壊れやすい天使 壊れやすい天使  
1章「落ちていた卵」
 
 
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1-10


 黒くつややかな扉を閉じ、ルーダは体の奥から沸き起こる歓喜に、暫し、その場に立ち尽くした。
 シェラが目を覚ました。生きて、呼吸して、言葉を発し、反応する。
 それが、この上もなく嬉しかった。
 天上の都市にいると知ったシェラは、かなりのショックを受けたようだったが、それでシェラがこの後どうしたいにしろ、一人で逃げだすのは不可能だと、すぐにもわかるだろう。なにしろ、天上にいる羽のある存在は自分一人。シェラは鳥籠の中の小鳥も同然だ。
(いや、羽がないから、水槽の魚ってとこだな)
 いずれ、囚われの身。しかも、手負いの魚だ。
 そう、たとえ、この建物の外にいる連中に助けを求めようとしても、あの部屋からでることすら難しいと、シェラはもうすぐ気づくだろう。誰かに助けを求めるなど、あのシェラがするとは思えないが。
 もし、完全に自分の状況を理解したら、シェラはどうするだろう。
(自殺するってのが、一番いただけないな。せっかくここまできて、それじゃあんまりだよな)
 シェラの性格を考えると、誰かに助けを求めるくらい、自ら命を絶つことは考えられなかったが、万が一ということもある。
 ルーダは、扉を離れると、なにか異変があればすぐわかるよう、隣の部屋で待機することにした。


