壊れやすい天使 壊れやすい天使  
1章「落ちていた卵」
 
 
    HOME / 「壊れやすい天使」TOP



1-08


 アイカはまだフィムを見ていない。フィムは、腰から下の力が抜けて、その場にへたり込みそうになった。ふらつきながらも、辛うじて堪え、口からこぼれ落ちた声は、掠れていた。
「今、なんて?」
 アイカは、ようやくフィムに視線を戻した。その顔に浮かんでいるのは、嘲笑か、憐みか、あるいは共感か。アイカはかすかに、引き攣ったような笑みをうかべていたが、それがなにを意味しているのかフィムにはわからなかった。
「あたしは、ルーダが、シェラを抱えて天上に上っていったのを見たんだよ」
「……嘘だ」
 囁くように呟いた時、フィムは、自分が小刻みにふるえていることに、初めて気がついた。両手で自分の体をきつく抱きしめたが、そのふるえは治まらなかった。
 狩人の塔が燃え落ちる寸前、最上階から飛びだして、天へと上った天使がいるというその噂は聞いていた。割と有名な噂だった。だが、それをルーダと結びつけて考えたことなど一度もなかった。下天使の一人が、うまく難を逃れて逃げだしたのだろうと思っていた。なにより、ルーダは、狩人の塔が燃え落ちる前に、既に死んだと聞かされていたのだ。
 シェラと、抱き合って、二人で死んでいたと。
 それを聞いた時の痛みが鮮明に蘇り、フィムは、ぎゅっと目を瞑った。
「そう思うのは勝手だよ。少なくとも、あたしにはそう見えたし、今もそうだと信じてる。だからこうして、今もここで待ってるのさ」
「待ってる?」
 フィムは閉じていた目を開き、アイカを見上げた。まるで、救いを求めて縋りつくようなその目を、アイカは静かに受け止めて、わずかに顎を引いて頷いた。
「あの雲の上から、二人か、あるいはどっちか一人が下りてくるのをね。そして答えを聞かせてほしいのさ」
「答え……」
「できたら二つ。雲の上にあたしらと同じ天使はまだいるのか、それとも、そこもやっぱりあいつらで埋めつくされちまってるのかってことと、それから、もう一つ。あの二人の間にあるものの名前、それがなんなのかってことをね」
 あんたはどうだい? 知りたくはないのかい? と、声にはださなくとも、その目が語っていた。
 知りたくない。そんなものは、わからなくたっていい。
(だって、怖い……)
 意識せずに心が呟き、フィムは自分の心の声に、激しくかぶりを振った。
(怖いってなにさ。あの二人の間にあるもの? そんなの、ただの戯れでしょ。特別なものなんてなんにもないよ)
 だが、ルーダは、それまでたやすく自分のものにして、そしてすぐに捨て去った多くの女天使達とは異なり、いつまでも、ただシェラの周りで、その傍にいるだけでいいとでもいうように振舞っていた。
(だけどそれがどうだっていうの? それが少しばかり強い執着だとしたって、あの女がルーダの卵を孕んだら、それでおしまいでしょ。そんなの、別れる時期が早いか遅いかの違いじゃない。そこに特別なものなんて、なんて呼ぶのかわからないような特別な感情なんて、あるわけないじゃない!)
 必死に自分に言い聞かせたが、抑えても抑えても、巨大な蛇が鎌首をもたげるように沸き起こる、自分自身の声を消せなかった。
(でもあの二人は、雲の上に逃げた。二人だけで、飛んでいった。二人だけで)
 抱き合って死んでいたのが、芝居だったなら、ルーダを疎んでいたはずのシェラは、ルーダと協力し合うことを肯ずるくらいは、ルーダを認めていたということだろうか。それとも、シェラもまた、ルーダに他とは違う感情を抱いていたというのだろうか。
 特別な。特別な、なにか。
 シェラのためなら、ルーダはシェラの望む女天使になってもいいとさえ言った。そんなことは、初めてだった。
 そこにあるのは、なんなのだろう。
 わからない。やっぱり、そんなのはわかりたくもない。
 だけど、もしも本当に、ルーダがシェラと共に天上へと上ったのなら、追いかけるしかない、と思った。
 ルーダがまだ生きていて、そしてシェラが、ルーダに捨てられる可能性が残っていて、自分にも、もしかしたらほんの少し、万が一の望みがあるのなら。
(ううん。もう、ルーダが僕を振り返ることはないって、わかってる。でも、あの女がルーダに捨てられるのを見られるなら、それでいい)
 それで、シェラもやっぱり「特別」なんかじゃなかったと、知ることができるのなら。
「僕は、行くよ」
 唐突に、フィムはアイカに告げた。もう、ふるえてはいなかった。アイカは驚きもせずに、
「そうかい」
 と答えただけだった。フィムがどこに行くつもりなのか、アイカには薄々わかっていたのかもしれない。
 そしてフィムは、アイカと、塔の最上階に背を向けて、あの暗い階段を、今度は逆に辿り始めた。死ぬ気は、またしてもなくなっていた。だが、あの日とは違い、フィムには強い意志が芽生えていた。
 必ず、ルーダとシェラを探して、あの雲の上まで行ってみせる。
 という、強い意志が。


