壊れやすい天使 壊れやすい天使  
1章「落ちていた卵」
 
 
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1-07


 昇り始めてみると、階段全体が完全な暗闇ではないことがわかった。扉が開いて、その階の薄い光が滲んでいる場所もあれば、壁が崩れ落ちて、外が見える場所もあった。
 壁がない場所は、階段も半ば崩れ、踏みしめた足元がグラグラと不安定に揺れた。地上からはかなり遠く、そこから落ちたら、おそらく望み通りに命を絶てただろう。
 フィムはそこで少し立ち止まった。息が、あがっていた。肺が、乾いてヒリヒリしている。細い太腿と脹脛が、小刻みに痙攣していた。五十九階の半分くらいは上っただろうか。
 フィムは、痛みと苦しみを訴える体を無視して、暗く淀んだ都市を見下ろした。
 空は今日も、厚く重苦しい雲に覆われ、地上を灰色に包んでいる。自分のような古い天使達だけじゃなく、この地上の全てが、刻々と迫る終わりを迎えようとしている。そんな気がした。
 最早、この世界のどこにも、希望や未来などないのだと。
 ぽっかりとあいた、およそ三階分の壁の穴から遠くを見やり、フィムはふと思った。
(そういえば、あの青い飛行船って、今はどこにあるんだろ)
 卵人狩が近づく時、幻のように空を泳ぎ渡った青い飛行船。
 この世界では、あんなものは失われて久しく、前時代の遺産として、奇跡的に動かすことのできた、たった一つの飛行船。燃料の備蓄も残りわずかで、狩りの宣伝をする時以外は、どこかに厳重に保管されていると聞いたことがある。
(あれもやっぱり、燃えちゃったのかな)
 今頃になって、なぜそんなことを思いだしたのか。灰色の空をこんな高みから眺めて、こんな景色をあの飛行船も見ていたのかと、無意識に考えたのかもしれない。
(どうでもいいよね、今更)
 フィムはわずかに首を振り、再びゆっくりと昇りはじめた。


 終わりはないのかと思わせる、長い階段だった。
 三度、休息を入れた。暗い階段に座り込んで、乱れた呼吸が整うのを待つだけの、短い休息だった。昇っている間も、休んでいる間も、なにも考えなかった。自分はどうしてここにいるのだろう、だとか、どうして頂上を目指しているのだろう、だとか、辿り着いたらどうするつもりなのだろう、だとか、余計なことはなにも考えなかった。考えるということは、沼地に似ている。悩んで、もがいて、必死になればなるほど、深みにはまって動けなくなるのだ。そして最後には、飲み込まれて死ぬ。
 フィムは、上り続けた。そして、遂に最後の一段を踏みしめた時、不思議に体が軽くなった気がした。
 階段は終わったが、ここが最上階ではなかった。最上階へ通じる階段はない。直通エレベーターが一基あるだけだったが、勿論、今は使えない。だが、下天使と地天使が激しくぶつかりあったあの日、天井に穴をあけて、最上階へと通じる階段を、そこらの家具で作ったはずだ。フィムはその場所を見に行ったが、黒焦げの廊下には、炭化した黒い塊が積もっているだけだった。
 暫くその階をウロつきまわり、やけに広々とした部屋に辿り着いた。窓ガラスが割られ、ひんやりとした風が吹き込んできていた。
 フィムは、誘われるように窓際に歩み寄り、
「それ以上は行かない方がいいね」
 突然背後からかかった声に、反射的に腰の弓に手をかけて振り返った。
 そこに、黒い煤けた壁に溶けこむようにして、一人の天使がいた。たぶん天使だ。薄汚れて、長い黒髪に覆われた姿は、まるで卵人のようだと思われても仕方がないものだった。
 入った時に気配はなかった。いや、気配を感じることを、忘れていたのかもしれない。
 フィムは弓から手を離さずに、相手を睨みつけた。
「死にに来たんなら、止めやしないけどね」
 ぞんざいな口ぶりとその声に、フィムの記憶の一部が、かすかにふるえた。
 目を眇め、探るようにその汚れた黒い姿を見つめる。やがて、一つの名前が深い記憶の海から浮かび上がった。それは、共に狩人として、同じこのビルに住まい、卵人や、時に天使を狩った仲間だった。仲間といっても、親しかったわけではない。寧ろ、フィムの嫌う女天使と親しかったはずだ。
「アイ……カ?」
 フィムの問いかけに軽く肩を竦め、壁際からゆっくりとフィムの方に歩み寄ってくる。近付くにつれ、自分の記憶に誤りはなかったと確信した。
「あんたは……フィムだね」
 すっかり伸びきった前髪の向こうで、アイカの瞳に理解の光が点った。
「生きて、たんだ」
「そうなのかもしれないね」
 曖昧に言って、アイカはフィムの目の前までやって来ると、不思議そうな顔でフィムを見下ろした。
「あんたもどうやら死に損なったみたいだけど、なんでここにきたんだい?」
 死にに来たのだとは、言えなかった。先程アイカが言った、「死にに来たなら止めやしない」という言葉がひっかかって、正直に言えなかった。やっぱり。と、アイカの顔に得意げな表情が浮かぶのを見たくなかった。
「別に。なんとなくだよ。あんたこそ、なんでこんなとこにいるのさ」
「なんとなくで、わざわざご苦労なこったね。あたしは、そう、待ってるのさ」
 皮肉めいた言い様に、一瞬頭に血が上ったが、その先の言葉に、思わず聞き返していた。
「待ってる?」
 アイカは、くしゃくしゃの髪を更に片手で掻き乱しながら、少し目を伏せた。
「もしかしたら、戻ってくるんじゃないかと思ってね。望み薄なのはわかってる。けど、どうしても答えを知りたいのさ。後はもう、なにもないからね。ここは、一番近いからさ」
「なんの話?」
 アイカの言っていることは、何一つわからない。もしかしたら、アイカにもわかっていないんじゃないかとも思う。
(壊れてんのかもね。こいつも)
 フィムの内心の呟きを見透かしたように、アイカはちょっと眉をあげ、口の端を歪めた。
「そういえば、あんたにも興味あることかもしれないね」
「僕に、なにが」
「あんたがまだ、ルーダのことを忘れてないんなら、だけどね」
 一瞬、息が止まった。体が石のように強張り、猫ような大きな目だけが、衝撃に見開かれる。声が、でない。口の中は、階段を上っていた時のようにカラカラだ。
 アイカは、ショックに凍りついたフィムを眺め、心得顔に薄く微笑んだ。
「どうやら、忘れてないみたいだね」
 その、同情すら匂わせるような口調に、フィムは弾かれたように我に返った。
「あんたに、それが関係ある? 僕が誰を覚えてようと、あんたには関係ないでしょ」
「関係ないね。教えなくても、あたしの心は痛みやしないし、どっちでもいいさ」
「痛むような心なんて、持ってんの?」
 自分には必要ない。天使には、少なくとも狩人と呼ばれた天使達には、そんな心など必要なかったはずだ。