 そしてシェラが、もう一つの信じ難い現実に気がついたのは、ルーダが予想していたのより、少しだけ早かったようだ。
 シェラは、混乱する頭と感情を持て余したまま体を起こし、ドサリと仰向けにベッドに倒れた。それだけの動きをするのに、また脇腹が激しく痛んだが、最早、気にかける余裕すらなかった。
 黒い天井。まるで、あの日自分の炎を砕いた、巨大な翼のようだ。
 冷静になって考えよう、と思うのだが、なにか考えようとする傍から、胸を突きあげてくる想いに、思考が乱された。その想いを、なんと呼べばいいのかさえわからなかったが、とにかく、その想いを受け入れたくない、抱きたくない、ということだけはわかった。
 無意識の内に、間断なく痛む脇腹に手を滑らせ、もう一箇所、同じくらい深手を受けたはずの右の太腿に手を伸ばしたシェラは、その指先の感触に、いや、感触がないことに、凍りついた。
(なに、これ)
 壊れ物に触れるかのように、ゆるゆると指先が探り、十センチほど残された太腿の先が、スッパリとなくなっていることがわかると、シェラの手は小刻みにふるえはじめた。
 今度は少し乱暴に、その有り得ない空間をふるえる指と手で探ったが、やはりそこにはなにもなかった。脇腹と同じ、乾いた布の感触があるだけだ。
 シェラの呼吸が、乱れはじめた。心臓から流れる薄紅の血の音が、耳の奥でドクドクと響いている。ハァ、ハァ、と、荒く速い呼吸で、シェラは上体を起こし、腰から下を覆っていた灰色のシーツを乱暴に剥ぎとった。
 指先から伝わった感触そのままに、そこに足はなかった。左足はちゃんとある。強張って、うまく動かせないが、裸足の爪先までしっかりと見えた。だが、右足は、そこにあるという感覚は確かにあるのに、動かすこともできそうなのに、どこにも、なかった。
 声は、でなかった。でていたら、悲鳴になっていたかもしれない。すぐ近くにいると言っていたルーダに、そんな悲鳴を聞かれなくてよかったと、頭の端が妙に冷静に呟いていた。
 傷口は、思っていたよりも深く、切断するより他に方法はなかったのかもしれない。切るか、死ぬか、問われていたら自分はどうしただろう。
(こんな場所で、自分で動くこともできずに捕らえられてるくらいなら、死ぬ方がマシだわ)
 だが、生き延びてしまった。生き延びてしまった以上、むざむざと自分の手で命を絶つのは、耐えられなかった。それは負けだ。負けるのも、逃げるのも、絶対にしたくはなかった。同時に、これ以上ルーダの顔を見ているのも、絶対に耐えられない、と思った。
 これで三度目だった。三度も、自分はルーダによって命拾いしている。二度目は、自分自身になにか傷を負ったわけではなかったが、最上階へと向かうあのエレベーターの中で、一度はルーダに命を握られた。それを放され、その上、レリエルを殺すための機会をルーダに与えてもらったことは、体に負うのと同じくらい、シェラのプライドを傷つけた。
 殺してやりたかった。殺しても殺したりないくらい、ルーダが憎かった。こんなにも自分のプライドをズタズタにして、ニヤニヤ笑って頭と心を掻き回す。
 ルーダを殺してやりたかった。ルーダの心臓を、赤い炎で撃ちぬいたら、この、名付けるのも腹立たしい感情も消え去り、砕けたプライドも元通りになるに違いない。
(だけど、あたしの弓はもう使い物にならない。あの時借りたルーダの弓を、もう一度借り受けることができるかしら。あいつの弓で、あいつを殺してやりたい)
 今、思い返すと、さきほど姿を見せたルーダの腰に、狩人の黒弓はなかった。弓も無しに、炎の矢を放つことができるだろうか。炎を投げつけることはできるだろう。だが、心臓を刺し貫くほどの威力は期待できない。
 赤い、炎の剣が宙を斬る。
 あの日、エレベーターの中でルーダが見せた、炎の剣の姿がシェラの脳裏に蘇った。あの剣を、自分でも作りだすことができたなら、それでルーダの脳天をぶち割ってやれるかもしれない。
 シェラは、左手を胸の前で、内向きにかざした。掌の中心に、赤い輝点が浮かびあがる。鮮やかな赤い色に、自分の意志が、まだこれだけのものを生みだす力を残していると知って、シェラは安堵した。凝縮された輝点が、赤ければ赤いほど、強力な炎になる。
 掌を天井に向け、小さな輝きに、更に意志をそそぎこむ。
 赤い光は燃えあがり、掌いっぱいの炎になった。
(でも、これじゃ足りないわ)
 これを反対の手で引き伸ばし、弓につがえれば炎の矢になるはずだったが、ここには、その代わりになりそうなものはなに一つない。
 ルーダがただ一度だけ見せた炎の剣は、これよりもっと大きく、炎の柱のようなものだった。同じだけの炎を生みだせれば、弓などなくても、武器として充分だろう。
 今、掌で踊る炎よりも大きな炎を作りだしたことはないが、続けざまに炎を生みだすことが可能なら、この炎を更に大きくするだけの意志の力は、持っているはずだ。
 シェラは掌の炎を見つめ、高く燃えあがることを念じた。
 炎は明滅し、輪郭を歪ませ、一度は上に伸びあがりそうな気配を見せたが、そこまでだった。それ以上、どう強く念じてみても、炎は剣どころか、小振りな短剣にすらならない。
 挫折。ここでもまた、挫折。
 あの最後の卵人狩から、シェラの自信とプライドを傷つけ、揺るがすことばかりが続く。
(それもこれも、みんな、あの男のせいだわ! あいつさえいなくなれば、あたしは!)
 シェラは、苛立たしげに手を振って炎を消し、その手をきつく握り締めた。
(このまま、あいつのいいようになんて、させるもんですか。片足がないからなんだっていうの!? この傷が癒えたら、あたしは……!)
 どうするというのだろう。ルーダを殺す? あんなちっぽけな炎の塊しかだせないんじゃ、それは望み薄だ。ここから逃げだす? 逃げるなんて真っ平だし、ここが雲の上なら、逃げてどこへ行けばいいのか。
 シェラは、ともすれば黒い絶望に肩を掴まれそうになりながら、ただ、ルーダへの怒りをかきたてることで、それを退けた。
 そして、シェラの脇腹の傷が、少しぐらい動いても引き攣れるような感覚があるだけで、さほど痛まなくなった頃、ルーダへの怒りだけじゃ誤魔化しようもないほど、シェラを決定的に傷つける出来事が起こった。
 それは、シェラが天上で意識を取り戻してから、およそ二週間が経った頃だった。





   
         
 
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