壊れやすい天使 壊れやすい天使  
1章「落ちていた卵」
 
 
    HOME / 「壊れやすい天使」TOP



1-11


  ******************************************************


 その日、目覚めた時、シェラは、なにかがいつもと違う、と感じた。重苦しいコートを脱ぎ捨てたような、体がフワリと軽くなったような、そんな感覚に、シェラは首を傾げた。
 今の状況を、本心から納得していたわけではなかった。
 右足を失い、自由に動くこともままならない今の状況では、なにをするにつけてもルーダの手を借りるしかなく、顔も見たくないと思ったところで、好き勝手に現われるのを止める手立てもない。
「負い目なんか、感じることないんだぜ?」
 薄く笑って顔を覗きこまれた時には、怒りと羞恥で頭の中が白くなった。ルーダに負い目など感じていないと、世話をしたければ勝手にすればいいと、ルーダの言葉を否定するために、この状況に甘んじていたが、それを、本心から納得していたわけではなかった。
 いつか、傷も癒えて、多少の無理もきくようになったなら、片足でも、自分自身の力で歩いてみせる。自由に動けるようにさえなれば、たとえ再び地上に下りる術はなくとも、これ以上ルーダと顔を突き合わすこともないだろう。シェラは、そのためには、まずは安静にして傷を癒すこと。それから、片足で歩く補助になる、杖かなにかを手に入れることだと考えた。
「あたしの杖を見つけて」
 高飛車にルーダに命じ、ルーダが笑顔で快諾したのが数日前。顔を見るたびに催促しているが、ルーダはのらりくらりと言い訳をして、未だに持ってこようとしない。本気で探しているのかどうかも怪しいものだ。
 ベッドに仰向けになったまま、右手を目の前にかざした。続けて左の手も右手に寄り添うようにかざした。ゆっくりと両手を拳の形に握り、また開いた。手の動きに、昨日までとの違いはなかった。
 それから両手をおろし、半身を少し、捻ってみた。昨日までは、こうやって腰を捻り、力を加えようとすると、裂けるような痛みが脇腹に走った。
(これは……)
 痛くなかった。もう少し大きく捻り、片手を支えに、体を起こしてみた。一瞬、引き攣れるような感覚を覚えたが、顔を顰めるような痛みはない。
(治った、の?)
 シェラは、時間をかけて、ベッドの側面から足をたらして座る姿勢にまで体を動かしてみた。一回り、二回りほど痩せ衰えた左足が、ベッドの下の黒い床についた。このまま、体を支えて立ち上がることは、とてもできそうになかった。足も、手も、体中の力が失われ、こうして座っているのがやっとだった。
 だが、
(このままでなんか、いてたまるもんですか。あたしは治ったわ。後は再び立ち上がれるまで、鍛えていけばいいだけよ)
 シェラは決意を込めて頷き、とにかく左の足だけでも力を取り戻そうと、少し動かしてみることにした。ベッドの中でも、膝を曲げたり伸ばしたりなどの簡単な運動なら、毎日欠かさず行なっていた。まったく筋力が失われたわけではないはず。ほんのわずかの間、ベッドに手をついたままなら、立てるかもしれない。
 正直、シェラは焦っていた。一刻も早く、ルーダの束縛から逃れて、自由になりたかった。自分自身の力で、この場所を立ち去りたかった。
 その焦燥感で、判断を誤ってしまったのかもしれない。
 シェラは左足に力を入れ、両手を突っ張って体を支えながら、ベッドからおりようとした。
「あっ!」
 思わず、声がでた。
 シェラの左足はおろか、両手の腕にも、かつてあった力はなく、シェラはそのまま崩れ落ちるようにベッドの下に転落した。
 足を折り、横様に倒れこんだシェラは、唇を噛み締め、それでも自分の力で立ち上がろうとした。だが、なんとか体を起こしたものの、ベッドの端を掴んだ手に、体全体を引き上げる力はなかった。
