壊れやすい天使 壊れやすい天使  
1章「落ちていた卵」
 
 
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1-09


「昏睡状態? あたしが?」
 片手をついて起き上がろうとするシェラを手で制し、ルーダは、ベッド脇の黒い椅子に、ニコニコ笑いながら腰をおろした。
「寝てろよ。無理な姿勢すると、まだ痛いだろ。お前の苦痛に歪んだ顔は、すごくそそるけどな」
「殺されたいの、あんたは。あたしの質問に答えなさい」
 シェラの目は、本気だった。これ以上、彼女の神経を逆撫でするようなことを言えば、本気でルーダを殺そうとするだろう。ルーダは、シェラの殺気を笑って受け流すと、片手をあげて、シェラを宥める仕草で言った。
「まぁまぁ、あんまり興奮すんなよ。さっきも言ったけど、お前、ずっと昏睡状態で、一時はほんと、やばそうだったんだぜ。一昨日辺りから、顔色がよくなってきたけど、その前はこのまま目覚めないんじゃないかって心配したんだからな。まぁ、あんだけ出血してたしなぁ」
「いつから。いいえ、今はいつなの。あたしがあの女を殺した日から、どれだけ経っているの」
「そうだなぁ。大体、一ヶ月ってとこかな」
 それだけ過ぎていては、今から改めてあの女の額に印を刻もうとしても手遅れだろう。シェラは苦々しげに吐き捨てた。
「また刻み損ねるなんて」
「ああ、けど、その日の内に気づいても、無理だったと思うぜ」
「どうしてよ」
「お前があの部屋で倒れてから、すぐだよ。あちこちで火が燃えてたからな。狩人の塔自体が燃えあがって、レリエルもアシェも、中にいた連中はみんな黒焦げだよ」
「塔が? 誰も生き残らなかったっていうの」
「うーん、何人かは、外のビルの屋上にいたみたいだけどな。ああ、一人、お前のトモダチが、こっちに気づいてたみたいだぜ」
「あたしのトモダチ?」
「ほら、なんっつったっけ。髪の毛が爆発したみたいなの、いたろ」
 シェラは眉根を寄せ、少し考えこんでから、ああ、と言った。
「アイカのことね。アイカは外にいたの」
「そうそう、そいつ。屋上から、まっすぐこっち見てたなぁ。他のやつらは、上から落ちてきた下天使相手に忙しそうだったけどな。そいつらが死んだかどうかまでは、わからないな」
「下天使が落ちてきた? あいつらが攻めてきたってこと?」
 シェラが殺した下天使のレリエルは、天上の天使達の斥候隊長ということだったのか。地上の戦いを目にして、上から一気に攻めてきたのだろうか。もしそうなら、地上の天使達が勝ち残る可能性は、かなり低かったはずだ。だが、勝敗は別にして、そんな大戦が実際にあったのなら、自分もその場で、下天使達を殺したかった。その機を逃したことに、シェラは口惜しさで体が熱くなった。
 シェラの悔しそうな顔を見て、ルーダはかるく笑って手を振った。
「いや、攻めてきたんじゃない。理由はわからないけどな。頭が壊れて、墜落してきたんだ。まともに戦える相手じゃないって」
「だけど、全部じゃないでしょう?」
「いいや、全部だよ。天上の天使は一人残らず地上に落ちた。落ちずに上で死んだもの結構いたけどな」
「なぜ、そんなことを知っているの。いえ、待って。そもそも、あの状態の塔からどうやって脱出したっていうの。屋上にいるアイカを見たって言ったわね。どこから見たの」
 ルーダの言葉が確かなら、自分はかなり長い間意識を失っていたことになる。そのせいで、頭の働きも少し鈍くなっているようだ。今更ながら浮かんだ疑問をぶつけると、ルーダは一瞬、言い淀み、
「俺は下天使だ。知ってるだろ?」
 曖昧な言い方に、シェラは苛々と先を促した。
「知ってるわ。それがどうしたっていうの」
「だから、飛んだんだよ。あの部屋から、上に」
 理解するまでに、少し時間がかかった。シェラは頭の中でルーダの言葉を反芻し、やがてその意味に達すると、ルーダに制止されたことも、起き上がろうとして痛みに刺されたことも忘れ、ベッドから跳ね起きた。
「なんですって!?」
 途端、脇腹に強烈な痛みが走り、シェラは身を折って苦鳴を堪えた。頭部だけが、大渦に飲み込まれたかのような眩暈に襲われ、喉元にせり上がってきた吐き気を、シェラは気力で捻じ伏せた。