******************************************************


 意識を取り戻した時、シェラの脳裏に浮かんだのは、
(あの女にあたしの印を)
 だった。
 狩人の塔、最上階。狩人の長と呼ばれたアシェの、殺戮のタペストリの裏側にあった隠し部屋にいるはずだった。そこで、下天使たちのリーダーである、智天使のレリエルをその卵ごと殺してやったはずだった。だが、高いヒールの踵で獲物の体に刻みつける刻印を、まだレリエルに印してはいなかった。そうする前に、レリエルを殺す時に受けた傷で、意識を保てなくなったのだ。特に、左の脇腹と右の太腿の傷は深く、薄紅の血が、大きな血だまりを作っていた。
 今、目の前のあるのは、黒い天井。鈍い光沢を放つその天井は、隠し部屋のものだろうか。天井にまで目を配る余裕はなかったから、よくわからない。だが、壁の色は灰色だった。仰向けに倒れたのかどうかさえ、覚えてはいなかった。目線の高さからして、床に寝ているわけではなさそうだ。背中の感触は、固めのベッドの上といったところか。
(でも、どうして) 
 一体誰が、自分をそんなものの上に寝かせたというのか。体に受けた傷は、どうなったのだろう。自分はどれだけ気を失っていたのだろうか。狩人の塔の戦いは、どちらの勝利で終結したのか。幾つもの疑問で思考を満たしながら、シェラは、ゆっくりと顔を左に向けてみた。
 少し離れた位置に、天井と同じ真っ黒な壁が見えた。他にはなにもない。
 次に、反対側に首を巡らせたシェラは、困惑に眉をひそめた。
(ここは、どこ?)
 あの隠し部屋ではなかった。黒革張りのゆったりした椅子が一脚、すぐ傍にある。その向こうには、黒い扉。
 シェラは体を起こそうとした。
「くっ」 
 途端、脇腹に火傷したような痛みが走った。シェラの喉から、無意識に呻き声が漏れる。左手で痛みの中心を押さえると、手の平に、サラッとした布地の感触があった。それは、誰かが、なんらかの形で傷の手当をしたということだろう。シェラは、眉をひそめた。
 それが誰であろうと、誰かに借りを作るのは嫌だった。誰かに弱みを握られることは耐えられない。
 例えば、あの男のように。
 シェラが背の高い一人の天使を思い浮かべた時、シェラの耳に、誰かの近づく足音が響いた。傷口から手を離し、再び痛みが襲ってこないよう慎重に、わずかに頭を起こして、シェラは閉ざされた黒い扉を見つめた。
 嫌な予感がしていた。一番会いたくない相手に、ここで出会いそうな、嫌な予感だ。
 足音が近づき、ノックもなしに無造作に扉が開けられた時、傷を受けていないはずの心臓と、永遠に翼を失った背中の傷痕が疼いた。
「シェラ、気づいたのか」
 厳しい表情でベッドから自分を睨みつけるシェラを見つけ、部屋に入ってきたルーダの顔が、歓喜に輝く。反対に、シェラの表情は、ルーダの声を聞いた途端、更に険しくなった。
「説明して」
 その説明如何では、今すぐルーダを殺しかねないシェラの顔つきに、ルーダは、場違いなほどに嬉しそうに笑った。
「いいね、昏睡状態から目覚めた途端、いつものシェラだ。けど、説明って言っても、なにから説明すりゃいいのかな。なにが知りたい? シェラシン」




   
         
 
<< BACK   NEXT >>