『あんたは、死なないでよ』

 どうして、今ここでキリカのことなんて思い出すのだろう。キリカのことで、心が痛んだとでもいうのだろうか。
 そんなはずはない。
 そんなこと、あるわけがないと、強く思った時、今度はルーダの言葉が脳裏をよぎった。

『俺のこと好きだっつっても、女にはなれない程度でしかないんなら、俺のことは諦めて、他に相手を探せよ』

 ルーダの言葉に、傷ついたのはプライドで、心なんかじゃなかったはずだ。心なんて、踏み躙る相手にあれば面白いだけのものだ。
(ねぇ、そうでしょ?)
 胸の内に問いかけるが、無論、答えなどない。
 アイカは、フィムの尖った切り返しなど初めから聞こえなかったように、淡々とした口調で、けど、と先を続けた。
「あんたは噂を聞いたこともないのかい? あたしがあの日、見たものをさ」
「あんたがなにを見たって? 言いたいことがあるなら、さっさと言ってよ」
 勿体つけた遠回しな言い方は、うんざりだった。フィムは苛立ちを隠そうともせずに、アイカの答えを促した。ほんの少しだけ、胸の奥に疼くような予感がある。それが、期待なのか恐れなのか悲しみなのか、フィムにはわからなかった。
 アイカは、フィムの頭越しに、窓の外を見やった。暗い色をした空と、厚くたれこめた雲。
 そしてアイカは、フィムの方を見もせずに、独り言のように静かに語りはじめた。
「あたしは、別働隊として塔の外にいた。最上階への攻撃を仕掛ける前に、塔の外にあいつらが逃げださないよう、見張るためにね。近くで一番高いビルの屋上にのぼって、塔のてっぺんを見ていたんだ。この塔が燃えるのも、空から黒い花びらみたいに無数の天使が墜ちてくるのも、全部見てたのさ。他にも見張りはいたけど、空から降ってきた下天使の群れに潰されたか、焼かれたか、逃げだしたか、今の今まで見かけたことはないよ。けど、あたしはみんな見てたんだよ。黒い天使の雨の中、この塔が松明みたいに燃えあがる寸前、最上階から飛びだした天使をね。その天使は、一人じゃなかった。死んでるのか気絶してるのかまではわからなかったけど、天使を一人、腕に抱えて、あの灰色の雲の中に突っ込んでいったよ。あたしは、自分の視力には自信があるよ。確かに遠目だったから、絶対とは言い切れない。だけど、あのシルエット。いいや、それだけじゃないよ。長いこと見てきたからね。遠くからでも雰囲気でわかるのさ。あんたにこの感覚、わかるかねぇ。直感っていってもいいのかもしれないけど、あたしにはわかったのさ。その二人が、シェラとルーダだってね」




   
         
 
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