「あー、だから無理に起きんなって言っただろ。ほら、寝てろよ」
 シェラは、体を支えようとしたルーダの手を激しく払いのけた。
「触らないで!」
 シェラは上体を折ったまま、首だけをルーダに向けて斬りつけるように言った。頭を起こすことはできなかったが、左手で脇腹を押さえ、ルーダを睨めあげた。
「あんた、あたしを騙したのねっ」
「騙したって、人聞きが悪い。飛べないなんて言ってなかっただろ」
「あの時、あんたは飛んで追いかけられたんじゃないの!?」
「あの時?」
 ルーダは少し首を傾げ、それから、のんびりと頷いた。
「ああ、卵人狩の時のことか。まぁ、できないことはなかったかもしれないなぁ。けど、お前だって知ってるだろ? 地上で羽をだすのは、半端な覚悟じゃできないって。痛いもんなぁ。お前が印をつけ損なったあの獲物、俺が奪い取れば、賭けには勝てたんだろうけどな」
 地上で行われた最後の卵人狩の日。シェラは卵人の少女の胸に、炎の花を咲かせた。本来なら、そこで倒れた卵人の額に、自らの刻印を印し、自分の獲物とできたはずだった。
 だが、まさか卵人と共にいる黒い姿が、本物の天使だとは思わず、その天使が咄嗟に卵人の胸に射込まれた炎を消し、次に放った炎の矢は、闇色の翼に弾き返された。そして、あろうことか、その天使は、卵人の少女を抱いて、天へと逃れたのだ。
 その時、シェラは生まれてから一度もだしたことのない羽を背中から絞りだし、その、ただの黒い塊に過ぎない羽のせいで、激しい痛みと出血に見舞われた。そのまま背中の穴から羽をぶらさげたままなら、出血多量で死んでいただろう。それを救ったのが、ルーダだった。ルーダはシェラの背中から使い物にならない羽を引き抜き、気絶したシェラのマントで止血してやったのだ。そのことは、今もシェラの胸に苦々しく燻っている。
 その上、ルーダが今言ったように、『狩りの時に、シェラが獲物と決めた相手を取り逃がしたなら、それをルーダが仕留める』という、二人の間の賭けがあったというのに、ルーダが敢えて、飛んで獲物を奪い去らなかったのなら、そこでも貸しを作っていたということになる。それは、シェラにとって、耐え難い屈辱だった。
 シェラは、怒りに燃える瞳でルーダを睨みつけ、唸るように言った。
「なら、なんでそうしなかったの」
「確かに、一瞬、チャンスだと思ったけどな。でも、その気になれなかった。あの時はわからなかったけど、後で考えたら、惜しんだんだろうな、俺は」
 なにを、と聞くことはできなかった。その答えを、知りたくなかった。
 シェラは代わりに、全く別のことをきいた。
「ここは、どこ」
 ルーダは、今度も少しためらってから答えた。
「天上」
 その言葉に、シェラは大きく目を見開き、怒りさえも忘れたかに見えた。事実、シェラは衝撃に頭が痺れたようになっていた。ルーダが空を飛んだと聞かされた時は、これ以上の驚きはないと感じていた。だが、自分がいる場所が、あの暗い地上の都市を、常に重苦しく覆っていた暗灰色の雲の上にある天上の都市だと知った今は、それさえも霞んで思えた。
 なにを言えばいいのか、なにを感じればいいのか、わからなかった。信じたくもなかったが、なぜか、それが紛れもない真実だと感じた。
 シェラは、ぎゅっと目を瞑り、
「……あたしを、一人にして」
 ようやく口にできたのが、それだった。少し、考える時間が欲しかった。混乱して、まともになにか反応するのも難しい。
 ルーダは、眉間に皺を刻んで目を閉じたシェラを見下ろし、あっさりと頷いた。
「わかった。なにかあれば呼んでくれ。声の届くとこにはいるつもりだからさ」
 声の届く範囲どころか、二度と目にしないところに消えてほしいくらいだったが、シェラはなにも言わず、ただ片手を振って、ルーダを追い払う仕草で応えた。
「じゃあ、また後でな」
 そう言い置いてルーダが立ち去っても、シェラは顔をあげなかった。





   
         
 
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