ)
暗い瞳の奥で燃える炎は、今も消えてはいない。
炎をゆらめかすのは、怒り、羞恥、殺意、復讐。
そしてもう一つ、シェラ自身も気づいていない、小さな炎があった。
その炎は、ルーダの瞳に閃くものと同じだと、その時のシェラは、知らなかった。
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