「シェラ、どうかしたのか?」
 今日もまた、ルーダは隣室かどこかでシェラの動向を窺っていたのだろうか。シェラの声と、重いものが落ちるような音を耳にしたルーダが、部屋に飛び込んできた。
 シェラは懸命に平静を装い、尊大な視線でルーダを見据えた。
「どうもしないわ。さっさとでていって」
「どうもしてないって、どうかしてるだろ、その状況は。どうしたんだ? 寝ぼけてベッドから落ちたのか? 怪我は?」
 一瞬、呆れたような表情をうかべ、ルーダはすぐに、心配そうな様子でシェラに歩みよった。
 シェラは、片手で宙を薙ぎ、ルーダがそれ以上近づくことを制した。
「落ちたんじゃないわ。おりたのよ。怪我なんかしていないから、放っておいて」
 シェラから一メートルほど離れた場所に立ち止まり、ルーダは戸惑い顔でシェラを見下ろした。
「おりた? 自分で? 痛みはもうないのか?」
 尋ねながら、ルーダの表情が微妙に変化していくのを、シェラは何故か嫌な気分で見ていた。そんなものを自分が感じたと認めたくはないが、それは不安に似ていた。
「そうよ。だから放っておいてって言ってるでしょう」
「けど、痛みはなくても、そこから自分でベッドに戻るのは無理だろう? 俺が、抱きあげてやるよ」
 ジリ、と半歩近づくルーダに、シェラは強い調子でかぶりを振った。
「大きなお世話よ! 自分でおりたんだから、自分で戻れるわ」
「……じゃあ、見てるから、戻ってみろよ」
「見世物じゃないわ。でて行って」
「またなにかあったら困るだろ? それとも、力ずくで俺を追いだすか? お前にそれができるくらいなら、俺が手を貸すまでもないだろうから、でてくさ、俺もな」
 挑発的なルーダのセリフに、シェラは反射的に怒りの声をあげそうになり、それを途中で無理矢理飲み込んだ。
(こんな男の挑発に乗って、これ以上の醜態を晒すなんてごめんだわ)
 視線で殺せるのなら、そうしていたかもしれない。シェラは、ルーダを一度、キッと睨みつけると、すぐに視線を外し、もはやそこにルーダはいないものとして、再びベッドにかけた両手に、力を込めた。
 右腕を肘まで乗せて、左足の膝をつく。左手の掌と、右腕に全体重をかけるつもりで体を引き起こし、左足の膝を離して、足首に力を入れる。足が、ガクガクとふるえた。ふるえの大きさは少し滑稽なくらいだった。両腕も、肩から先が、抑えようもなく大きくふるえる。と、左の足首が、ガクン、と折れるように崩れ、シェラは再びベッドの下に滑るように倒れこんだ。
「くっ……」
 まばたきもせずに見つめているような、熱い視線を感じたが、シェラは決して、顔を向けようとしなかった。黒くなめらかで、そしてなぜか少しあたたかい床を見つめ、そこに映る自分の影に、唇を噛み締めた。これほどまでの屈辱を、なにで埋め合わせればいいだろう。なにかで埋め合わせることができなければ、自分はどうにかなってしまいそうだ。
 再び両手をついて体を起こし、シェラが右手をベッドにかけた時、言葉もなく、ルーダがシェラに近づいた。
「放っておいてって言ってるでしょう!?」
 振り向きもせずに、気配を感じて言い放ったシェラに、ルーダはその奥に熱情を秘めたような、奇妙に平坦な声音で言った。
「ほらな。やっぱりまだ無理だろ? だから俺が手伝ってやるって」
「たった一度、失敗したくらいで、無理だなんて決めつけないで!」
「だったら、止めてみろよ。俺を」
 ルーダの影がシェラの上に差し、耐え切れずに顔をあげたシェラは、ルーダの黒い瞳に映るものに、体が痺れたように動けなかった。
 そこにあったのは、決意、欲情、そして狂気に似たなにか。
 曝けだされたその圧倒的な想いの強さに、シェラは声をあげることすらできなかった。





   
         
 
<< BACK   NEXT >>